思い出のプロ野球選手、今回は「若松 勉」選手です。

 

小さな体でコツコツと安打を積み上げ高打率をキープし、「ミスター・スワローズ」と呼ばれチームの顔的存在として活躍、また「小さな大打者」とあだ名され、70~80年代に中心打者であり続けました。

 

【若松 勉(わかまつ・つとむ)】

生年月日:1947(昭和22)年4月17日

経歴:北海高-電電北海道-ヤクルト('71~'89)

通算成績:2,062試合 打率.319 2,173安打 220本塁打 884打点 151盗塁

タイトル:首位打者 2回('72、'77)

主な表彰:MVP 1回('78)、ベストナイン 9回('72~'74、'76~'80、'84)、Gグラブ賞 2回 ('77、'78) 

記録:オールスター出場11回('72~'80、'83、'84)、サイクルヒット('76.7.9) 

 

 

●小さな大打者

 

この人の代名詞はやはりこれでしょう。

170㎝に満たない160㎝台の身長で、自身にもプロでやっていける自信がなく…と記されていたものを見た事がありますが、この身体で生涯打率.319という高率で、これは6,000打席以上では日本プロ野球史上1位の大記録です。

 

●1970年ドラフト3位

1970(昭和45)年ドラフト3位で当時の「ヤクルトアトムズ」に入団しましたが、当時のコーチであった中西太氏がその素質を見抜き、入団に消極的であった若松選手に説得に説得を重ねて入団にこぎつけたそうで、1971(昭和46)年に1年目を迎える事となります。

 

高校を出て社会人で5年間活動していたので、大卒選手より1年遅い入団となりました。ドラフト同期ではあまり選手が浮かびませんが、同学年では同じ社会人出身で小柄な外野手として共通する福本豊選手(阪急)や、他にも門田博光(南海)、江本孟紀(東映)、鈴木啓示(近鉄)、平松政次(大洋)、松岡弘(ヤクルト)、大矢明彦(ヤクルト)、谷沢健一(中日)各選手など錚々たる面々がいました。

 

●1年目から頭角

この記事シリーズで取り上げた最も遅い入団選手は、自分の生まれ年と同じ1970年の門田博光選手でしたが、今回若松勉選手はそれより1年後の1971年入団です。

 

その1年目から112試合に出場して305打席に立ち、規定打席未満ながら.303と3割をマークしました。

当初の背番号は「57」と大きいもので、個人的にその時代を知りませんが、この活躍が認められてオフには背番号「1」を与えられたといいます。

 

●2年目からレギュラー

2年目の1972(昭和47)年から本格的にレギュラーとして活躍し、この年にはギリギリながら初めて規定打席に到達し打率.329でいきなり首位打者を獲得します。オールスターにも初めて出場し、ベストナインも受賞しています。

 

これだけのアベレージヒッターでありながら、意外にも首位打者はこの年と1977(昭和52)年の2回だけでした。それだけセ・リーグには良い打者がいたという事ですね。ホームランは殆どの年で10本台で、最高は20本が2回あり、小物打ちでもなければ大物打ちでもない選手でした。

 

1976(昭和51)年に.344、優勝した1978(昭和53)年には.341、1980(昭和55)年には.351と隔年でかなりの高打率をマークしていますが、いずれも首位打者を逃しており、当時のリーグのレベルの高さが窺い知れます。

 

●優勝の立役者

入団した1971年は球団は最下位で、その後もBクラスが多かったキャリア初期でしたが、1977年に「2位」へ躍進し、これはチームにとっても初の2位でした。

当時の広岡監督のもとで1978年のシーズンは、悲願の初優勝を目指す年となりました。

前半はかなり不調ながら、最終的に打率.341で17本塁打71打点を挙げて、MVPを獲得しました。

現役生活19年で優勝はこの年だけだった事もあり、MVPもこの一度きりでした。

ちょうどこの時期が個人的にTVで野球を見始めた頃で、ヤクルトの選手として一番最初に名前を覚えた選手でしたが、文字通りヤクルトの顔として大活躍していました。

 

●レギュラー時代

2年目の1972年から、39歳の1986(昭和61)まで15年間レギュラーを張り続け、この途中1981(昭和56)年ケガで戦列を離れて規定未満に終わった以外は、すべて規定打席に到達しており、この間3割を12度もマークし、うち1976~80年は5年連続で3割という驚異的な記録を残しています。

1985(昭和60)年の終盤に通算2,000本安打をマークしています。

 

●代打人生

40歳になる1987(昭和62)年序盤に外野守備で交錯してから、守備に就く事が困難となり、代打に生きる事となります。

以後、「○○に代わりまして、若松」のアナウンスで球場はどよめくようになりました。

レギュラー時代とは大きく勝手が違って、ひと振りにかける人生で結果が残せるのか?の声もありましたが、この1987年は実に.377(!)、翌1988(昭和63)年は.348と、打席は少ないながら、40歳を越えてもその打棒はまだまだ健在である事を証明しました。

 

●引退

山田、福本、東尾といった、他球団の同年代選手が昭和の終わる1988年限りで引退していく中で、代打生活3年目となる1989(平成元)年になっても現役を続行していました。

さすがにこの年は打率.224に終わりましたが、2本塁打7打点を挙げ、42歳で現役を引退しました。

 

後にヤクルト監督に就任し、2001(平成13)年に優勝した際には、自ら「お目立とうございます」と言っていたのが印象的でした。

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村