思い出のプロ野球選手、今回は「鈴木 葉留彦」選手です。
昭和50年代を中心に太平洋から西武日本一までライオンズ一筋で現役生活を送った数少ない選手のひとりで、西武に在籍していた野村克也捕手が引退を決めた時に立っていた打者として度々名前が挙がる選手でもありました。
【鈴木葉留彦(すずき・はるひこ)】
生年月日:1951(昭和26)年7月25日
入団:太平洋('73・ドラフト3位)
経歴:大宮高-早大-太平洋・クラウン・西武('74~'84)
通算成績:544試合 打率.252 246安打 11本塁打 105打点 8盗塁
位置:内野手 投打:左左 現役生活:11年
規定打席到達:なし
※1978年までの登録名は「鈴木治彦」
個人的印象
彼の存在は引退する1984年に知る事となりました。
それまでスポーツ新聞に「鈴木葉」の表記で目にしていましたが、その時は「鈴木葉」が苗字で「鈴木葉・留彦」(すずこば・とめひこ)だと勝手に思っていました(笑)
まさか「葉」が名前の方とは思いもしなかったので、「すずこば」って選手なんだとか思ってましたね。多分TVだと思いますが、「すずき・はるひこが…」というアナウンスを聞いて、「鈴木・葉留彦」なんだ、と初めて認識しました。
あとは、あまり頻繁に見聞きした選手ではなかったけど、その割には背番号6というレギュラー番号付けてるんだな?と不思議に思った記憶もあります。かつてのレギュラー選手だったのか?と思ったけど、そうでもなさそうだし…という感じで見てたら、その年に引退を発表していました。
プロ入りまで
高校は埼玉県の公立校で大宮高校というところですが、ここで1年の夏に甲子園に出場しています。初戦敗退でしたが、その時の敗戦というのが相手校のホームスチールによる逆転負けだったそうです。
その後甲子園と縁がなく、大学は早稲田大学へと進学します。
早大では3年秋にベストナインに選ばれ、4年春には東京六大学で優勝を果たし、1973(昭和48)年のドラフト会議で当時の太平洋クラブライオンズから3位指名を受け入団しました。
初期キャリア
入団時の背番号は「5」でした。ドラフト3位ではありましたが、レギュラー級の番号であり、その後の活躍が期待されたのかと思います。その前は高木喬という選手がつけており、その前には「あの」仰木彬氏が現役時代につけていた番号でした。
1年目となる1974(昭和49)年は11試合の出場で11打数1安打(打率.091)でした。初安打は記録しましたが、その安打だけという形で終わりました。
2年目1975(昭和50)年には、南海・広島で主力として活躍したベテラン・国貞泰汎選手が移籍してきたことに伴い、広島時代につけていた「5」をつける事となった為、早くも2年目で背番号「5」をはく奪され「51」へと変更になりました。
この年は12試合で22打数安打(打率.182)で1打点のみに終わり、ここまではほとんど出番のない状態でした。
台頭
3年目1976(昭和51)年は太平洋最後の年となりましたが、ここで戦力として急速に台頭してきました。彼のハイライトはほぼこの年に凝縮されているといってもよい、数字的にはそんな感じで、いろんなものが突出しています。
シーズンで99試合に出場し、312打数97安打(打率.311)で2本塁打24打点と活躍、試合数、打数、安打、本塁打、盗塁などほとんどの項目でキャリアハイを記録し、なかでも安打は通算246のうち、1/3以上をこの年だけで記録しています。ホームランはこの3年目で初めて記録しています。
球団名がクラウンとなった1977(昭和52)年は、背番号が51から再び1ケタ番号に戻り「6」となり、これを引退までつける事となりました。1ケタ番号から50番台になって、再度1ケタ番号になるのはかなりレアな事と思いますが、ある程度1ケタ番号へ戻す前提で一時的に51へ変更していたのかもしれない、と感じました。
この年からは前年よりかなり数字が落ちますが、それでもこの年は3本塁打がキャリアハイでした。
この年4月に放った第1号は、ロッテ戦で0-3でリードされていた場面で代打に起用され「代打逆転満塁ホームラン」でそのまま4-3で勝利した試合であり、劇的な勝利のヒーローとなりました。
しかし1978(昭和53)年には出場機会が激減し、18試合で41打数9安打(打率.220)で打点0に終わりました。
