思い出のプロ野球選手、今回は長崎 啓二選手です。 

 

1970年代から80年代にかけて、大洋では主力選手として、阪神では代打を主として活躍し、大洋では首位打者を獲得した「ミートの名人」でした。

本名は長崎「慶一」で、1981~87年まではタイトル通り長崎「啓二」と改名しており、個人的に後者のイメージが強いため、ここでは長崎「啓二」選手としています。

 

【長崎 啓二 (ながさき・けいじ)】 ※1980年まで長崎 慶一

生年月日:1950(昭和25)年5月13日

入団:大洋('72・ドラフト1位) 
経歴:北陽高-法大-大洋('73~'84)-阪神('85~'87)

通算成績:1,474試合 打率.279 1,168安打 146本塁打 508打点 122盗塁

位置:外野手 投打:左左 現役生活:15年
規定打席到達:6回('75、'77~'79、'82、'83)

タイトル:首位打者 1回('82)

表彰:ベストナイン 1回('82) 

記録:サイクルヒット('78.5.20)

オールスター出場:1回('82)    

節目の記録:出場-1,000試合出場('82.5.26)
      安打-1,000安打('83.7.17)

      本塁打-100号('80.8.9)

 

 

個人的印象

大洋のレギュラー選手、です。

首位打者を獲った時の印象が強く、中日・田尾安志選手と激しいデッドヒートを繰り広げていましたが、最後は大洋が田尾選手に連続敬遠をさせてタイトル獲得となったという、せっかくハイレベルな争いをしながら、少々後味の悪いものとなりました。

阪神では代打の切り札として、川藤幸三永尾泰憲といった同年代の選手と強力な代打陣を形成していました。

独特の、腕を少し下ろした形での構えから繰り出すバッティングフォームが印象的でした。

 

プロ入りまで

高校は大阪の北陽高校で、1966(昭和41)年、1年生の夏に甲子園へ出場し、これが北陽高校初の甲子園出場でもありました。その後は甲子園とは無縁でしたが、高校卒業時にドラフトにかかり、地元の阪神から8位指名を受けたものの家族の反対で拒否する事となったといいます。

大学は法政大学へ進み、ここでは4季連続優勝や、全日本での活躍など輝かしい実績を残して、1972(昭和47)年のドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受け入団しました。

 

 

初期キャリア

入団当初の背番号は「23」でした。

ドラフト1位として即戦力を期待されたと思いますが、1年目1973(昭和48)年は75試合に出て、203打数45安打(打率.222)2本塁打7打点の成績で、この時はコーチの指導が一軍と二軍で真逆だったり戸惑いも多く、またプロのレベルについていけなかったそうですが、厳しいランニングや打込み、配球ノートの記入などでペースがつかめるようになってきたといいます。

 

2年目1974(昭和49)年は95試合に出て、225打数80安打で、規定打席不足ながら打率.356という高率を残します。本塁打も初の2ケタ13本を記録し33打点をあげて、戦力らしくなってきたというところでしょうか。本塁打13本のうち実に3本がサヨナラホームランという劇的なドラマもつくりました。

 

 

レギュラー張った昭和50年代

3年目1975(昭和50)年に入って、この頃になると大洋の外野陣が様変わりし、ベテランの重松省三選手はこの年限りで引退、大ベテランの江藤慎一選手はこの年から太平洋へ兼任監督就任の為移籍と世代交代期で、特に江藤選手の移籍は大きなチャンスとなり、この年初めて規定打席に到達しました。

初の100試合越えとなる122試合に出場し、406打数107安打(打率.264)で12本塁打42打点を記録、盗塁も初の2ケタ11個を記録しています。ただし三振が91個でこちらはリーグ最多を記録しています。

 

以後は大洋のレギュラー外野手として定着し、長年活躍を続けていく事となり、昭和50年代を通してほぼレギュラーでした。

 

1976(昭和51)年は規定打席には少し足りず、101試合で276打数65安打(打率.236)で12本塁打25打点に終わります。この年の大洋の外野手はいずれも規定打席にやや足りない状況で、中塚政幸選手(386打席)、江尻亮選手(381打席)、そして長崎選手が325打席と300打席台が3人もいて、本来外野手ではないシピン選手や伊藤勲選手も外野を守る事があり、外野手登録で規定打席に届いた選手は1人もいませんでした。

 

1977(昭和52)年、背番号が23から前年引退した長田幸雄選手がつけていた「7」へと変更され、チームを代表する選手に名実ともになったといえます。

この年初めて500を越える打席に立ち、433打数115安打(打率.266)で19本塁打57打点を記録して2年ぶりに規定打席に到達し、新背番号に見合う活躍をできたといえると思います。

尚、死球15個はリーグ最多を記録しています。死球といえばこの年は同じ外野手の先輩である江尻選手が巨人戦で昏睡状態に陥る死球を受けており、以後定位置を失う事態になっています。

 

 

横浜へ

1978(昭和53)年、大洋は本拠地を川崎から横浜へ移転し「横浜大洋ホエールズ」となりました。

この年は128試合に出場し、438打数126安打(打率.288)で21本塁打72打点をマークし、本塁打・打点共にキャリアハイを記録しました。20本塁打以上はこの年が唯一で、盗塁は27個とこちらも20個以上を記録したのは、この年が唯一でした。

