思い出のプロ野球選手、今回は江尻 亮選手です。

 

昭和40年代を中心に、大洋の外野の一翼を担った名手で、昭和50年代はベテランとして代打を中心に活躍した選手です。

 

【江尻 亮(えじり・あきら)】

生年月日:1943(昭和18)年1月10日
経歴:日立一高-早大-大洋('65~'79)

通算成績:1,485試合 打率.271 1,249安打 116本塁打 436打点 82盗塁

主な表彰:ベストナイン 2回('70、'73)
記録:オールスター出場2回('70、'73)

節目の記録:安打-1,000安打('75.5.21)

      本塁打-100号('75.4.11)
      出場-1,000試合出場('74.6.9)

 

●代打のベテラン

この選手に対する個人的印象はこれです。

70年代末期でしたが、代打でよく出てきて、TVのテロップに「代打 江尻」という感じで表示されていた記憶があります。

当時、特に彼の引退年には同姓の同級生が小学校にいたので、その存在はよく覚えています。

代打の切り札的存在と認知していたので、当時は元レギュラーだったとか全然知りませんでした。後に大洋?横浜?の監督になる頃くらいに、レギュラーだった事を知りました。

 

●ドラフト前最後の入団

茨城県出身で日立一高から早大へ進学し主に投手として活躍し、翌年から始まるドラフトの前年に大洋に入団しています。

 

●二刀流

大谷翔平選手の出現で「二刀流」という言葉が流行り、また定着しましたが、この江尻選手は元々投手として入団し、打撃も評価され新人の1965(昭和40)年は二刀流で出場し、下表には載っていませんが、投手として5試合に登板し0勝1敗の記録が残っています。打者としては7安打のみで、初ホームランはうっていますがこれのみで、大して出番のないまま終わっています。

また翌1966(昭和41)年も二刀流を続け、打の方がメインになっていくものの、やはり5試合に登板し0勝0敗、打の方が目立ち、投の結果は残せなかった事もあり、投手としては2年でキャリアを終える事となりました。

 

背番号は現役時代一貫して「19」でしたが、投手として入団しての10番台を与えられ、野手へ転向しても変えなかった為、そのままになったのかな、という感じでした。確かに個人的に野手の印象しかないのに、現役時代の背番号が19だったと知り、なんでかと思っていましたが、投手出身だった訳ですね。

 

●野手専心→レギュラーへ

二刀流を辞めて野手専任となった3年目1967(昭和42)年には117試合に出場し、規定打席にはまだ届かないものの、レギュラーが見えてきた感じの成績を挙げ、4年目1968(昭和43)年に初めて規定打席に到達しました。

打率は.248でしたが、ホームランは初の2ケタ14本を打って、安打が108本と初めて3ケタとなりました。

以後、1975(昭和50)年まで8年連続で規定打席に到達し昭和40年代特に後半はほぼレギュラーとして活躍を続けてきました。自分が後に見た彼の姿(代打)とは全然違う形で活躍していたのですね。

その8年間だけが、現役生活でもそのまま規定打席到達回数となりましたが、3割は一度もなく、1973(昭和48)年に記録した.291が最高でした。

またホームランは1969(昭和44)年の18本が最高で、打点は翌1970(昭和45)年の51打点が最高でしたが、中軸打者ではなかったので、目立った成績は上がっていないという感じでした。

また、タイトルは無縁でしたが、1970年と73年にはいずれもベストナイン受賞とオールスター出場をしており、彼のキャリアで最高だったのはこの2年間だったと思います。

また、1974(昭和49)年に通算1,000試合出場を、最後の規定打席到達となった1975年に通算100号本塁打と1,000本安打の節目の記録を達成しています。

 

●チーム事情

江尻選手は大洋一筋の現役生活で、球団が優勝したのが1960(昭和35)年と1998(平成10)年であったので、そのどちらにも在籍しておらず、弱小時代の在籍であったので、全く優勝とは無縁の選手キャリアでした。

現役最後の1979(昭和54)年の2位が最高で、1969~71年の3年間が連続で3位でしたが、他はすべてBクラスでした。

 

●昭和50年代

1975年までレギュラーとして規定打席到達を重ね、1976(昭和51)年もほぼレギュラーで活躍していましたが、わずかに規定打席に足らず、到達が8年連続で途切れてしまいました。

 

そして、1977(昭和52)年34歳になっていたシーズンで、巨人・加藤初投手より頭部死球を受け、36時間昏睡状態に陥ったといいます。この事件の事を当時知らず、自分が彼の存在を知った後は、すっかり代打要員になった、この復帰後の事でした。

 

●ラストキャリア

先述の死球禍もある中で、後輩の高木嘉一選手の台頭もあり、レギュラーポジションを奪われてしまった江尻選手。

 

球団の本拠地が川崎から横浜へ移転「横浜大洋」となった1978(昭和53)年、前年に死球禍のあった相手、巨人・加藤投手と再び相まみえる機会が生まれ、時の別当監督が敢えて代打に送り出し、見事にホームランでお返しをしたというドラマチックなエピソードがありました。当時、代打要員で35歳を過ぎ、この先は…という中での因縁の相手との対決、この年2本だけのホームランのうち1本がこの劇的な一発で、ホームランは次に打ったこの年の2号が現役最後となました。

 

そして1979(昭和54)年、11安打で打率.262、0本塁打4打点の成績に終わり、打率は最後まである一定の数字を残していて、あと15試合で1,500試合出場となるところでした。コーチ兼任で現役続行を…という流れもありましたが、新人などを見て時の流れを感じて36歳で現役引退を決断しました。

早生まれなので37歳になる年でしたが、後には大洋の監督、ロッテの監督を務める指導者になりました。

 

この1月10日に80歳の誕生日を迎えられ、自分が30代現役時代を知る選手がもう80かと思うと、時の流れしか感じませんが、王さんや張本さんも80をとっくに越えてるので、それはそうだなとも思わされました。

 

 

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