思い出のプロ野球選手、今回は山内 新一投手です。 

 

1970年代から80年代前半にかけて、特に南海で先発投手として活躍した投手で、311試合連続先発登板のNPB記録を持つほど、先発投手として活躍してきました。

 

【山内 新一(やまうち・しんいち)】

生年月日:1947(昭和22)年12月3日

経歴:邇摩高-三菱重工三原-巨人('68~'72)-南海('73~'83)-阪神('84~'85)

通算成績:431試合 143勝142敗0S 2,459投球回 118完投 18完封 774奪三振 防御率3.74

入団:巨人('67 ドラフト2位)

オールスター出場 6回('73~'76、'79、'80)

節目の記録:投球回-1,000投球回('76.7.8)、1,500投球回('79.5.20)、2,000投球回('81.7.17)

      勝利-100勝('79.7.24)

 

 

個人的印象

南海の山内トリオの最年長、そして、先発投手の代名詞的存在、というところです。

しかも、山内和宏(背番号18)、山内孝徳(背番号19)、山内新一(背番号20)と背番号も並んでいました。和宏・孝徳両投手は昭和30年代生まれですが、この山内新一投手は彼らより10歳ほど年上でした。

 

昭和50年代の南海のエースといっても過言ではなかったと思います。

当時のパ・リーグは阪急・山田久志、近鉄・鈴木啓示、西武・東尾修、ロッテ・村田兆治といった錚錚たるメンバーがエースとして君臨していましたが、南海と日本ハムはそこまでの投手(後に名球会入りするほどの)はいなくて、日本ハムは高橋直樹投手がいましたが、80年代早々にセ・リーグへ移籍し、南海は後に阪神へ移りましたが、cそれでも勝ち星的には通算143勝を挙げた彼がエース格になるでしょうか

 

 

プロ入りまで

高校は島根県の邇摩(にま)高校の出身で、この高校にはプロ野球のOBが数名いますが、実績は山内投手が抜きん出ています。

この邇摩という地は、現在は大田市にありますが、平成の大合併前の地名で、「邇摩郡仁摩町仁万」などと、すべて「にま」と読みながら、すべて表記が違うという場所がありました。

この邇摩高校は甲子園に春だけ2度出場した事があり、1966(昭和41)年と1991(平成3)年の選抜大会で、共に初戦敗退しており、甲子園で勝ったことがない状態です。

初の甲子園は1966年の選抜で、ちょうど山内投手が卒業した直後の事でした。

 

その後、社会人の三菱重工三原に在籍し、都市対抗での活躍で注目され、1967(昭和42)年のドラフト会議で巨人から2位指名を受けて入団しました。

当時の巨人といえば、1965(昭和40)年から3年連続で日本一になった頃で、その球団からの2位指名という事で、かなり期待された選手だったと思われます。

 

 

巨人時代

山内投手について、リアルで知らなかったのが巨人時代でした。巨人にいた、という事自体が驚きでした。

 

1968(昭和43)年がルーキーイヤーでしたが、この年は一軍出場がなく、2年目1969(昭和44)年の8月になってようやく初めて一軍デビューをしました。

 

この年は7試合1勝1敗、防御率6.35、先発は3度務めています。デビューは救援完了でしたが、その3日後に初先発・初勝利を挙げますが、この年の勝ち星は結局これのみとなりました。

 

3年目の1970(昭和45)年に台頭し、この年は41試合に登板し、規定投球回に及ばない111⅓㌄を投げ、8勝4敗の成績を残し、防御率1.78という素晴らしい数字を残しています。

この年が巨人時代で最も勝ち星を挙げた年であり、最も優勝に貢献した年であったと言えます。

その後1971(昭和46)年は5勝5敗、1972(昭和47)年は0勝1敗と勝ち星なしに終わってしまい、チームが連覇を突き進む中、だんだんと出番がなくなり勝ち星も減っていきました。

 

巨人で戦力として苦しくなってきたと見られたか、この年限りでトレードとなり、富田勝選手とのトレードで、松原明夫投手と共に南海ホークスへ移籍する事となりました。松原投手とは、後に広島で活躍する福士敬章投手の事です。

 

 

南海で活躍

山内投手といえば、断然南海のイメージですが、巨人で0勝に終わった翌1973(昭和48)年、いきなり20勝を挙げ、20勝8敗の堂々たる成績を挙げました。投球回は243㌄で、初めて規定投球回数に到達しました。完投及び完封もこの年6年目にして初めて記録し、オールスターにも初めて出場し、メモリアルイヤーとなりました。

0勝の次が20勝ってのがすごいですね。ただし、ロッテ成田文男投手が21勝を挙げ、最多勝は獲れませんでした。

 

