思い出のプロ野球選手、今回は池辺 巌選手です。

 

投手として入団しながら外野手としてセ・パ両リーグでダイヤモンドグラブ賞を受賞した名手にして、多数の守備位置をこなした名選手でした。

 

【池辺 巌(いけべ・いわお)】

生年月日:1944(昭和19)年1月18日
経歴:長崎海星高-大毎・東京・ロッテ('62~'74)-阪神('75~'78)-近鉄('79)

通算成績:1,732試合 打率.264 1,377安打 156本塁打 564打点 108盗塁

表彰:Gグラブ賞('72、'76) ※セ・パ両リーグで受賞

オールスター出場 4回('67、'69~'71)

節目の記録:出場-1,000試合出場('72.8.30)、1,500試合出場('77.5.24)

      安打-1,000本安打('75.5.5)
      本塁打-100号('72.8.4)、150号('77.8.26)

 

●個人的印象

阪神の選手のイメージです。入団はロッテの前身の「大毎」という事ですが、ロッテ時代を含めて見た事がなく、阪神のベテラン選手という感じでした。

具体的な記憶が正直ないのですが、阪神に池辺という選手がいて、結構主力で活躍していた、そんなぐらいの印象でした。

'70年代末期の阪神において、ベテラン選手は何人かいましたが、その中でも最年長ぐらいにあたる選手で、当時の主力で昭和10年代生まれはほとんどいなかった訳ですね。

その後近鉄へ移籍していますが、近鉄時代は覚えているようないないような…記憶があいまいです。

 

●大毎に入団

というと、すごい古い選手のような感覚がありましたが、1963(昭和38)年までが「大毎」で翌年からが「東京」なのですねオリオンズは。

1944(昭和19)年生まれですが、1月生まれにつき昭和18年度にあたり、高卒入団で1962(昭和37)年がプロでのルーキーイヤーにあたります。

 

●投手として入団

この世代の選手には割と多かったのかもしれませんが、投手としてプロ入りしています。二刀流ではなく、あくまで投手としてでした。

高卒1年目で一軍マウンドデビューも果たしており、1試合のみですが3㌄を投げ自責点0の防御率0.00という数字が残っています。

 

●投手から内野手、そして外野手へ

2年目1963年から野手登録となり、この年は内野手として登録され、一軍の試合にも19試合出場しています。ほとんどヒットも打てませんでしたが、球団が大毎から「東京」へ変更となった1964(昭和39)年からは外野手登録となり、ここから一軍に定着するようになりました。

外野手として、両リーグでダイヤモンドグラブ賞を獲得した数少ない選手の一人ですが、投手入団、内野手登録を経て外野手になっていたんですね。

 

●ロッテの主力へ

外野手登録となった1964年から出番を増やし、この年93試合に出場しました。翌1965(昭和40)年も同等の成績でしたが、この4年目にして初本塁打を打っています。

 

1966(昭和41)年は少し出番を増やし、本塁打は10本32打点と、打の方で戦力になってきました。

初めて規定打席に到達したのは6年目1967(昭和42)年からで、以後ロッテの外野レギュラーとして6年連続で規定打席に達しており、安打数も同じ6年連続で100安打を越えており、本塁打は1年ずれますが1968(昭和43)年から6年連続で2ケタを記録しています。

 

オリオンズ時代はリアルでは知りませんでしたが、阪神時代しか知らない身からするとこんなバリバリのレギュラーで活躍していた時期があったのか、と今回調べていて驚きました。

 

生涯打率.264とそんな高くないのですが、規定打席に到達した7度のうち唯一、球団がロッテになった初年度の1969(昭和44)年のみ3割を越え、.322をマークしました。

これは打撃ベストテン3位で、この年は常連の張本勲選手(東映)と「あぶさん」のモデルとなった酒仙の永淵洋三選手(近鉄)が.333でタイトルを分け合い、その次の成績だった訳です。

