思い出のプロ野球選手、今回は福間 納投手です 

 

1980年代中盤を中心に、阪神で中継ぎ、今でいうセットアッパーとして多くの試合に登板し、中継ぎで規定投球回に到達して防御率のタイトルを獲るなど活躍し、1985年の阪神日本一にも大きく貢献した左腕投手です。

 

【福間納(ふくま・おさむ)】

生年月日:1951(昭和26)年7月13日
入団:ロッテ('78・ドラフト1位) 
経歴:大田高-松下電器-ロッテ('79~'81途)-阪神('81途~'90)

通算成績:451試合 22勝21敗9S 647投球回 0完投 0完封 360奪三振 防御率3.67

位置:投手 投打:左左 現役生活:12年

タイトル:最優秀防御率 1回('83)
規定投球回到達:1回 ('83)  

記録:セ・リーグ最多登板 2回('83、'84) ※84年77試合登板はセ・リーグ新記録

 

 

 

個人的印象

阪神の中継ぎ投手、で、今でいうセットアッパーのはしりという印象です。

当時は先発以外ほぼ評価されず、抑えのストッパーというものが球団ごとに確立度も違っていて、必ずしもチームに1人絶対的守護神がいる、という状況ではありませんでした。(阪神には山本和行投手がいました)

 

中継ぎ投手なんて「先発を失格した投手」や「まだ先発を任せられない投手」などがやるもの、という感覚で、年俸査定にもほぼ反映されなかったといいます。そんな中で、多くの試合に登板し、勝ち試合では抑え投手へバトンを渡す、当時こんな言葉はまだありませんでしたが「セットアッパー」的な中継ぎとして注目され始めた投手だと思います。

また当時のリリーフ投手は、抑え投手も含めて1㌄ではなく「回またぎ」も当たり前だったので、結構な投球回数になっていて、リリーフ投手にもかかわらず規定投球回に到達して防御率のタイトルまで獲ってしまったのはビックリでした。

阪神の印象が強いですが、その前にロッテにいたなんて当時は全然知りませんでした。

 

 

プロ入りまで

高校は島根県の大田(おおだ)高校で、この高校は公立で島根県の中でそれほど強い学校ではなく、甲子園には春夏3回ずつ計6回出場していますが未勝利のままで、甲子園は1987(昭和62)年以来37年無縁の状態です。

そんな中で、福間投手は3年の春に甲子園に出場しています。

島根県出身のプロ野球選手はそんなに多くはありませんが、近い世代には4つ上に山内新一投手(邇摩高校)がいて、1つ下に三沢淳投手(江津工高校)がいるなど、島根県の西部である「石見地方」に多くいた感があります。三沢投手とは3年夏の県予選で投げ合い敗れています。

 

高校卒業後は松下電器に入社しました。1つ上に阪急で活躍する山口高志投手がいて、福本豊選手や加藤秀司選手は彼が高3の時に阪急に入団しています。

わずか1年でドラフトにかかりますが拒否して会社に残り、その後野手への転向などしながら、山口高志投手の阪急入団に伴い投手に返り咲き、特にその後に輝かしい実績を残し、1978(昭和53)年のドラフト会議で当時のロッテオリオンズから1位指名を受け入団しています。

この年のドラフトでは、ロッテは3位に落合博満選手を指名し入団させていますが、この年ロッテにドラフトで入ったのは、福間投手と落合選手のみです。

 

 

初期キャリア

イコール、ロッテ時代の話になりますが、前回記事の仁科時成投手は同級生で、同じ中国地方の高校で活躍しましたが、仁科投手は社会人を7年経験し、26歳になる年での高齢入団だった訳ですが、福間投手は9年経験して28歳になる年であり、またドラフト1位という、必然的に即戦力を求められる、逆に言えば最初から崖っぷちのような状況だったと思います。背番号「17」は明らかにその期待の表れでもありました。

 

