思い出のプロ野球選手、今回は永尾 泰憲選手です。 

 

1970年代前半から80年代後半にヤクルト、近鉄、阪神で活躍し、レギュラーに代打に、小柄な体でしぶとく長く生き残り、在籍した3チームすべてで優勝を経験した影の優勝請負人でした。

 

【永尾 泰憲(ながお・やすのり)】

生年月日:1950(昭和25)年5月2日

入団:ヤクルト('72・ドラフト1位) 
経歴:佐賀西高-いすゞ自動車-ヤクルト('73~'78)-近鉄('79~'81)-阪神('82~'87)

通算成績:1,114試合 打率.258 610安打 23本塁打 208打点 54盗塁

位置:内野手 投打:右左 現役生活:15年
規定打席到達:1回('77)

節目の記録:出場-1,000試合出場('85.10.1)

 

 

 

個人的印象

阪神の85年優勝時の代々の切り札として活躍した「仕事人」です。

右に川藤、左に永尾、という阪神の必殺代打陣として君臨し、他にも同年代の移籍組・長崎選手など、とにかく控えにも層の厚さが際立っていたのが当時の阪神打撃陣でした。

小さな身体でしぶとい打撃を見せ、代打で出てくると巨人ファンとしては嫌な存在でした。

 

 

プロ入りまで

高校は佐賀県の佐賀西高校という公立高校でした。

この高校、調べてみたら佐賀県内№1の進学校とありました。プロOBは少ないながらもいて、先輩には永淵洋三選手(近鉄-日本ハム)、後輩には渡辺正和投手(ダイエー)など、いずれも少し離れた年代にいます。

2年夏には部員不足でメンバーが集まらずに他からかき集めながらの状態で、3年の県予選はいいところまでいくも敗れ、甲子園とは無縁でした。

高校卒業後、社会人のいすゞ自動車へ進み、都市対抗で活躍し、最初のドラフト指名では入団を拒否しましたが、翌1972(昭和47)年のドラフト会議で当時のヤクルトアトムズから1位指名を受けて入団しました。

失礼ながらドラフト1位だったとは思っていませんでした。同期入団に小田義人選手(2位)、鈴木康二朗投手(5位)がいて、いずれも社会人出身の選手が活躍しました。また山口高志投手がやはり社会人で4位指名されていますが拒否しています。とにかく即戦力が欲しかったことを感じます。

 

 

初期キャリア

1973(昭和48)年、23歳になる年でルーキーイヤーという事で、大卒選手と同じ形になりましたが、ドラフト1位の新人として背番号「6」を与えられ、大いに期待されるも33試合出場、42打数6安打(打率.143)で打点0の成績に終わりました。

 

 

飛躍と競争

2年目1974(昭和49)年から定位置争いをするようになり、この年は84試合に出場、249打数64安打(打率.257)で3本塁打17打点を記録し、戦力になる事をアピールし始めたといえるでしょう。

打点も本塁打もこの年で初めてあげましたが、初本塁打が満塁本塁打という記録を残しており、広島戦で2回に飛び出したこのホームランもあり、試合は9-1で快勝しています。

 

3年目1975(昭和50)年も同等の出番、成績で、まだまだ他の選手との競争でした。

 

4年目1976(昭和51)年は少し増えて93試合に出場し271打数78安打(打率.288)で打率が上がりました。打席も298と300まであとわずかというところまできました。

 

 

唯一の規定打席到達

1977(昭和52)年、それまで二塁の定位置を争った選手が前年までに悉く移籍した幸運もあってか、二塁の定位置を確保し、現役生活で唯一の規定打席到達を果たしました。

初の100試合越えとなる128試合に出場し、476打数116安打(打率.244)で4本塁打30打点の成績でした。盗塁は初の2ケタとなる13個を記録し、犠打はリーグ最多の35を記録し、ヤクルト史上初の2位躍進に貢献しました。

規定打席到達もあり、打数、安打、本塁打、盗塁、犠打等ほとんどの項目がキャリアハイになりますが、その後キャリアハイとなる項目もあり、目立った活躍をしたのはこの年だけ、という訳ではありませんでした。

 

 

初優勝

1978(昭和53)年、前年初めて2位へと躍進したヤクルトは、その勢いのままこの年、球団創設以来初のリーグ優勝を達成し、阪急との日本シーズも制して初の日本一にも輝きました。

永尾選手は前年規定打席に到達した勢いのまま…とはいかず、外国人のヒルトン選手が入団して二塁に入る事となり、その控えに回りました。

という事で出番が減り、84試合で190打数40安打(打率.211)0本塁打17打点でした。

 

