思い出のプロ野球選手、今回は栗橋 茂選手です。 

 

1970年代後半から80年代にかけて近鉄の主力選手として活躍し、特に1979、80年の連続優勝に大きく貢献した選手で、筋肉質のその身体は和製ヘラクレスと称された人気選手です。

 

【栗橋茂(くりはし・しげる)】 

生年月日:1951(昭和26)年8月10日

入団:近鉄('73・ドラフト1位) 
経歴:帝京商工高-駒大-近鉄('74~'89)

通算成績:1,550試合 打率.278 1,301安打 215本塁打 701打点 105盗塁

位置:外野手 投打:左左 現役生活:16年
規定打席到達:8回

タイトル:最高出塁率 1回('80)
表彰:ベストナイン 3回('79、'80、'82)
   月間MVP 1回(1980年7月)

記録:サイクルヒット 1回('85.5.21)

   オールスター出場 4回('78、'80、'82、'84)

節目の記録:出場-1,000試合出場('83.10.2)、1,500試合出場('89.4.13)

      安打-1,000安打('85.4.16)
      本塁打-100号('80.10.5)、150号('83.8.19)、200号('86.8.1)

 

 

個人的印象

近鉄のリーグ優勝時の主力外野手で、ヘラクレスと呼ばれた筋肉質で、日本人選手で「筋肉」のワードで自分が連想した最初の選手で、豪快なイメージがありました。近鉄の背番号「2」といえば、真っ先に思い浮かべる選手です。

 

 

プロ入りまで

高校は東京の帝京商工というところで、現在は帝京大学高校というそうですが、あの

帝京高校」とは別の学校であり、甲子園出場歴は現在もありません。

ここから駒沢大学へ進学しますが、前記事の木下富雄選手は同級生でした。

大学での戦績は木下選手同様華々しく、優勝経験も豊富で、外野手としてベストナインも受賞しています。

1973(昭和48)年のドラフト会議で、当時の近鉄バファローズから1位指名を受けて入団しました。木下選手も広島へ同じくドラフト1位入団しており、駒大から複数のドラフト1位入団者を生み出した年となりました。

 

 

初期キャリア

ドラフト1位入団で、背番号は「2」を与えられ、以来引退まで一貫してこの番号を背負う事となりました。

1年目1974(昭和49)年は二軍のジュニアオールスターでMVPを獲得し、一軍では55試合の出場で73打数13安打(打率.178)で1本塁打4打点の成績でした。

ちなみに初打点をあげたのは太平洋戦で、翌年からチームメイトとなる同級生・柳田豊投手から押出し四球を選んでのものでした。

2年目1975(昭和50)年もほぼ同等の出番、成績でした。

 

 

台頭

戦力として台頭してきたのは3年目1976(昭和51)年で、初めて100試合を越える101試合に出場し、267打数67安打(打率.251)で6本塁打24打点をあげました。打率が1割台が2年続きましたが、ここでようやく2割を越えました。

 

この年から先発出場試合が飛躍的に増え、それまで10試合以下だったのがこの年は半分の65試合にまで増えましたが、いわゆる偵察メンバーを当てられた後での先発機会が多く、固定的な感じではなかったようで、この年だけで先発で4番以外の全打順を経験しています。盗塁は初の2ケタ「11」をマークしていますが、この年から4年連続で2ケタ盗塁をマークしており、個人的にあまり盗塁のイメージはなかったですが、意外と?コンスタントに走っていて、通算で105盗塁を記録しています。

 

1977(昭和52)年は規定打席までもう一息、のところまで到達し113試合に出て319打数84安打(打率.263)で13本塁打39打点と、初の2ケタ本塁打を記録しました。

打席は356で、規定打席まであと47というところでした。前年唯一なかった「4番での先発出場」を初めて経験しました。

 

 

レギュラー定着、2度の優勝

初めて規定打席に到達したのが5年目の1978(昭和53)年で、128試合に出て425打数124安打(打率.292)で20本塁打72打点と活躍しました。安打は初の100安打越えで、本塁打は初の20本台で、以後3年連続で20本以上を記録します。この年は初めてオールスターにも出場しています。

 

そして1979(昭和54)年は初の近鉄優勝に沸きますが、自身も唯一の130試合フル出場を果たし、446打数130安打(打率.291)で32本塁打80打点と輝かしい成績を挙げ、近鉄の初優勝に大いに貢献しました。

