思い出のプロ野球選手、今回は有田 修三選手です。 

 

1970年代中盤から90年代初めまで近鉄や巨人などで活躍し、近鉄では梨田昌孝選手と常に併用されながら、エースの鈴木啓示投手が自分の投げる時には必ず指名する捕手でもあり、チームに常に強力なライバルがいてレギュラーでも控えでも活躍できる捕手でした。

 

今回から1951(昭和26)年生まれの選手を記事UPしていきます。

 

【有田 修三 (ありた・しゅうぞう)】 

生年月日:1951(昭和26)年9月27日

入団:近鉄('72・ドラフト2位) 
経歴:宇部商高-新日鉄八幡-近鉄('73~'85)-巨人('86~'89)-ダイエー('90~'91)

通算成績:1,313試合 打率.247 763安打 128本塁打 430打点 16盗塁

位置:捕手 投打:右右 現役生活:19年
規定打席到達:1回('76)

表彰:Gグラブ賞 2回('75、'76)、カムバック賞('88) 

オールスター出場:2回('76、'78) 

主な記録:両リーグで2ケタ本塁打   

節目の記録:出場-1,000試合出場('84.7.5)

      本塁打-100号('84.8.24)

 

 

 

個人的印象

近鉄時代の「ありなしコンビ」として、特に鈴木啓示投手の専属捕手としての存在感が印象的でした。

常にライバルだった梨田昌孝捕手がイケメン風ならば、有田捕手はちょっとイカツい系でキャラクター的にも対照的でした。

巨人へ移籍した年の闘志あふれるヘッドスライディングも印象的でした。

所属チームが違ったらレギュラー獲れる捕手なのにな…と思って見ていた時期もありました。

 

 

プロ入りまで

高校は山口県の名門・宇部商業高校で、2年夏に山口県大会の決勝まで進みながら惜しくも敗退し、3年夏には初戦敗退したものの甲子園出場を果たしています。

2つ上のお兄さんがやはり宇部商業で、プロでも広島に入り一軍で通算17試合に登板し1勝だけ挙げていました。現役では1年だけ兄弟同時プロ選手として被りましたが、有田選手の入団した年にお兄さんが引退しています。

社会人の新日鉄八幡へ進み、毎年都市対抗に出場して活躍し、1972(昭和47)年のドラフト会議で近鉄から2位指名を受け入団しました。ちなみにこの時の1位は「ジャンボ」の愛称で親しまれ、後に投手から野手へ転向した仲根政裕選手でした。

 

 

初期キャリア

入団時に与えられた背番号は「24」と一軍クラスの番号でしたが、近鉄時代は一貫してこの番号を背負い続けました。

ルーキーイヤーは1973(昭和48)年で、この年は17試合に出て5打数1安打(打率.200)のみで打点0でした。

2年目の1974(昭和49)年から一軍に定着し、75試合に出て79打数13安打(打率.165)と低調でしたが、2本塁打7打点と初本塁打&打点を記録し、先発マスクもいくつか被りました。

近鉄時代の終生のライバル、梨田昌孝捕手は2つ年下ながら1年前に同じドラフト2位で高卒入団しており、梨田選手が先に台頭していた事もあり、入った時から「梨田の控え」という状況でした。

 

 

最も出番の多い時期

3年目1975(昭和50)年からの4年間は、出番的に最も出番の多い時期で、4年間のうち3度300打席を越え、うち一度はプロ生活19年間で唯一の規定打席到達を果たしました。

その1975年は初めて100試合以上に出場し、320打数83安打(打率.259)で7本塁打28打点の記録を残し、梨田選手から正捕手の座を奪っていたといえる状況で、梨田選手は実績をあげられない状況で、この時期に色々と試合を見ながら研究し、打力も磨いて独特の「こんにゃく打法」が生まれたともいいます。

この年は初めて実質的なレギュラークラスの活躍を見せ、規定打席不足ながらGグラブ(当時はダイヤモンドグラブ)賞を初受賞しました。

 

1976(昭和51)年に先述の現役生活唯一の規定打席到達を果たし、124試合に出場し418打数96安打(打率.263)で6本塁打40打点をあげました。惜しくもシーズン100安打は達成する事がありませんでしたが、この時期が彼の絶頂期だったといっても過言ではないと思います。初のオールスター出場と2年連続のGグラブ賞を受賞しています。

 

1977(昭和52)年はやや出番を減らしますが、1978(昭和53)年は最後の300打数越えで、やはり最後の100試合以上の出場(114試合)で、318打数82安打(打率.258)で初の2ケタ10本塁打に43打点を記録します。打点43は1984(昭和59)年と並んでキャリアハイでした。この年は2年ぶりにオールスター出場を果たしますが、オールスターはこれが最後となりました。

 

 

ありなしコンビと優勝

1979(昭和54)年からは梨田選手の起用の方が多くなりますが、有田梨田の「ありなしコンビ」として本格的に併用されるようになり、またこの形が近鉄の球団創設以来の初優勝をもたらし、翌1980(昭和55)年も連続でリーグを制覇します。

有田選手は1979年こそかなり出番を落としますが、1980年以降は安定して250前後の打席を得て、捕手併用の状況を生き抜いてきました。

 

この時期の近鉄は「レギュラーを張れる捕手が2人もいる」として、毎年のように他球団からトレードの申入れがあったというほど、充実したコンビでした。

鈴木啓示投手は有田捕手を指名し、井本隆投手は梨田捕手を指名するなど、専属制度もこの併用のメリットでもありました。2人の捕手からすると常に中途半端な出番と成績、というのがあったと思いますが…。