それまで巨人に在籍し、一軍で投げて4年連続チームが優勝していますが、南海へ移籍してまたリーグ優勝を経験しました。ただし日本シリーズでは古巣・巨人と対決して敗れ(自身は勝敗つかず)、初めて日本一になれませんでした。

 

当時の南海といえば。野村克也兼任監督の時代でした。

いわゆる「野村再生工場」のはしりのような選手で、前年には東映に入団してわずか1年で放出された江本孟紀投手がいきなり16勝を挙げており、同級生である山内投手がこれに続いた格好となりました。

 

1974(昭和49)年は10勝6敗、この年が入団して初めてチームがリーグ優勝しなかったという経験をしました。翌1975(昭和50)年代は10勝12敗と、10勝止まりでしたが、それでも2ケタ勝利は維持していました。1975年は防御率2.55と、規定投球回到達で初めての2点台を記録し、4完封はリーグ最多を記録しました。(それでも負け越しました…)

 

そして2度目のハイライトが1976(昭和51)年に訪れ、3年ぶり2度目の20勝を挙げました。この年の最多勝は山田久志(阪急)投手で26勝、ロッテ村田兆治投手が21勝と3位でした。他球団のエースが強かった事もあり、20勝では最多勝を獲得できない時代でした。よって2度も20勝を達成しながら、遂に最多勝のタイトルを獲る事なく、無冠のキャリアとなってしまいました。

33試合に登板し20勝13敗と、33試合ともすべて自身の勝敗に繋がっているという何気にすごい記録を成し遂げています。21完投4完封で、防御率2.28の素晴らしさでした。オールスターには4年連続出場し、巨人で0勝に終わってトレードに出されながら、押しも押されぬ南海のエースにのし上がりました。

 

 

30代の活躍

1977(昭和52)年は30歳を迎える年となり、12月生まれなのでシーズン中は29歳ですが、この年は11勝12敗に終わり、オールスター出場も4年連続で途切れる事となりました。それでも5年連続2ケタ勝利は立派なものでした。

 

しかし1978(昭和53)年は大乱調に陥り、実に3勝16敗、防御率4.91へ急降下となりました。

1979(昭和54)年は復活して12勝7敗と2年ぶりに2ケタへ返り咲き、1980(昭和55)年は9勝16敗と負けが込み、2年ぶりにリーグ最多敗戦となりましたが、この年は6回目のオールスター出場で、これが最後となりました。

 

 

山内トリオ

1981(昭和56)年には、自身と同じ山内姓の投手が一気に2人も新入団となり、しかも背番号も自身の20に並ぶように山内和宏(18)、山内孝徳(19)となり、背番号も連番となった「山内トリオ」として売り出されました。

 

この年は14勝10敗でしたが防御率4.44、30歳を過ぎたあたりから防御率4点台が多くなり、3点台が最後だったのはこの前年、1980年の事でした。

 

1982(昭和57)年、35歳になる年が最後の2ケタ勝利で10勝12敗、1973年から継続していた規定投球回数到達もこの年限り10年連続で途切れる事となります。完封もこの年が最後でした。

他の山内勢が2年目を迎えて主軸へと成長し、山内トリオ3人揃って2ケタ勝利を挙げた唯一の年でもありました。

 

1983(昭和58)年は衰えからか2勝9敗、防御率8.55でしたが、登板した13試合はすべて先発登板で、1974年から10年連続で全試合先発登板を果たしています。

 

 

最後のひと花

1983年限り、36歳で南海を退団した山内投手でしたが、阪神への無償トレードが決まり、1984(昭和59)年から阪神タイガースでプレーする事となりました。

 

37歳を迎える大ベテランとして移籍しましたが、この年も25試合すべて先発登板を果たして規定投球回には届かず108⅓㌄ながら7勝9敗と復活を遂げ、ベテラン健在をアピールしました。

1985(昭和60)年は、阪神が優勝した記念すべき年でしたが、自身は5試合に登板したのみで1勝1敗、防御率7.45に終わりました。そしてこの年は久々12ぶりのリリーフも経験し、ずっと続けていた連続先発登板は311で途切れました。先発を諦めてリリーフで登板することになった時、既に引退する気だったのかは分かりませんが、結局このシーズンに38歳で引退しました。

 

昭和20年代、団塊世代生まれで通算143勝を挙げていながら、セーブはひとつも記録していないという「根っからの先発投手」だった事が窺えます。

この時代はセーブ制度も始まり、先発投手も翌日は抑え等無茶使いされていた頃で、名球会入りした名だたる投手陣でも、結構セーブ数を挙げている投手は当たり前にいましたが、彼に限っては通算0セーブで現役を終えています。

 

 

 

 

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