思い出のプロ野球選手、今回は戸田 善紀投手です。
 

 

 

1970年代を中心に阪急、中日で活躍した投手で、特に阪急の優勝には貢献しましたが、1976年にはノーヒットノーランを記録しています。

 

【戸田 善記(とだ・よしのり)】

生年月日:1945(昭和20)年7月27日
経歴:PL学園高-阪急('64~'76)-中日('77~'82)

通算成績:332試合 67勝57敗10S 1,176投球回 25完投 7完封 665奪三振 防御率3.71

記録:ノーヒットノーラン 1回('76.5.11)

   オールスター出場 1回('76)

 

 

●PL学園草創期のエース

今は休部となってしまいましたが、PL学園の野球部が初めて甲子園に出場した年に在学しており、夏の選手権大会に初出場した時は2年生の控え投手で、翌3年の春はエースとなり、甲子園で沖縄の首里高校戦でナント21奪三振という今でも大会記録となっている大記録を打ち立てました。

その為、複数のプロ球団による争奪戦が展開されたといいます。

 

●阪急へ

争奪戦の中、入団にこぎつけたのは阪急でした。

1964(昭和39)年がルーキーイヤーでしたが、個人的にベテランになってからの彼しか知らないので、まず阪急にいた事を知らず、「中日の投手」というイメージしかありませんでした。

そしてそんな争奪戦の中で入団したものの、初期はなかなか一軍戦に出られず、高卒1年目こそ8試合に登板しましたが0勝2敗で、以後一軍ゼロの年もあれば、登板はしたものの一ケタ試合数という、5年目1968(昭和43)年までこのような一軍半のような状態が続きました。5年間で13試合0勝3敗が通算成績でした。

 

●初勝利からも…

なかなか勝てず登板機会にも恵まれない5年間でしたが、6年目1969(昭和44)年にようやくプロ初勝利を挙げました。この年は初めて2ケタ試合(15試合)登板を果たし、以後1ケタ試合の年は無くなりますが、成績的には1勝0敗でした。

翌1970(昭和45)年は再び未勝利に終わり、1971(昭和46)年は2シーズンぶりに勝ち星を挙げたものの、やはり1勝0敗どまりで、ここまでの8年間で2勝3敗、26歳になっていました。こんな成績でいつまでもつのか…という感じの推移でした。

 

●花開くとき

ここまで8年間は目立った成績を残せずにいましたが、9年目1972(昭和47)年になって、それまで最多が17試合だったのが、倍の34試合に登板し、8勝4敗の成績を挙げました。初完投もこの9年目に挙げました。投球回もそれまで33 2/3回が最高だったのに対し、103 1/3回を投げました。以後連続して100回以上を投げ続けますが、チームがリーグ優勝した年に立派に貢献出来た格好でした。

翌10年目の1973(昭和48)年も8勝を挙げ、この年は138 2/3回と規定投球回を初めてクリアしました。

1974(昭和49)年は、初めて設けられたセーブ制度にのっとり、抑えで活躍し6勝6敗8Sを挙げました。いわば阪急の初代ストッパーといっても過言ではなかったと思います。

そして30歳を迎える1975(昭和50)年、初めて2ケタ勝利を挙げました。

26試合に登板、11勝5敗、8完投を記録し、3完封しました。完封は12年目にして初めて挙げました。この年初めて阪急は「日本一」を達成しましたが、遅咲きの花が年を経るごとに大きく咲き誇った、チーム状況や記録を見てるとそんな感じがします。

 

続く1976(昭和51)年も最多を更新しキャリアハイの12勝を挙げ、勝ち星的にはこの2年間がピークで、またこの1976年はオールスターに唯一出場しており、そしてなんといっても「ノーヒットノーラン」を達成しています。そして更にチームは2年連続日本一と、初期になかなか実績をあげられなかった投手が30歳を過ぎて絶好調でノリにのっていた、そんな感じが窺い知れました。
 

●中日へトレード

そんな絶頂期にあった戸田投手でしたが、1976年オフに3対4の大型トレードの対象となり、島谷金二選手らと交換で、中日ドラゴンズへ移籍となりました。

 

1977(昭和52)年より中日でプレーしますが、それまでのようにいかず6勝7敗の成績でした。以後少しずつ出番を減らしていき、1979(昭和54)年は16試合で2勝3敗、それまで7年連続で100㌄以上の投球回を記録していましたが、53㌄に終わり、34歳にして限界も見えてきたかというところでした。

 

 

●80年代 そして引退

1980(昭和55)年は35歳のシーズンでしたが息を吹き返し、7勝6敗1Sと復活しました。また中日在籍時に唯一の勝ち越しで、唯一の規定投球回到達でもありました。

この年は引退した王貞治選手が、彼のボールがすごく早く見えた、と言い、これを感じて引退を決意したともいわれるほどでした。

そんな形で健在ぶりをアピールしましたが、1981(昭和56)年は0勝3敗と未勝利に終わり、1982(昭和57)年は一軍出場がなくなり、37歳で引退しました。