思い出のプロ野球選手、今回は「木俣 達彦」捕手です。

 

中日一筋19年で、捕手として五指に入る安打数を記録し、また「マサカリ打法」とよばれる独特の打撃フォームでも有名な選手でした。

 

【木俣 達彦(きまた・たつひこ)】

生年月日:1944(昭和19)年7月7日
経歴:中京商高-中京大中退-中日('64~'82)

通算成績:2,142試合 打率.277 1,876安打 285本塁打 872打点 20盗塁

主な表彰:ベストナイン 5回('69~'71、'77、'79)

記録:オールスター出場8回('70、'71、'74、'75、'77~'80)

節目の記録:安打-1,000安打('74.7.9)、1,500安打('78.8.15)

       本塁打-100号('70.7.13)、200号('76.5.3)、250号('79.7.28)
       出場-2,000試合出場('81.4.30)

 

 

●中日のレギュラー捕手

自分が野球を見始めた頃の中日の正捕手はこの木俣選手でした。

当時小学校低学年で「俣」を「保」に見間違えたりしましたが、この字を「また」と読むんだ、と漢字を覚えさせてももらいました(笑) TVによってこういう事から学んだ事って意外とあるんですよね。

 

●捕手の救世主

1944(昭和19)年生まれの木俣選手は中京商高から中京大学に進学し、中日に入団したのが1964(昭和39)年??

当時主力捕手がトレードで出された等でいなくなってしまい、地元出身で地元の大学野球選手であった木俣選手を大学を中退させてまで中日に入団させたそうで、1年目から56試合に出場し、ホームランこそありませんでしたが24安打9打点を記録しています。

 

●2年目からレギュラー

2年目1965(昭和40)年には132試合に出場し、規定打席に到達、本塁打も10本放って打率こそ.212でしたが、捕手としてレギュラーポジションを掴み、以後1980(昭和55)年までの16年間、一度だけ故障で規定打席未達でしたが、ほぼ一貫して中日の正捕手として君臨、昭和40年代および1970年代はずっと彼が正捕手だった訳です。

 

●マサカリ打法

ロッテの村田兆治投手がマサカリ投法なら、こちらはマサカリ打法な訳ですが、初期の打撃成績が打率をはじめとして芳しいものでなく、1965~66年と2年連続で規定打席に到達こそしていましたが、4年目まで100安打を越えた事がありませんでした。

5年目1968(昭和43)年に初めて100安打越え(109安打)で打率.289をマークし本塁打も初の20本越え(21本)を記録しました。

翌1969(昭和44)年には33本塁打をマーク、更に1970(昭和45)年にも30本塁打と2年連続で30本塁打以上をマークしました。当時捕手でこれを記録したのは南海の野村克也捕手だけで、セ・リーグでは初の快挙でした。
この写真でも分かりますが、かなりの一本足打法でもあり、変則的な打法ですが、これでそれまでの低打率を克服したという事で、誰にどのような打ち方が合うのか?というのは難しいですが、概して捕手にこのような独特の打ち方の選手が多い印象が強いです。(近鉄・梨田捕手、ヤクルト・八重樫捕手など)

 

●初の優勝

木俣選手が入団してからの中日は2位こそ3度あったものの、優勝とは縁遠いチームでした。まして2年目の1965年から巨人のV9が始まるという、そんな時期に在籍していたのもあり、なかなか厳しかった訳ですが、11年目30歳を迎える1974(昭和49)年、遂にそのチャンスが到来しました。

1969年の33本塁打をピークに年々本塁打が減り続けており、1973(昭和48)年は7年ぶりに1ケタ(9本)になってしまいましたが、この年は18本と5年ぶりに増加し、何より初の3割(.322)をマークし打率2位の大活躍でリーグ優勝に華を添えました。

 

●昭和50年代

30歳を過ぎて、1976(昭和51)年も2年ぶりの3割(.302)、翌1977(昭和52)年も2年連続で3割(.310)をマークしており、円熟期に入った感がありました。1978(昭和53)年は惜しくも.294でしたが、1979(昭和54)年は.312と通算4度も3割をマークし、最後の規定打席到達の1980(昭和55)年も.298で、36歳でもここまでずっと正捕手かつ安定した打率を誇っていました。

 

●晩年・引退

1981(昭和56)年、37歳の年に中尾捕手が入団してきました。

それまでもライバルとなる年下捕手等いたと思いますが、全く寄せ付けず、年上の新宅洋志捕手が控えにいた程度でした。

しかし中尾捕手の登場は、プロ野球界における捕手像を革命するレベルで、「走れる捕手」として現れ、あっという間にレギュラーポジションを奪い、それまでバリバリのレギュラーだった木俣捕手もさすがに、彼には正捕手の座を譲らなければならない状況になっていきました。逆にこの年になるまで脅かす相手がいなかったのか、というぐらいでしたが。

1981年は遂に14年ぶりの規定打席未達に終わり、それでも10本塁打を記録していました。

1982(昭和57)年は完全に控えに回り、中尾捕手が完全に正捕手になりチームは8年ぶりのリーグ優勝を決め、MVPまで獲得してしまい、木俣選手の出番は既に無く、寂しい優勝経験となりましたが、この年38歳で引退しました。

 

星野仙一投手と共に優勝を花道に引退となりましたが、星野氏の監督就任時にコーチに招聘されていました。

 

後に伊東、古田、谷繁といったセ・リーグを代表する捕手が登場する前は、途中で西武へ移籍した田淵幸一捕手を除くと、セ・リーグを代表する捕手の一人であり、彼らが居なければもっとすごい存在として語られたと思います。

 

 

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