思い出のプロ野球選手、今回は「中塚 政幸」選手です 

 

 

1970年代を中心に大洋一筋で主力として活躍し、いかつい顔とメガネが印象的で「ゴリさん」の異名もあった名物選手です。

 

【中塚 政幸(なかつか・まさゆき)】

生年月日:1945(昭和20)年6月29日
経歴:PL学園高-中大-大洋('68~'82)

通算成績:1,643試合 打率.278 1,440安打 61本塁打 387打点 164盗塁
タイトル:盗塁王 1回('74)

節目の記録:出場-1,000試合出場('77.4.30)、1,500試合出場('81.7.8)

      安打-1,000本安打('77.9.17)

オールスター出場 4回('70、'74、'75、'79)

 

 

●個人的印象

大洋のベテラン外野手、ですね。

この緑オレンジのユニフォームの頃は知りませんが、その後「横浜大洋」になってからの紺のユニフォームの印象はあります。

そしてこのメガネといかつめの風貌がインパクトありました。当時の大洋のベテラン選手は30過ぎてるとすごいいかつい感じの選手が多かったイメージがありましたが、その代表的な選手、のイメージでした。

 

●PL黎明期からの活躍

1962(昭和37)年春の選抜で、PL学園が初めて甲子園に出場した時に新2年として出場した選手のひとりです。

以後同年夏と翌年春の3回連続で甲子園に出場し、同期には後に阪急⇒中日で活躍する戸田善紀投手がいました。

その後は中央大学へ進学し、チームの優勝に貢献しただけでなく、全日本大学野球選手権やアジア野球選手権など大舞台でも活躍し、1968(昭和43)年に大洋からドラフト2位指名を受けて入団しました。

 

●大洋での活躍

ドラフト2位と上位指名で即戦力と期待されたかと思いますが、1年目の1968(昭和43)年は25試合の出場で50打数13安打の.260で2本塁打6打点と限られた出番でした。しかしその限られた中で、5盗塁と光るものを見せたルーキーイヤーでもありました。

レギュラーとして活躍し始めたのは2年目の1969(昭和44)年からです。

初めて100安打をクリア(119安打)し、本塁打はキャリア最多の11本でこれは現役生活唯一の2ケタ本塁打ともなりました。

以後レギュラーとして活躍を続けますが、3年目1970(昭和45)年は126安打を記録し、盗塁は初めて2ケタ(13)を記録しました。また、この年は初めてオールスターにも出場しています。

 

●唯一のタイトル

1973(昭和48)年は故障により規定打席到達が4年連続で途切れる事となりましたが、1974(昭和49)年は盗塁が初めて20個を越え、最終的に28個で盗塁王のタイトルを獲得、これがキャリア唯一のタイトル獲得となりました。

28個で盗塁王とは現代くらいの低水準でしたが、当時のセ・リーグでは20~30台で盗塁王が獲れる年がざらにあり、この前年1973年に盗塁王を獲得した中日の高木守道選手は同じく28個でした。この1974年はセ・リーグ盗塁王の常連だった柴田勲(巨人)や高木守道といった選手が軒並み10個台であったことが幸いしました。この年は4年ぶりにオールスター出場を果たしています。

翌1975(昭和50)年はこれを上回るキャリアハイの33盗塁をマークしていますが、広島・大下剛史選手にタイトルを奪われています。しかしオールスターには2年連続で出場しています。

 

●昭和50年代

昭和20年生まれの中塚選手にとっては昭和50年代というと30代となりますが、その後も活躍を続け、1977(昭和52)年には通算1,000試合出場と1,000本安打という節目の記録を達成し、1978(昭和53)年は33歳にして初の規定打席だの3割到達(.317)をマークし、翌1979(昭和54)年も2年連続で3割クリアの.306をマークし、30歳を過ぎて1,000本以上のヒットを打った以降に、アベレージヒッターへ開眼したという感じでした。この年はまたも4年ぶりにオールスターに出場し、これが4回目にして最後のオールスター出場となりました。これだけ出ていますが、ベストナインもGグラブ賞も全く受賞歴がなく、賞とは無縁でした。

 

●1980年代

1980年代に入ると徐々に出番を減らし、1980(昭和55)年以降は規定打席に到達しなくなりますが、それでもこの年は269打数84安打で規定不足ながら.312をマークし35歳にしてしぶとさを見せつけていました。

1981(昭和56)年になると若手の屋鋪要選手が台頭し、更に出番が減る中で通算1,500試合出場を達成しています。

1982(昭和57)年に打率.234で入団後初の本塁打ゼロに終わり、この年限り37歳で引退しました。

弱い時代の大洋に属していた為、優勝経験は一度もないまま終わりました。

 

 

引退後はスカウト、コーチなどを歴任し、近年でもプロ野球OBとしてYouTubeなどに出演して、かつての同僚たちとトークをしていましたが、現役時代から話術に長け明るい性格だったといいます。

 

▼1981(昭和56)年の選手名鑑より

引退前年36歳の時のものです。背番号は入団から引退まで一貫して「2」でした。

 

 

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