思い出のプロ野球選手、今回は「江本 孟紀」投手です。

 

「エモやん」として親しまれ、歯に衣着せぬ奔放な発言でプロ野球選手の枠に収まらず、俳優、国会議員等様々な分野で活躍したプロ野球出身のマルチタレントのはしりのひとりです。今ではYou Tuberとしても活躍しています。

 

【江本 孟紀(えもと・たけのり)】

生年月日:1947(昭和22)年7月22日
経歴:高知商高-法大-熊谷組-東映('71)-南海('72~'75)-阪神('76~'81)

通算成績:395試合 113勝126敗19S 1978 2/3投球回 78完投 17完封 1,130奪三振 防御率3.52

記録:オールスター出場4回('74、'76、'77、'79)

節目の記録:勝利-100勝('79.9.18)

      三振-1,000奪三振('80.6.8)

 

●第1回ドラフトにかかっていた

第一回のドラフト会議は1965(昭和40)年のオフに行われていますが、江本選手はこの時点で高校3年生でドラフトの対象でした。

高校時代、高知商では甲子園には2年生の時のみ出場し準決勝まで進出していました。

3年次は野球部員の暴力問題が発覚し、いずれも出場停止となり、土俵に上がる事すら許されませんでしたが、ドラフトにはかかり(西鉄4位)、しかし大学進学を表明し法大へ進みました。

 

●2月に入団

法大では1学年上に「法大三羽烏」(山本浩二・田淵幸一・富田勝)といわれた錚々たるメンバーが居ましたが、そんな中で大学では通算6勝の成績に終わり、大卒時点ではドラフトに掛からなかったのか、そのまま社会人の熊谷組へと進みますが、その1年目もドラフトに掛からず、その後東映より入団の誘いを受け、1971(昭和46)年の2月に「ドラフト外」で東映フライヤーズに入団しています。

 

●1年ごとにキャリアが変わる

大学4年生から、これだけ毎年所属が変わる珍しい選手でした。

'69法大4年→'70熊谷組→'71東映入団→'72南海移籍

と異例のレベルで、社会人が1年だけならば、プロ入団後1年でトレードへ出されるのもかなりレアなケースです。

2月のキャンプイン後に東映に入団していて、殆ど知名度もなかったようで、馴染むのに苦労したようで、また強面の面々がゴロゴロいたと最近YouTubeでもよく語っています。大杉勝男、白仁天といった選手に打撃投手として投げたところ、ストライクが全く入らずイップスのようになったところを、次に出てきたのが張本勲選手で、いずれもその強面系で「もうダメだ」と思いながら投げると、張本選手はそれらのボール球がどこへ行っても全部打ち返して、「あれで助かった」「張本さんは恩人」というような事を話しています。

当時の東映の内情などなかなか明かされる事もなかったので、プロ野球出身のYou Tuberによるこういう証言ほ本当に貴重というものですが、奔放な発言で知られる彼も、意外にも?!強面の先輩相手には足が震えるほどだったというから、この点は驚きですらありました。

 

●入団1年でトレード

2月に入団しながらも4月には一軍デビューする事ができ、26試合に登板しましたが、0勝4敗、防御率5.02と結果を残せず、12月には南海へトレードされました。

2月に東映入団し、1年経たないどころか、同じ年に入団とデビューとトレードが重なる例というのは、殆どないと思います。

そのくらいの目まぐるしさですが、当時南海の野村克也監督がその能力を見抜いたのか獲得に名乗り出ての事といいます。

 

●エースへ

東映時代の背番号は49でしたが、南海に入るや野村監督から16を与えられました。

「エースになるんだから」という事で与えられ、意気に感じて投げたといいます。

という事で2年目1972(昭和47)年は初勝利を含む16勝13敗で、一躍南海ホークスのエースの座に就きました。

移籍2年目の1973(昭和48)年は南海球団として最後のリーグ優勝を成し遂げた年でしたが、負け越しはしたものの12勝(14敗)で防御率はキャリアハイの2.74を記録、完封もキャリアハイの5回を記録し、優勝に大きく貢献しました。野村監督にとっても南海では最初で最後の優勝となりました。

その後も南海投手陣の主軸として、安定して2ケタ勝利を積み重ねていきますが、チームを束ねる野村監督の私的な問題がチームにまで影響するようになり、諫める進言をしたところ、トレードで出される事となってしまいました。

野村監督がその事がもとで解任されるのが1977(昭和52)年オフの事でしたが、江本投手はその2年前の1975(昭和50)年オフに阪神へ移る事となりました。

 

●阪神のエース

1976(昭和51)年より阪神へ移籍し、初めてセ・リーグで戦う事となった江本投手。

トレード時の相手は「あの」江夏豊投手で、ただ1対1ではなく、周りも巻き込まれて上で4対2の大型トレードとなりました。

阪神1年目の1976年は15勝9敗と大勝ちで、30歳になる1977年以降も順調に2ケタ勝利を記録し続け、1979(昭和54)年まで8年連続で2ケタ処理を達成し、この年の終わりには通算100勝を記録しています。

 

個人的に、自分が野球を見始めた時の「阪神のエース」はこの江本投手であり、たぶんテレビでも阪神の投手としては最もこの目で見た投手だと思います。当時は南海時代以前を知らなかったので、余計に阪神のエースのイメージが強かったです、まさか阪神で外様だとは思っていませんでした。

 

また、記録を見て初めて知りましたが、抑えを務めていた時期もあり、1978(昭和53)年は11勝13敗11Sと「10勝10S以上」を記録し、しかも規定投球回に到達しているというまさにフル回転していました。当時だと巨人の新浦投手もこのように使われていました。

 

●有名なセリフ

「ベンチがアホやから野球がでけへん」という有名なセリフを残して引退した、とありますが、そのままその通りに言ったかどうかは定かではないようで、ただ周辺関係者の話を総合すると、そのような趣旨の言葉をたいへん興奮しながら放ったと言われています。

1980(昭和55)年に連続2ケタ勝利が8年で途絶え、翌1981(昭和56)年のシーズン中に降板した際に上記のセリフが出たという事で、当時小5でしたが彼がベンチ批判をして引退する事になった的な出来事があったのは、記憶の片隅にありました。

なので、多少成績は落ちてはいたものの、力が衰えて引退とかそういう要素はほとんどなく、これがなければもう数年選手寿命が延びただろうと思います。

 

●70年代きってのイケメン投手

今でいうイケメンの典型的な投手で、上の写真を見てもハンサムでスタイルも抜群、という当時の昭和のプロ野球界にはなかなかいなかったキャラクターでした。それでいて思った事をハッキリ言うタイプで、その事も人気に拍車をかけました。阪神というセ・リーグに来た事も勿論大きかったと思います。

 

また個人的になんですが、この子供時代、ひげを生やした選手は正直あまり好きではありませんでした。好きではないどころか、ひげを生やした選手にカッコいい選手はいないと感覚的に思っていましたが、江本投手だけは別でした。ヒゲを生やしてもカッコいい人はカッコいい、そんな感覚だったのを覚えています。

あと覚えてる事としては、投手交代後にリリーフとして上がる時の投球練習時に、キャッチャーの方へ向かって手首をスナップする動作を個人的に初めて見た選手で、この仕草を含めて「カッコいいな」と思ったものでした。

 

その後の足跡がまたマルチな方向へ推移した?ので、元プロ野球選手としての実績にはあまり注目されていませんが、ボークの数が日本プロ野球記録というものを持っています。また先述の通り8年連続2ケタ勝利を含む100勝以上を挙げた、れっきとした実績を持った投手であった事もここで改めて触れておきたいと思います。

 

 

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