思い出のプロ野球選手、今回は佐野 仙好選手です。 

 

1970年代後半から80年代にかけて阪神一筋16年間在籍した選手です。
内野手から外野手へコンバートされ、一時は生命も危ぶまれた試合中の大けがを乗り越えて、1985年のタイガース日本一では主に六番打者として、クリーンアップ後でも相手投手が気を抜けない、しぶとい打撃で貢献し活躍した選手です。

 

【佐野仙好(さの・のりよし)】 

生年月日:1951(昭和26)年8月27日

入団:阪神('74・ドラフト1位) 
経歴:前橋工-中大-阪神('74~'89)

通算成績:1,551試合 打率.273 1,316安打 144本塁打 564打点 45盗塁

位置:内野手→外野手 投打:右右 現役生活:16年
規定打席到達:7回 ※7年連続
タイトル:最多勝利打点 1回('81)

節目の記録:出場-1,000試合出場('83.9.17)、1,500試合出場('88.6.13)

      安打-1,000安打('84.8.22)
      本塁打-100号('84.7.16)

 

 

 

個人的印象

阪神の怖い六番バッター、です。

特に日本一になった時のレギュラーメンバーとして、クリーンアップにバース、掛布雅之、岡田彰布といった怖い打者が続いた訳ですが、彼らとの対決が終わった後にも六番にこの佐野選手が控えており、しぶといバッティングを見せて、相手投手からしても気の抜けない相手だった、と思います。

あと「仙好」という名前が長年読めないままで、選手名鑑でルビを振ってあるのを見て初めて知りました。

 

プロ入りまで

高校は群馬県の名門・前橋工業高校ですが、当時はまだ甲子園に一度出場しただけで、彼が中三の(1966年)春に初めて甲子園の土を踏み、高2(1968年)の夏に学校としては2度目、自身初の甲子園出場を果たしており、2回戦で智弁学園に敗れて敗退、この時までの前橋工業高校は、2度の甲子園で勝ち星がなく、1得点もあげる事ができなかった状況でした。

そのまま大学へ進学し、中央大学へ入りました。

大学では1年生から活躍し、中大の東都大学リーグ優勝にも多大に貢献し、全日本大学選手権大会で優勝したり、日米大学野球選手権大会でも活躍しています。

このような活躍の下、1973(昭和48)年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けて入団しました。

 

 

初期キャリア

ドラフト1位で阪神に入団した佐野選手、背番号は「9」を与えられ、引退まで16年間一貫してこの番号を背負い続けます。

1年目は1974(昭和49)年、61試合に出て143打数34安打(打率.238)で2本塁打11打点の成績でした。

3年目までは多少の上下はあるものの、大体この程度の成績でした。

当初は内野手だったので、一塁手や三塁手として起用されていました。

しかし、同期入団に高卒で4つ年下の掛布雅之選手がいて、ドラフト1位の佐野選手と実質テストで入った掛布選手との正三塁手争いが展開されました。

当初は互いに右打ち、左打ちの違いがあり、相手投手によりどちらかが出場する「併用」の形でしたが、次第に掛布選手が正三塁手の位置を確保し、3年目1976(昭和51)年には掛布選手は初めて規定打席に到達しますが、佐野選手は入団時とさほど変わらない出番/成績に甘んじていました。

しかしながら掛布選手にとっては、佐野選手は好敵手であり「ライバルと思ったのは佐野さんだけ」と述懐していました。

 

 

外野コンバートと大怪我

3年目1976年から外野を守る機会が発生し、4年目1977(昭和52)年から本格的に外野での先発出場を得て、三塁争いは掛布選手に譲る事となったものの、外野へ回って定位置獲りを目指す事となりました。

まさにこれから、という1977年シーズン序盤の4月29日の大洋戦で、外野へ飛んだ飛球を身を挺して捕球しますが、当時の外野フェンスはコンクリート製で、そのコンクリート壁に激突して頭蓋骨骨折の重傷を負い、口から血の泡を吹き白目をむいて倒れていた、と同じ外野を守っていた池辺巌選手が証言しています。

本人曰く「内野をやっていた事もあり、取れるボールは飛びついてやろうという、それまでの習性がさせたプレー」と本人が語っていました。

この一件以降、プロ野球で本拠地とするすべての球場の外野フェンスにラバーを張るようになったといいます。

 

これほどの重傷を負いながらも、わずか1ヶ月で退院し、6月に練習を再開、7月には復帰と、駆け足で戻ってきましたが、復活の際は大きな歓声を浴びたといいます。

4月に大怪我をしたものの、結局67試合に出て203打数62安打(打率.305)で8本塁打21打点と、それまで以上の成績をあげました。

 

 

不動の外野レギュラーへ

1978(昭和53)年には初めて100試合越えとなる104試合に出場し、288打数65安打(打率.226)で8本塁打34打点で、初めて300打席を越え、定位置へあと一歩のところまできました。