また、この年サイクルヒットを記録しており、これは若松勉選手(ヤクルト)が達成して以来、2年ぶりの記録で、この年唯一のサイクルヒット達成者となりました。

 

1979(昭和54)年は規定打席をギリギリ越えた格好で117試合で351打数102安打(打率.291)と、かろうじて100安打をキープし打率は2割9分台にのせました。

 

30歳を迎えた1980(昭和55)年は4年ぶりに規定打席を割り込み、86試合で245打数57安打(打率.233)で10本塁打25打点に終わり、初めて規定打席に届いた1975年以降では初めて100試合を割り込みました。この年通算100号本塁打を記録しています。

翌1981(昭和56)年は名前を慶一から「啓二」と改名して臨んだシーズンで、やや持ち直して規定打席に僅かに足りない343打数100安打(打率.292)10本塁打35打点でした。

この2年間、規定打席未達でしたが、かろうじて2ケタ本塁打は連続で維持していました。


この1981年オフに人間関係の悩み等でトレードを志願していたと本人によるコメントがありました。

 

 

関根監督の3年間

1982(昭和57)年、大洋には関根潤三新監督が就任する事となり、関根監督は長崎選手の法政大学の先輩にあたり、その関根氏が「俺のいる間は我慢してくれ」とトレード志願を封印させたといいます。

 

それまでフラストレーションをためながら、成績も今一つの状況だったところから、まさに一念発起ともいうべき大活躍を見せます。

5月に通算1,000試合出場を果たし、また夏にはオールスターに出場、意外な事にオールスターの出場はこの1回きりでした。

そして終盤は中日・田尾選手との激しい首位打者争いが繰り広げられました。

最終戦となる中日との直接対決では、田尾選手を敬遠攻めにして打たせず、長崎選手が首位打者のタイトル獲得となりました。ただ、この試合は中日が勝てば、巨人を制してペナント優勝のかかった試合でもあり、大洋が中日の選手を敬遠攻めにしたのはある種の中日優勝アシストでもあり、個人だけの問題のみならずチームの問題へも波及した出来事でした。

 

この頃から、首位打者争いに絡んで、敬遠攻めが目立つようになった気がします。

 

ともあれ、396打数139安打、打率.351首位打者を獲得し、現役生活唯一のベストナインにも選出されました。安打数は32歳にしてキャリアハイで、11本塁打40打点で、2ケタ本塁打は2年目の1974年からこの年まで9年連続で達成しましたが、この年で最後となりました。

 

1983(昭和58)年は364打数111安打(打率.305)2年連続3割を達成し、7本塁打44打点とひとケタ本塁打でした。この年が最後の規定打席到達となり、また最後の100安打越えとなりましたが、7月に通算1,000安打を達成しています。

 

1984(昭和59)年は、わずか84試合にとどまり、250打数61安打(打率.244)5本塁打29打点と1980年と同等の低調な成績に終わると、池内豊投手との交換トレードで翌年から阪神へ移籍となりました。

 

大洋を代表する選手で首位打者にもなった選手がいともあっさりと放出されるんだな、と当時思っていましたが、以前からのトレード志願とか大人の事情を知ると納得ものでした。ちなみに現皇后さまの雅子さまは、長崎選手の追っかけをするほど好きだったといいます。

 

阪神の3年間

という訳で1985(昭和60)年からは阪神の選手となりましたが、それまで大洋にいて優勝とは全くの無縁でしたが、ここでいきなり現役生活で唯一の優勝経験をする事となります。

この年は68試合で106打数30安打(打率.283)で6本塁打25打点を記録、時々先発出場しながら、代打で活躍しました。

西武との日本シリーズでは、満塁ホームランを含む2本塁打で「日本シリーズ優秀賞」を獲得し、阪神の日本一に尽力しました。

レギュラークラスだった選手が35歳になる年で放出されて活躍できるか?という向きもありましたが、代打へシフトする事で結果を出し、トレードが阪神側には成功であったことを示しました。相手側の池内投手は阪神時代のような活躍はできないまま、1年で大洋を退団し翌年阪急へ移籍してその年に引退しています。

 

1986(昭和61)年は前年と同じ68試合で86打数17安打(打率.184)で3本塁打13打点と1割台に低迷し、この年には同じ代打陣を形成していた川藤選手が引退しています。

 

1987(昭和62)年は60試合で59打数14安打(打率.234)で4本塁打11打点の成績を残しますが、この年限り37歳で引退しています。

 

 

引退後は解説者を主に活動し、阪神でコーチを務めた時期もありますが、アマチュアチームのコーチを務めたり、また球界を離れて東京都荒川区議会議員など政治活動を行なっていた時期もありました。

 

 

1985(昭和60)年の選手名鑑より。

阪神へ移籍した年です。

前年大洋最後の年の成績が振るわず、新天地で巻き返しというところでしたが、「最後の死に場所」と書いてあって、当時はまだそんな感じはしませんでしたが結局この先は代打で生きることになりました。

散歩の時の精神状態でその日の調子が分かる、ともありました。

      

 

 

 

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