思い出のプロ野球選手、今回は金山 卓嗣選手です。 

 

1970年代から80年代中盤にかけて中日の控え捕手として活躍し、当時の中日には木俣達彦、中尾孝義という固定の絶対的存在が捕手として君臨していた中、その穴を埋めていた選手です。

 

【金山卓嗣(かなやま・たくじ)】 

生年月日:1951(昭和26)年10月30日

入団:中日('69・ドラフト7位) 
経歴:中京商高-中日('70~'85)

通算成績:317試合 打率.199 92安打 19本塁打 48打点 1盗塁

位置:捕手 投打:右右 現役生活:16年
規定打席到達:なし

 ※1979年 金山仙吉から金山卓嗣へ

 

 

個人的印象

1984(昭和59)年の活躍が印象的でした。

当時中日の捕手としては、やはりMVPを獲った事もある中尾孝義選手の絶頂期でもあり、それ以外の捕手が全く浮かばないほどの印象でしたが、中尾選手はとにかくケガで故障しがちであり、控え捕手の存在が絶対的に必要な状況でした。

その時にこの金山選手が出てきて、中尾選手の穴を埋めていました。

当時既に33歳になっていて、中尾選手よりかなり年上で「こんな選手いたんだ知らなかった」となりました。コワモテで存在感のある選手だったのをよく覚えています。

そんなに打つ印象はなく打率も低いですが、一発のある選手で、通算92安打で100本もヒットを打っていませんが、うち19本もホームランを打っています。

 

プロ入りまで

 高校は岐阜県の中京商業高校(現·中京高)で、愛知県の現在・中京大中京高校を名乗る高校とは別であり、昔よく混同されていました。

岐阜県の中京商業⇒現・中京高校

愛知県の中京高校⇒現・中京大中京高校

となっているので、昔の校名を知っていると余計ややこしくなっています。
とにかく、当時の岐阜・中京商から初めてのプロ野球選手になったといい、1969(昭和44)年のドラフト会議で中日ドラゴンズから7位指名を受け入団しています。

この年のドラフト1位は谷沢健一選手で、他に活躍した選手として4位に松本幸行投手がいました。

 

木俣の控え

入団は高校卒業後の1970(昭和45)年で、当初の背番号は「50」でした。

一軍に初めて上がったのは4年目の1973(昭和48)年でしたが、1試合の登録のみで出場した事にはなっておらず、偵察メンバーだったのかもしれません。

初出場とされているのは5年目1974(昭和49)年で、この年は7試合の出場で3打数1安打(打率.333)で、1安打だけでしたがこれがプロ初安打となりました。

この年チームは優勝していますが、この成績で戦力にはなっていない中、チームの優勝パレードで沸いた裏で若手主体で臨んだシーズン最終戦に出場し、当時現役引退を表明していた長嶋茂雄選手の最終打席にはマスクを被って出場し、その最後の晴れ舞台に立ち会っていました。

 

当時の中日捕手陣は、木俣達彦という絶対的な捕手がいて、長年にわたって規定打席に到達し続けている状況で、これに続いてはベテランの新宅洋志という捕手もいて、なかなかつけ入る余地がありませんでした。

 

1976(昭和51)年、プロ7年目にしてようやく、初打点・初本塁打を記録し24試合で16打数3安打(打率.188)で1本塁打2打点を記録しています。この年から背番号を入団時の50から「44」へ変更しています。

 

新宅捕手に衰えが見えた頃に少し出番が増え、1977(昭和52)年には40試合に出て66打数14安打(打率.212)で3本塁打7打点と、少し戦力となった感がある活躍を見せました。

翌1978(昭和53)年も同程度の出番を得て、37試合で69打数13安打(打率.188)でしたが、6本塁打13打点と打力でアピールする結果となりました。13安打のうち実に6本がホームランで、13打点を稼ぐという、本塁打・打点ではこの年がキャリアハイとなりました。

 

1979(昭和54)年は、それまでの金山仙吉から金山「卓嗣」と改名して臨みましたが、一軍に上がった1973年以来初の一軍出場なしに終わり,1980(昭和55)年に2年ぶりに一軍に上がったものの、44試合に出ながら23打数2安打(打率.087)1本塁打1打点でした。

 

中尾の控え

1981(昭和56)年は30歳を迎えましたが、2年ぶりに一軍出場なしに終わりました。

この年には中尾孝義捕手が入団し、即戦力として新人の年から大活躍し、それまでの絶対的なレギュラーだった木俣選手の高齢化もあり、一気に定位置から追いやる形で、木俣選手が控えに回る格好となりました。しかしこの2人がいては金山捕手に出番がない、というものでした。

木俣選手の衰えが定位置獲りのチャンスでしたが、相手が「捕手に革命をもたらした存在」といわれた中尾選手では勝負になりませんでした。

しかも中尾選手は翌1982(昭和57)年にはMVPを獲るほどの活躍を見せ、木俣選手は遂に引退する事となりましたが、金山選手は23試合で47打数13安打(打率.277)で2本塁打4打点の成績でした。この年の中日は8年ぶりのリーグ優勝を遂げ、出番が少ないものの自身2度目の優勝経験となりました。

ここまで一軍デビュー後に一軍出場なしが2度ありましたが、1976年以降は一軍に上がると必ずホームランは打っており、控え捕手ながら7シーズン本塁打を記録しています。

 

1983(昭和58)年は49試合で79打数15安打(打率.190)で2本塁打11打点の成績で、出番としては過去最多となりました。この時プロ14年目32歳でした。

中尾捕手は絶対的な存在感を持った捕手ではありましたが、なにせケガが多く故障がちで、そこが金山選手にとって「つけ入る事の出来る部分」だったと思います。

なので中尾選手のいない時は、打でアピールしながら代役を務めていて、また比較的それ以前より機会にも恵まれる事となっていました。

 

 

84年の活躍

そして1984(昭和59)年、プロ15年目33歳の年に、それまでになく出番に恵まれる事となります。

それまで14年間で50試合以上出た事がありませんでしたが、この年は実に82試合に出場し、150打数31安打(打率.207)で4本塁打10打点の成績を残しました。

この年には、中日はあるゲームで8回まで毎回得点を記録していて、9回も1点をあげれば「全イニング得点」達成の記録がかかっていました。そこで金山選手に出番が回ってきて、この記録のかかった打席でホームランを打って、彼がチーム記録を達成させた事となりました。

 

また。それまでシーズン最高15安打だったのがこの年は31安打、33歳になる控え捕手が表舞台で花開く時だったと思います。中尾選手が戻ってくればまた控えになる、という事を思っていたかどうかは分かりませんが、出てきた時には存在感のある選手でした。ちなみにこの年は犠打も10記録していてチームに貢献しています。

 

 

コーチ兼任、引退

この活躍した1984年が明けて、1985(昭和60)年にはコーチ兼任となりました。

前年にかつてないほどの出番を得ながらコーチ兼任になったのは少々不思議な感がありましたが、この年はトレードで西武から大石友好捕手を獲得した事があったのかもしれません。中尾ー大石体制の捕手陣が敷かれ、この年金山選手は出番がないまま34歳で引退しました。

 

引退後は中日のコーチとして1986~92年まで務めていました。

 

→1985(昭和60)年の選手名鑑より

 中尾捕手の故障により最も活躍機会に恵まれたのが前年の成績に反映されていると思います。
しかしながらこの年はコーチ補佐を兼任する事となり、結局一軍出場がなくそのまま引退しており、結局ここに載っている通算成績がそのまま生涯成績となりました。
形態模写が特技という事でひょうきんな選手だったであろうことを感じます。

        

 

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