しかし、ひじを痛めた等で満足な投球ができず19試合で0勝1敗防御率4.14、投球回は37というスタートでした。

2年目1980(昭和55)年は更に出番が減り、0勝0敗防御率5.25で12㌄という散々なもので、2年目29歳で通算27試合0勝1敗、まさに崖っぷちに追い込まれていたといっても過言ではない状況でした。

不調の原因はなんと「インベーダーゲーム」でした。

当時大流行したインベーダーゲーム、ゲームセンターだけでなく喫茶店や民宿などにもよく「台」で置いてありましたが、暇を持て余していた頃に寮の近くの喫茶店に置いてある台にハマり過ぎて、台ごと肘で持ち上げたりして、これが痛みの原因になったとか。当時のプロ野球選手は、スロットでフルにレバーを引いたりして、ハマった結果ひじを痛めたという事例も決して珍しくなかったといいます。

 

ただ、本人が後に語っていますがこれだけではなく、プロ入り当初はリリーフ投手として稼働していて、リリーフの調整法が分からず、いつ出番がくるかも分からない状況で、ブルペンで数多くの球を常に投げていた事なども重ねっているのではないか、というのもあったといいます。

 

 

トレード

3年目1981(昭和56)年にして早くも30歳を迎える福間投手でしたが、ロッテでは結局1勝も挙げられないままシーズン途中で阪神タイガースへ、深沢恵雄投手との交換でトレードされました。

ドラフト1位入団選手が未勝利のまま、わずか3年目の途中(実質2年)でトレードされるというレアな事態となりました。

背番号は互いのつけていた番号となり、福間投手は深沢投手が阪神でつけていた「12」になりました。

しかしこのトレードが互いにとって転機となり大成功をおさめ「トレードの成功事例」としてしばしば挙げられていました。

 

 

移籍で開花

阪神への移籍初年でいきなり35試合に登板、投球回は30⅔㌄と多くありませんでしたがセーブも記録し、0勝2敗1S防御率2.32と勝利こそあげられませんでしたが好成績を残しました。ある試合では、負け試合で3回5奪三振の好投を見せてスポーツ新聞に自身の高騰ぶりが載った事に「ロッテ時代にはなかったこと」で感動した、と本人が話していました。

ロッテでは活躍できず、これがイコール20代で活躍できず、ともなりますが、ここからその後の活躍に繋げていく事となります。

 

31歳の初勝利

1982(昭和57)年から4年間くらいが全盛といえるキャリアだったように思います。

この年は63試合に登板し71⅓㌄を投げ1勝2敗防御率3.17の成績を残しました。

この年あげた1勝は、31歳にしてプロ入り初勝利となりました。

63試合という、シーズン試合数に約半分の驚異的な記録を残していますが、この年の阪神は抑えの山本和行投手も同じ63試合に登板し、更には池内豊投手が当時のセ・リーグ年間登板数最多タイの73試合に登板しており、とにかくリリーフ陣がフル稼働でした。

 

 

唯一のタイトル

1983(昭和58)年は12年間の現役生活で唯一、規定投球回に到達した年でした。

この年は前年を更に上回る69試合と試合数の半分を越える試合のマウンドに立ち、セ・リーグ最多登板を記録しました。前年73試合に登板した池内投手も64試合に登板しており、2年連読のフル稼働でした。

先発も2試合務めているとはいえ、基本はリリーフで130⅔㌄を投げ、6勝4敗6S防御率2.62最優秀防御率のタイトルを手にしています。

この時期は中継ぎ投手でもリリーフで長いイニングを投げるのが当たり前で、少し先発すれば規定投球回数に届いてしまう事もたまにありましたが、この翌年も広島でリリーフ投手だった小林誠二投手が最優秀防御率のタイトルを獲得しています。

 

この年の福間投手は7月の時点では防御率1点台で規定投球回数わずかに上回っている状況でしたが、最終的にほぼ同じペースで規定投球回到達となり、防御率については大洋・遠藤一彦投手に終盤抜かれた事もありましたが、10月に巻き返して念願のタイトル獲得となりました。

 