阪急との日本シリーズでは代打で2試合出場したのみでしたが、第4戦ではヒットを放っていす。

 

せっかく前年規定打席に到達しながら、ヤクルト在籍はこの年限りとなり、当時優勝に大きく貢献したマニエル選手と共にトレードとなり、近鉄へ移籍する事となりました。マニエル選手の移籍も「トレード」だったのですね。ヤクルト側は左投手を熱望していたという事で、神部年男投手を軸とした、ヤクルト2人⇔近鉄3人でのトレードとなりました。

 

 

近鉄でも優勝

近鉄では、背番号は「30」と少し重い番号でした。

冒頭の写真が、その近鉄時代のものでした。

移籍した1979(昭和54)年は、「万年パ・リーグのお荷物球団」といわれた近鉄が球団創設以来、悲願の初のリーグ優勝を遂げました。2年連続で「球団創設以来の初優勝」をマニエル選手と共に経験した、実に稀有な体験をしています。

この年は再び出番を得て120試合に出場し、323打数100安打で、規定打席にはわずか40程足りませんでしたが、打率.310の高打率をマークし、3本塁打40打点を記録しています。2年ぶりに100安打に到達し、打点40はキャリアハイでした。

この年が、規定打席に到達した1977年に次ぐ実績をあげた年といえます。

 

広島との日本シリーズでは全7試合に出場し、うち5試合は先発出場で、4安打1打点を記録しています。

 

翌1980(昭和55)年は30歳になりましたが、104試合に出場し172打数40安打(打率.233)で1本塁打15打点と打席的な出番は半減しました。

この年も再び広島との日本シリーズでしたが、前半は出番がなく後半に二塁などで先発出場機会があり、マルチヒットを記録するなど、2年連続日本一を逃しますが、前年よりピンポイントで活躍した感がありました。

 

1981(昭和56)年は優勝から遠ざかり、両リーグに渡っての連続優勝体験は3年で途切れ、67試合121打数26安打(打率.215)で3本塁打12打点でした。近鉄移籍後、段々と出番が減っていきますが、それでも100打席以上は記録しており、その100打席以上はこの年が最後となります。

 

 

阪神でひと振りに賭ける

1982(昭和57)年、金銭トレードで阪神へ移籍となりました。

これ以降は代打が主戦場となります。

この年は65試合で67打数24安打(打率.358)で0本塁打18打点と代打で活躍し、打率.358は素晴らしいものがありました。

この年1盗塁を記録していますが、それまで通算50余りの盗塁をしてきて、阪神では6年間でこの1個しか記録しませんでした。それだけ「ひと振り」に賭ける阪神でのキャリアだったと感じます。

その後はだんだんと数字が落ちていき、1984(昭和59)年は打率.158でわずか19打数3安打2打点のみと、当時34歳になっていた事もあり、その後を危ぶまれました。

 

 

最後の優勝、引退

そんな危機感の中迎えた1985(昭和60)年、まさに下の写真の選手名鑑の頃でした。

35歳になるシーズン、しかし阪神は優勝に向かって走っていました。

55試合に出て49打数16安打(打率.327)の素晴らしい成績で復活し、16安打中本塁打は0でしたが、二塁打は4本と長打性のある当たりが多かったと思います。

この年の終盤に、通算1,000試合出場を果たしています。

阪神の21年ぶりの優勝そして日本一に貢献し、所属した3球団すべてでリーグ優勝、うち2球団で日本一を経験しました。

西武との日本シリーズでは代打で1試合のみの出場でした。

 

その後1986(昭和61)年には、阪神移籍後最多の80試合に出て、80打数24安打(打率.300)を記録、1本塁打を記録しますが、これが現役最後となる通算23本目のホームランでした。代打生活で3度目の3割を記録し、これが長く生き延びた事へ繋がっている事を感じました。

 

そして1987(昭和62)年、27打数3安打(打率.111)で2打点に終わると、この年限り37歳で引退しました。

 

前半は準レギュラーを中心に激しい競争にさらされ、後半は代打でのひと振りに賭けた野球人生だったといえます。

 

 

引退後はコーチやスカウトを交互にやるような形で60歳過ぎまで務め、その後母校・佐賀西高のコーチ-経て現在は同じ佐賀県の太良高校の監督を務めています。

 

 

↓趣味はトランペット演奏で、特技が自己暗示となかなかユニークな面があるんですね。

 160㎝台の小柄な選手でしたがニックネームも「チビ」だったのですね。

      

 

 

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