 

●ロッテで2度の優勝

常勝チームにいた訳ではありませんが、優勝には割に縁のあった方で、ロッテの2度の優勝時にいずれも在籍していました。

最初は1970(昭和45)年で、この時はV9巨人の真っ只中で日本一は逃しましたが、主力として打率.274でキャリアハイの22本塁打をマークし、61打点をあげています。日本シリーズでも敗れはしたものの全試合に出場しました。

 

1972(昭和47)年まで規定打席に到達し、この年に通算1,000試合出場と、100号本塁打を達成しました。また打点のキャリアハイはこの年で70打点をあげ、更にはこの年新設で表彰されるようになった「ダイヤモンドグラブ賞」をパ・リーグ外野手部門で、福本豊・広瀬叔功という錚々たるメンバーと共に受賞しています。いわば彼にとって最高の年のひとつであったと思います。

 

2度目のロッテ優勝は1974(昭和49)年で、この年はセ・リーグでV9を誇ってきた巨人のV10が成らず、中日が優勝しましたが、日本シリーズでロッテが中日を破って日本一を達成しました。

そんな自身初の日本一を経験した中にあって、前年より規定打席未達の形となっており、これには当時の監督との関係性もあり、それまでつけていた背番号34を奪われ「16」へと変更になった事や、若手選手への起用切替え等色々とあったようです。

 

当時これだけの成績を挙げていれば、とっくに若い番号へ昇格するところですが、34を着け続け、この写真にもあるように移籍後の阪神でも34を着けていたので、よほど愛着があったものと思いますが、これを監督に奪われてしまったので野球以前の問題になってしまうのは想像に難くなく、しかも10番台って大体投手がつける番号で、適当に空き番をあてがわれた感もあります。

 

これらもあり74年の日本一は戦力としてあまり貢献できなかったようで、日本シリーズでも先発は1試合だけで打棒も振るわず(6打数1安打)に終わってしまいました。

 

●阪神へ

日本一を達成した金田ロッテですが、阪神の実に5選手とロッテの池辺選手を含む2選手との大型トレードを断行しました。主力級はほとんどいなかったので大きな話題にはならなかったようですが…。

という訳で1975(昭和50)年からは阪神に在籍となりました。

 

阪神で活躍していた頃の記憶はありますが、規定打席に到達したのは移籍初年の1975年のみで、その後は少しずつ出番を減らしていく格好となりました。

この75年には通算1,000本安打を記録しており、また翌1976(昭和51)年は規定打席不足ながら2度目のダイヤモンドグラブ賞を受賞し、両リーグでの受賞を達成しました。

 

1977(昭和52)年は2年連続で13本塁打をマークし、規定打席には僅かに足りませんでしたが、まだまだ健在ぶりをアピールし、通算1,500試合出場と150号本塁打を達成しました。

またこの年には「珍事件」に出くわし、試合で使える捕手がいなくなり、全くの急造で捕手としてマスクを被り試合に出る事となりました。投手から入り内野経験もあるものの、捕手だけはやった事がなかったようで、苦肉中の苦肉の策でしたが、首脳陣が困り果てた末での起用だったようです。

 

●近鉄へ移籍、引退

1978(昭和53)年は少し出番が減り、62安打1本塁打に終わり、それでもまだ戦力としてやれるというところでしたが、1979(昭和54)年金銭トレードで近鉄へ移籍しました。

ここでは池辺豪則と登録名を変えて臨み、代打を主戦場として32安打、2本塁打10打点を挙げ、近鉄悲願の初優勝に貢献し、自身は3度目のリーグ優勝経験となりました。

 

日本シリーズではあまり出番がなく2打数ノーヒットでしたが、近鉄の優勝に貢献した一人として名を刻み、翌年の優勝を経験する事なく、この年限り35歳で引退しました。

 

その後はコーチとして古巣以外にも各球団で活躍していました。

 

 

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