ホームラン30本を越えたのはこの年のみで、またこの年初めてベストナインを受賞しました。

広島との日本シリーズでは常時先発出場するも、前半はほぼ四球での出塁となり、第6戦になってようやくヒットが出ました。ちなみに第7戦の「江夏の21球」の時は、前の回に代打を出されてベンチに戻っていました。

 

そして1980(昭和55)年もリーグを制覇し、124試合に出て436打数143(打率.328)で28本塁打84打点と、またもや素晴らしい成績で近鉄の優勝に貢献しました。

打率.329はリーグ3位の好成績で、現役生活唯一のタイトルとなる「最高出塁率」を獲得しました。打点84はキャリアハイで、またオールスターに2年ぶりに出場し、ベストナインに2年連続で選出されるなど、彼の野球キャリアはチームの隆盛と共に絶頂期を迎えていたといえます。

ただし日本シリーズでは前年同様あまり活躍はできず不振にあえぎ、代打で出た第6戦に本塁打を放っています。次に日本シリーズに出るのは引退する1989年で、この時にはほぼ出番がなく、主力として出た最後のシリーズになっています。

この年通算100号本塁打をマークしました。特にこの直近2年で60本をマークしたのが大きく影響しています。

 

30代のキャリア

1981(昭和56)年は30歳になる年ですが、この時は92試合出場に終わり、278打数73安打(打率.263)で11本塁打41打点と、前年のほぼ半減でした。

この年はチームがそれまでの2連覇から一転し最下位に転落し、投打とも戦力的に大幅にダウンし、それまでの主砲・マニエル選手が抜けた穴があまりにも大きかったというところです。

 

1982(昭和57)年からは5年間は安定したレギュラーとして実績は積み重ねていきますが、1984(昭和59)年くらいから全盛は過ぎた感が数字からは窺えました。

1982~1983年は本塁打20本台で打点70台、以後の3年間は本塁打15本前後打点は50台と顕著に数字に表れています。

1982年は規定打席到達全8回のうち、最後(2回目)の3割到達で、383打数119安打での打率.311で、打撃ランキングの3位でした。この年、最後のオールスター出場とベストナイン受賞となりました。

 

以後は節目の記録を数々とマークしまますが、1983(昭和58)年は通算1,000試合出場と150号本塁打を達成します。

1985(昭和60)年は通算1,000本安打を記録し、また「サイクルヒット」も記録しました。サイクルヒットは1983年に山本浩二選手(広島)が達成して以来2年以上記録がありませんでした。またパ・リーグでは1982年の松永浩美選手以来2年半以上ありませんでした。

通算100盗塁もこの年でした。受賞などの華々しい勲章を手にした最後の年といえるかもしれません。

 

 

現役晩年

1986(昭和61)年、35歳の誕生日直前に通算200号本塁打を達成しましたが、この年を最後に、以後規定打席には到達しなくなります。100安打以上、2ケタ本塁打もこの年が最後となりました。

1987(昭和62)年は故障などあって前年の半分ほどの出番にとどまり既に36歳、以後少しずつ出番が減り、この年こそ打率.298でしたが、以後は1割台へと推移し、1988(昭和63)年はパ・リーグ優勝のかかった「10.19」のロッテ戦ダブルヘッダーがありましたが、2試合とも代打で出たのみで既に控えに回っていて、近鉄のベテラン勢はこの年で引退した選手と翌年に引退した選手が多く、栗橋選手はこの年は現役続行となりました。

 

1989(平成元)年、前年の「10.19」の激戦もむなしく優勝を逃した近鉄でしたが、西武、オリックスとの激闘の末、実に9年ぶりのリーグ優勝を果たしました。この前年に引退したベテラン選手は無念だった面もあると思いますが、残った選手は花道になったと思います。

シーズン成績は53試合出場で75打数14安打(打率.187)で2本塁打13打点、シーズン初めに通算1,500試合出場を果たしました。

9年ぶりに迎えた日本シリーズ、初の巨人との対決になりましたが、この時にはもうすっかり世代交代していて、10年前に出ていた選手はほぼいなくなっており、他に出ていたのは羽田耕一選手(この年引退)、村田辰美投手(この年退団、翌年引退)など、自身と共にこの年限りで近鉄を去る選手ばかりでした。

この日本シリーズ3連勝の後に4連敗で敗れる歴史的なシリーズでしたが、この舞台を最後に38歳で引退しました。

 

 

引退後はテレビ朝日など、解説者を中心に活動し、かつてのホーム球場のあった藤井寺市でスナック経営をするなど現在も健在ぶりが窺えます。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村