このフル稼働は翌年にも続き、1984(昭和59)年はなんと!77試合に登板しました。

当時プロ野球記録であった78試合の実績をもつ稲尾和久氏がロッテの監督であり、「リリーフ投手に記録つくられるのは…」などと圧力があって77試合になったというような話も聞きますが、セ・リーグの最多登板記録はこの時福間投手が塗り替えました。この年も規定投球回に近い119⅓㌄を投げ4勝2敗1S防御率3.62の成績を残しました。

ただし防御率は1点上がっており、さすがにかなりきつかったようです。

リリーフ投手としては常に登板態勢を取らなければならず、どんな展開でも気を抜けず、小林繁投手のいた前年(1983年)までは、彼が完投してくれるので「まず出番はない」と思って1日休息が取れると思うと、かなり気分的に違ってきて「次がんばろう」という気になれたそうです。しかし小林投手が引退し、完投を見込める先発投手がほぼいない状況になると全試合気が抜けず、気分的にもかなり消耗したといいます。

 

唯一の優勝経験

1985(昭和60)年は現役生活唯一のリーグ優勝、日本一を経験します。

104⅓㌄を投げ58試合で8勝5敗1S防御率4.05と、勝ち星はキャリアハイとなり、100㌄以上投げたのは83年からこの年までの3年間で、出番的なピークだったといえます。

優勝に大いに貢献したものの、来る日も来る日も登板に備えて緊張する場面が続き、また登板を重ねても、なんとなく惰性で投げていて、打たれた時も感覚がよく分からなかったと本人が後述していますが、そのくらい登板している時よりも登板に備えている時の方が気を張っていたのではないかと思います。

 

西武との日本シリーズでは、第4戦で西岡良洋選手に勝ち越し本塁打を打たれて敗戦投手になり、次の第5戦ではリベンジ登板で同じ西岡選手を打ち取り雪辱を果たしました。当時の吉田監督がよくこのような「借りを返させる」ような起用をよくしていたといいます。

 

 

優勝のあと

阪神の選手に多く見られる傾向で、優勝をピークにその後出番、成績が急降下するというものがあり、福間投手も同様の道をたどる事となり、優勝翌年の1986(昭和61)年は急速に出番が減り6試合で1勝2敗防御率4.63、23⅓㌄を投げただけでした。ただし6試合中3試合先発しています。これまでも年に数試合、先発登板はしていましたが、何十試合のうちの数回であり、この年は半分が先発の格好でした。

 

その後は1987(昭和62)年に48試合、1988(昭和63)年に42試合に登板していますが、勝敗に関係する場面にはほぼ出なくなり、1986年以降は0勝か1勝かだけの細々としたものでした。

チーム状態も急速に悪化し最下位争いの常連になる状況で、1989(平成元)年にあげた1勝が現役最後の白星になり、9試合で5㌄を投げただけに終わり、1990(平成2)年は17試合に登板しましたが0勝1敗防御率10.24で9⅔㌄のみの投球をもって、39歳で現役を引退しました。

 

 

左投手として貴重な存在で、バリバリの中継ぎから勝敗に直接絡まない中継ぎでも長く現役を続けてきましたが、球速は早くないものの左打者の外へ逃げる変化球が有効で、タイミングをずらしたりしながら打ち取っていたイメージがあります。

 

引退後は解説者からコーチを務め、その後は少年野球指導や野球アドバイザー的な事をやっていて、70歳間近で110km/hの球速を出せるとして実際に投げている動画を見る事ができます。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

 1984年の成績と、当時の通算成績が載っていますが、この時点でまだ11勝。通算22勝のうち半分を34歳以降に挙げており、特にこの85年は8勝を上積みする事となります。

防御率タイトル、年間最多登板更新などキャリア的に充実期で、この年は日本一を経験するというまさに絶頂期でした。

中継ぎ投手でしたが、そこそこ評価されていて年俸2,400万(推定)とされていました。

あだ名は「チンさん」とありますが、かなりひょうきんな方だったとありました。

ちなみに歌手としてレコードも出しています。

      

 

 

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