 

この連覇での日本シリーズでは、79年は第2戦に先発出場し、両チーム0-0から7回に近鉄の猛攻で4点を挙げて4-0にしますが、2-0からの2ランホームランを広島・江夏豊投手から放ち、ダメ押しとして勝負を決定づけました。第4戦では代打でソロホームランを放ち、シリーズ2本塁打を記録しています。

80年は第5戦でダメ押しのヒットで打点を記録しています。

専属指定してくれる鈴木啓示投手が両年とも第2戦で初登板していたので、ここで初めて先発マスクを被る格好でした。

 

シーズン成績は79年は落としますが、80年は204打数63安打と打数は少ないものの初の3割(.309)をマークし、16本塁打37打点と打棒でも存在感を見せました。

 

 

その後の近鉄時代

2年連続リーグ優勝を達成し、30歳を迎える1981(昭和56)年のシーズンは一転してチームが最下位に沈み、自身は237打数58安打(打率.245)で7本塁打31打点でした。

その後1982(昭和57)年から1984(昭和59)年まで200前後の打数で、1982年は最後の300打席越え(312打席)となり、3年連続で2ケタ本塁打(12、17、14本)を記録し、1984年は通算1,000試合出場と通算100号本塁打を達成する節目の年となりました。

 

規定打席到達が1度しかないのに、これらの節目の記録を達成するというのは、いかにずっとレギュラーに近いレベルで試合に出て活躍したかという事ですね。他球団にいたらバリバリのレギュラーだった、と梨田選手共々言われていましたが、逆に互いに強力なライバル関係にあったからこそ監督が併用を考え、また切磋琢磨できたのかな?とも感じます。

 

しかし1985(昭和60)年は大幅に出番を減らし、44試合で81打数21安打(打率.259)で4本塁打17打点に終わりました。この年はシーズン途中にエースで専属捕手にしてくれる鈴木啓示投手が突然引退して出番を失い、また34歳という年齢もあってか、遂にトレードに出される事となりました。

 

 

巨人で奮闘

この時のトレードはいわくつきのものでしたが、元々は巨人の定岡正二投手との交換トレードが成立する運びでしたが、定岡投手はこれを固辞して引退してしまい、代わりのトレード相手を探す事となり、代打の切り札だった淡口憲治選手らに決まり、1986(昭和61)年から巨人へ移籍となりました。背番号は初めてのひとケタ「9」になりました。

 

巨人は山倉和博捕手頼みの状況で、捕手の補強をしたかったようで有田選手に白羽の矢が立った訳ですが、交換相手が引退するという前代未聞の事態でした。

この年は山倉選手とのまたも併用で、68試合に出て144打数31安打(打率.207)でしたが7本塁打20打点と35歳にして移籍初年度にまずまずの活躍ができました。

 

中でも、シーズン終盤9月8日の大洋戦、同点で2死1、3塁の状況でまさかのセーフティスクイズを見せて、決して早いとは言えない足で一塁まで全力疾走、最後はヘッドスライディングでセーフをもぎ取り、勝利を決めた試合は王監督がその闘志あふれるスピリットを高く評価していました。

 

1987(昭和62)年は山倉選手が神がかり的な活躍を見せ、チームは4年ぶりのリーグ優勝を果たし、またMVPまで獲る大活躍をしてしまった為、有田選手にはなかなか出番が回ってこず、わずか30試合で37打数6安打(打率.162)で2本塁打5打点に終わり、36歳という年齢も崖っ淵の状況となりました。

 

しかし1988(昭和63)年は、前年MVPを獲った山倉選手の度重なる故障を受けて出番が回ってきて74試合で202打数59安打(打率.292)で12本塁打40打点と37歳にして活躍し、カムバック賞を受賞しています。

巨人でも2ケタ本塁打をマークし、これが最後ではありましたが、両リーグで2ケタ本塁打を達成する事となりました。

 

なかなか一本立ちしてレギュラーにはなれなかったものの、正捕手が故障するとしっかりレギュラークラスの活躍を見せられるところが有田選手の強みだったと思います。

 

1989(平成元)年は中日から中尾孝義選手が移籍してきて、巨人は30代の捕手が乱立する状況となりましたが、結局は中尾捕手が活躍した為、2年前と同じ30試合出場で、64打数15安打(打率.234)で本塁打は遂に0となり5打点のみでした。結果的に前年1988年の12号が現役最後のホームランとなりました。

 

巨人では4年間で2度のリーグ優勝、1度の日本一も経験しましたが、皮肉にも優勝した年は他の捕手が活躍し、89年日本一の時にも日本シリーズ出場がなく、巡り合わせがあまり良くありませんでした。

 

 

最後はダイエーで

巨人で捕手の乱立もあり、1990(平成2)年からは金銭トレードで発足2年目の福岡ダイエーホークスへ移籍し、ここではコーチ補佐兼任として在籍しました。背番号は「22」でした。

この年は36試合に出て、33打数8安打(打率.242)で0本塁打3打点と39歳という年齢からは致し方なく、また選手としてよりもコーチ補佐としての役割を期待されたものと思います。ただ開幕スタメンマスクは有田選手が被っていました。

選手としては実質的にここまでで、翌1991(平成3)年はコーチ業優先となったのか一軍出場のないまま、40歳で引退しました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より
 近鉄で最後の年となりました。
 梨田ともう一度優勝!のところに、当時の近鉄捕手陣体制がよく表れています。

 

        

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村