西武以降
1979(昭和54)年、6年目を迎えていましたが、チームはクラウンから西武となり、西鉄時代から長年本拠地にしていた福岡から郷里埼玉・所沢へと球団が移転する事となりました。
ここから3年間ほどは、後半のハイライトともいうべき、準レギュラー的に渋い働きを見せて、それが数字にも表れていた時期といえます。
この年にそれまでの本名・鈴木治彦から「葉留彦」へ変更し現在に至ります。西武になったのと同じタイミングだったのですね。
この年は68試合に出て108打数30安打(打率.278)で2本塁打16打点の成績でした。序盤は代打が中心で、後半になって先発出場の機会が増え、この年に打った2本のホームランは2試合連続で記録したものでした。
1980(昭和55)年は88試合に出て136打数35安打(打率.257)で3本塁打24打点で、本塁打と打点ともにキャリアハイのタイ記録でした。大ベテランとなった土井正博選手の欠場の穴を埋める活躍を見せ、5月の試合ではチーム21㌄ぶりの得点となる満塁本塁打を放ち、1977年同様に彼自身の満塁本塁打のみによる4-3での勝利となりました。現役通算11本塁打ながらこのような劇的なホームランを2本打っています。
このように前半は活躍機会に恵まれましたが、後に失速した事により定着しきれませんでした。
この年の終盤、45歳になった大ベテラン・野村克也選手の代打に起用され併殺打に終わりますが、その時野村氏は、自分に代わって出た彼の凡退を祈ったといいます。結果その通りになってしまいますが、チームの勝利よりも彼の凡退を祈るようになった事で、自らの引退を決断したといわれています。
1981(昭和56)年は30歳になる年で、67試合に出て108打数24安打(打率.222)で1本塁打15打点でした。100打席以上立ったのと、ホームランを記録したのはこの年が最後となりました。
優勝、引退
1982(昭和57)年からは出番が限定的になりますが、入団以来太平洋時代から全くの無縁だった優勝そして日本一を経験します。
西武になって4年目で初の栄冠をチームは勝ち取りますが、西武として所沢へ移転した当初は太平洋・クラウンといった福岡時代のライオンズのチームカラーを一掃しようとドラフトで即戦力選手を多数獲得しては積極的に起用し、また多くの選手をトレードで入替え、優勝できる戦力を着々と整えてきていました。その為、太平洋やクラウンに所属し、かつ西武の日本一まで経験したライオンズ戦士はほんの数えるほどしかおらず、鈴木選手もその一人に数えられます。(他に東尾修、大田卓司、立花義家選手など)
この年、初出場した日本シリーズでは代打専任の形で出ていましたが、ヒットは記録できませんでした。
1983(昭和58)年は46試合で51打数13安打(打率.255)で0本塁打9打点、最後の3年間の中では最も出番の多かった年でした。
巨人との対決となった日本シリーズでは、やはり代打専門で第5戦まではノーヒットでしたが、2勝3敗で迎えた第6戦で9回裏、ここで点が取れなければ巨人日本一!という場面で、巨人は胴上げ投手に江川卓投手か!と思われたところ、西本聖投手が出てきての必勝態勢をとりますが、この西本投手が打ち込まれ、代打で出た鈴木選手はこの時日本シリーズで初めてヒットを打って満塁にし、次の打者がタイムリーを放って同点に追いつき、さらに延長十回に出てきた江川卓投手が打ち込まれ、西武の勝利で3勝3敗となり、西武の逆転日本一につながりました。彼が大舞台で唯一放ったヒットは、逆王手に繋がる一打でした。
1984(昭和59)年は阪急の独走に終わり西武は3位となり、この年は19試合で28打数3安打(打率.107)で2打点の成績を残し、この年33歳で引退しました。
引退後は、解説者やコーチ、二軍監督も経験しますが、スカウトとして特に才を発揮し、スカウト部長も務め、更には西武の球団本部長まで務めました。
↓1981(昭和56)年の選手名鑑より
準レギュラー級で活躍し、まだ日本一は経験していなかった頃でした。大ベテランの土井選手はこの年で引退し、石毛選手が鳴り物入りで入団した年でした。
無名で入団した秋山選手か新人で、内野手登録でした。
この中でも1978年、わずか3年前の「クラウン」時代にいた選手はかなり少なく、短期間での血の入替えぶりを感じます。