思い出のプロ野球選手、今回は「岡持 和彦」選手です。
1970年代から80年代後半にかけて、東映から日本ハムまで「最後の東映戦士」として、日本ハムの東京ドーム本拠地時代まで19年間在籍しました。
明るいキャラクターで準レギュラーから代打の切り札としても活躍し、1981年の日本ハム優勝時には日本シリーズでも活躍しました。
【岡持 和彦(おかじ・かずひこ)】
生年月日:1951(昭和26)年9月9日
入団:東映('69・ドラフト6位)
経歴:立教高-東映・日拓・日本ハム('70~'88)
通算成績:1,218試合 打率.260 698安打 78本塁打 332打点 21盗塁
位置:投手⇒外野手 投打:左左 現役生活:19年
規定打席到達:なし
節目の記録:出場-1,000試合出場('86.8.9)
個人的印象
日本ハムの外野手で、明るいムードメーカーとして存在感のあった選手、です。
レギュラーではなく、控えや代打の切り札のイメージが強く、背番号が7で足が速いと思っていましたが、盗塁自体は通算わずか21個で少ないものでした。
また1度くらいは規定打席に到達していると勝手に思っていましたが、通算1,218試合もの出場を果たしている割に一度も到達した事がないままでした。
プロ入りまで
高校は埼玉県の立教高校(現:立教新座高校)で、プロ野球OBは片手で数えられるほどしかいませんが、その中に長嶋一茂選手がいます。またその同期で、岡持選手にとっては日本ハムの後輩にもなった矢作公一選手も同校の出身です。
甲子園には縁はありませんでしたが、速球投手かつ強打者として鳴らし、1969(昭和44)年のドラフト会議で、当時の東映フライヤーズから6位指名を受けて入団しています。
初期キャリア
入団は「投手」としてのもので、背番号は「53」という二軍クラスの大きなものでした。
1年目の1970(昭和45)年から一軍出場機会を得て、シーズンも終わりの10月半ばに初めての登板を果たしますが、2試合で3㌄を投げて1失点(防御率3.00)という記録を残しました。
しかしこの後、一軍登板機会がなく、投手としてはこの1年目の記録がそのまま通算成績として残る事となりました。
野手転向
2年目の翌1971(昭和46)年からは外野手登録となっており、投手は1年で終わりました。
ここから2年間は一軍戦出場なしに終わります。
入団した東映が身売りし「日拓ホーム」になった1973(昭和48)年、入団4年目のシーズンにようやく外野手としての一軍戦デビューを果たします。
この年33試合に出て32打数7安打(打率.219)で2本塁打7打点の成績でしたが、7安打で7打点と勝負強い面を見せ、初安打がホームランとなり、阪急のエース・米田哲也投手から打った事を「思い出」として挙げています。
日本ハム
1974(昭和49)年、チームは「日本ハムファイターズ」となります。
この年本格的に台頭し、80試合に出場し175打数41安打(打率.234)で1本塁打10打点の成績で、前年は先発出場がありませんでしたが、この年からスタメン出場機会を得ようになり、外野を守り1、2、5、6番を打っていました。
その後昭和50年代に入って以降は、先発出場をしたり途中出場をしたりしながらのキャリアを長年積み重ねていく事となります。
1975(昭和50)年は初めて200打数を越えて、88試合で224打数61安打(打率.272)で7本塁打25打点をマークします。
1977(昭和52)年は、背番号がそれまでの「53」からレギュラークラスの「7」になりますが、初めて300打数を越えて、305打数86安打(打率.282)をマークし5本塁打27打点をマーク、打数と安打はこの年がキャリアハイとなり、出番的に最も多かったといえ、出場は初めて100を越え108試合でした。
ちなみに規定打席到達は一度もありませんでしたが、100試合以上出たのも2回だけでした。
1978(昭和53)年は、160打数48安打、3本塁打17打点と前年のほぼ半減の形となりますが、打率としては.300をマークしています。
唯一のリーグ優勝
その後は150前後の打席に立ち、そこそこの数字を記録し続けますが、30歳になる1981(昭和56)年は、19年間の現役生活でたった一度だけのリーグ優勝を経験できた年でした。
シーズン中は出番が少なく41試合のみの出場で、日本ハムになって台頭した1974年からの引退するまでの15年間では最も少ないものでした。89打数28安打で打率は実に.315でしたが3本塁打12打点という寂しいものでした。
巨人との日本シリーズでは第1戦に加藤初投手から、8回に同点ホームランを打っており、ここで同点に追いついた事で9回のサヨナラ勝ちに結びつく殊勲の一打となりました。10打数2安打でしたが、先発に代打に全試合出場していました。
80年代
その後のハイライトとしては34歳になる1985(昭和60)年に、8年ぶりに100試合以上に出て300以上の打席に立ちました。
キャリアハイの115試合に出て、292打数85安打(打率.291)で10本塁打46打点と、本塁打、打点もここへきてキャリアハイをマークしました。34歳にして最高のシーズンを送ったといえると思います。
1986(昭和61)年は通算1,000試合出場を果たしています。
好不調というか出番のあるなしも結構波がありましたが、1987(昭和62)年36歳になる年は好調で、97試合に出て243打数75安打(打率.309)で9本塁打36打点と存在感を示し、72試合に先発出場しています。
東京ドームへ移転した最後の東映戦士
1988(昭和63)年には、巨人と共に日本ハムは、それまでの後楽園球場から初のドーム球場である東京ドームを本拠地としてシーズンを迎えました。
この年も実に92試合に出場し、うち75試合にも外車守備で先発し37歳にして健在ぶりを見せましたが、243打数でわずか44安打、打率.181となり、4本塁打28打点は記録したものの、思うようなバッティングができなくなったという事でしょうか、この年限り37歳で引退しました。
彼の引退により「東映フライヤーズ」に在籍した選手がすべて引退した事となりました。東映、日拓、日本ハムの3球団に在籍していた選手はそこそこいましたが、この3球団に所属し、かつ東京ドームを本拠地としてプレーした選手は岡持選手ただ一人です。
そういう意味では、規定打席には一度も到達していないながら、19年間もプロ生活を送ってきて得た勲章ではないかと思います。
引退後は数年間日本ハムでコーチを務めていました。
→1985(昭和60)年の選手名鑑より
長らく独身であった為、家族欄は理想の女性が記されていました。
麻雀が相当好きだったようで、また愛車がフェアレディZというのも時代を感じます。