そして初めて規定打席に到達したのが1979(昭和54)年でした。

この年の阪神は、中心選手だった田淵幸一選手が新生・西武ライオンズへトレードされ、小林繁投手が巨人から移籍してきた、激動の年でした。

この年は124試合に出て、413打数124安打(打率.300)で10本塁打52打点の成績を残しました。初の規定打席到達で3割を記録した訳です。

これ以降不動の外野レギュラーとしての地位を確立し、規定打席はこの年以降7年連続で記録し、100安打以上も同じく7年連続、2ケタ本塁打は9年連続(すべて10~15本)で記録する事となります。ちなみにこの1979年に限っては内野で、一塁手としての出場が殆どで、これは藤田平選手の故障などによるもので、その後の2年間はセンターが中心で、1981(昭和56)年は120試合先発したすべてセンターで出場しており、その後はイメージの強いレフトを定位置にします。

 

唯一のタイトル

以外にもベストナインやGグラブ賞などの表彰と無縁だった佐野選手でしたが、30歳を迎えた1981(昭和56)年に生涯唯一のタイトルを手にしました。

それが「最多勝利打点」でした。

「勝利打点」が日本プロ野球の公式記録として採用された初年度である1981年に、その第一号のタイトル獲得者として歴史に名を刻む事となりました。

その後、判定基準が曖昧等あり、10年もたずに制度としては廃止されますが、勝利に貢献する打撃面の活躍を多々していたのは紛れもない事実であると思います。

この年は127試合に出て466打数138安打(打率.296)と3割まであと少しでしたが、初めて130本以上のヒットを記録しました。

 

 

80年代前半

1982(昭和57)年は初めて130試合フル出場を果たし、翌年と共に2年連続フル出場を達成しています。542打席で495打数という記録は両年とも全く同数でした。

1982年は495打数134安打(打率.271)で15本塁打65打点を記録、打点はキャリアハイでした。本塁打15本もキャリアハイですが、これは計3度(他に'80年、'84年)記録しており、2年おきに15本打っていた格好となりますが、ホームランは常にコンスタントに10~15本の間で打っていて、ある意味正確性の高さを感じました。

 

同じく130試合フル出場した1983(昭和58)年は495打数138安打(打率.279)で13本塁打64打点と、二塁打21本がキャリアハイでした。この年は通算1,000試合出場を果たしています。

 

1984(昭和59)年は5年ぶり2度目の3割をマークし、125試合で475打数145安打(打率.305)で15本塁打50打点でした。2度目の3割で前回の1979年は.300ジャストで、この年は.305と規定打席到達した中で最高の打率を33歳にして記録しました。

節目の記録として、通算1,000本安打と通算100号本塁打を記録しています。

 

 

唯一の優勝経験

1985(昭和60)年は16年間の現役生活で唯一のリーグ優勝、日本一にも輝いた年となりました。前回の河埜和正選手の記事に書きましたが、河埜選手が痛恨の落球をしてしまった時の打者が佐野選手でした。

シーズンで優勝を決める同点犠牲フライを放ち、優勝にも直接貢献したこの年は120試合に出場し375打数108安打(打率.288)で13本塁打60打点を記録し、これが最後の規定打席到達および100安打以上となりました。

日本シリーズにも初出場した訳ですが、前半でほとんどヒットが打てないまま、年上の長崎啓二選手に出場を譲る形になり、あまり良い思い出ではなかったのかなという気がします。意外にも、オールスター出場歴がなく、大舞台には縁が薄かった事を感じてしまいます。

 

確かにこの年はいろんなレギュラー選手、特に打者が素晴らしい成績を残しましたが、ここがピークになってしまって、その後落ちてしまった選手が多かったようにも思います。彼と定位置を争った掛布選手などは特に顕著だったと思います。

 

 

現役晩年

1986(昭和61)年は107試合の出場で332打数89安打(打率.268)で14本塁打35打点でした。規定打席には42不足で、7年間続いていた規定打席到達が途切れました。

ただホームランは14本打っていて、その本数だけはそれまでと変わらず安定していました。

ここから徐々に出番が減少していきますが、1987(昭和62)年は100試合で300打数72安打(打率.240)で10本塁打33打点でした。2ケタ本塁打はこの年で最後となり、ホームランそのものもこの年の10号が最後となりました。この時代になると2年前の日本一が嘘のように、急速にチームが弱体化し暗黒時代と呼ぶ人もいました。

 

1988(昭和63)年は激減し、54試合で65打数16安打(打率.246)で0本塁打6打点に終わり、この年に通算1,500試合出場を果たしますが、入団時に定位置を争った掛布選手が引退し、モチベーションもかなり落ちたのではないかと思います。

平成に入っても現役を続けましたが、1989(平成元)年は19試合で23打数4安打(打率.174)で、個人的に正直まだ現役を続けていた事を知りませんでした。打点も0に終わり、この年38歳で引退しました。

 

引退後はコーチを務め、またスカウトとして長く務めていましたが、現在でもYou Tubeの動画でゲスト出演するなど元気な姿を見る事ができます。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

 34歳になる年のものです。
 この年は見事チームが日本一に輝き、レギュラーメンバーとして活躍しました。
 84年の成績に対して「初の3割」と書かれていますが、79年にも記録しており、厳密には2度目でした。

 

      

 

 

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