思い出のプロ野球選手、今回は藤波 行雄選手です。 

 

1974(昭和49)年に中日にドラフト1位で入団し、その年にチームが優勝し新人王を獲得、その後引退覚悟のトレード拒否は話題を呼び、現役晩年には代打の切り札として存在感を発揮した選手です。

 

【藤波行雄(ふじなみ・ゆきお)】

生年月日:1951(昭和26)年4月26日
入団:中日('73・ドラフト1位) 
経歴:静岡商高-中大-中日('74~'87)

通算成績:1,146試合 打率.273 539安打 24本塁打 186打点 37盗塁

位置:外野手 投打:左左 現役生活:14年
規定打席到達:なし

表彰:新人王('74)
節目の記録:出場-1,000試合('85.4.21)

 

 

 

個人的印象

中日の代打の切り札、の印象が強いです。

若い時はかなりの試合数に出て、規定打席に届いた事はないものの、準レギュラー的に試合に出ていたようで、名前もよく聞いたように思いましたが、自分の印象が強いのは現役晩年の代打での登場が多かった頃でした。

80年代の大砲ばかり揃った中日打線にあって、そんな大物打ちの印象はありませんでしたが、左の代打として貴重な存在で、ミートがうまい印象がありました。

前回記事の藤沢公也投手と「藤」のつく選手として、「藤沢」「藤波」と幼心に混同していました。

 

プロ入りまで

高校は静岡県の静岡商高で、2年夏に甲子園に出場し、この時は新浦壽夫投手が1年生エース(年齢的には同級ですが)として活躍し、準優勝までいきました。

3年夏も連続出場し、この時も準々決勝まで進みました。

 

その後は中央大学へ進学しました。

阪神へ入った佐野仙好選手は中大の同期です。

1年春から卒業まで全試合全イニングに出場するほどの大活躍を見せ、東都大学リーグ最多安打や三冠王獲得など華々しい活躍をしていたといいます。

その実績を引っ提げて、1973(昭和48)年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けて入団しました。

 

新人王

ルーキーイヤーは1974(昭和49)年で、この年は中日のリーグ優勝に沸いた年でもありました。

背番号は「3」を与えられ、即戦力の期待感が如実に表れていたと思いますが、個人的にはその印象がなく、現役後半の「40」のイメージしかないですね。

1年目の成績は90試合出場で、114打数33安打(打率.289)で、1本塁打15打点で、昭和49年のセ・リーグ新人王に輝きました。

実績的には90試合に出ているものの先発は18試合で、打席は130(規定打席数の1/3以下)と本来ならばとても新人王の成績ではありませんでしたが、この年は他に活躍した選手がいなかったか本人もラッキーというほどのレベルでの受賞となりました。

 

2年目1975(昭和50)年は、81試合で87打数21安打(打率.241)で0本塁打11打点で、1年目がそれほど高い成績ではなかったので、2年目のジンクスというほどではありませんでしたが、伸び悩みました。

 

 

躍進

3年目1976(昭和51)年は1年目と同等の成績で、この年は同じ外野に同志社大学から田尾安志選手が入団し、新人王を獲得しています。

このオフには基満男選手とのクラウンへのトレードが決まりかけていながら、引退覚悟でトレードを拒否し、トレード回避となった代わりに入団時からつけていた背番号「3」を返上し「40」へ変更となりました。基選手は結局1979年に大洋へ移籍する事となります。

 

そこから奮起して活躍したのは4年目1977(昭和52)年からで、100試合に出て214打数68安打(打率.318)で6本塁打20打点を記録し、打数は少ないながらも初めて3割を越え、ホームランはキャリアハイで、11盗塁も唯一の2ケタでキャリアハイでした。出番的にはここから4年間くらいがピークでした。

 

 

1978(昭和53)年は初の開幕スタメンを勝ち取り、最終的には初めて打席が300を越え、規定打席まであと70の333打席に立ち、96試合で299打数69安打(打率.231)で4本塁打22打点の成績を残しました。安打数は前年とほぼ変わりがなく、出番が増えた分だけ打率は前年の.318から.231まで落ちました。

 

1979(昭和54)年は116試合で244打数73安打(打率.299)で4本塁打26打点で、打点がキャリアハイでした。

1980(昭和55)年は最も多く打席に立った年で、347打席と規定打席にあと56不足のところで、自己最多の119試合に出場し326打数95安打(打率.291)で1本塁打22打点の成績をあげ、安打はキャリアハイで100安打まであと一歩のところでした。限りなくレギュラーに近い状況となりましたが、夏に故障で離脱した事で残念ながら規定打席到達とならず、結局一度も規定打席に到達する事はありませんでした。

 

1978年から80年までは、中利夫監督の時代で、藤波選手の背番号「3」の前任者でもあった中監督は「特によく使ってくれた」と藤波選手が感謝しているコメントがありました。

 

 

30代キャリア

1981(昭和56)年に30歳を迎えますが、この年から出番が激減し、この年は41試合で62打数13安打(打率.210)で1本塁打6打点に終わり、以後は少し持ち直すものの出場は限定的となりました。今年は新外国人のコージ選手の入団、コージ選手が不発となると平野謙選手が台頭し、出番を奪われた格好でした。

 

1982(昭和57)年はルーキーイヤー以来、8年ぶり2度目のリーグ優勝経験となりました。この年は74試合で85打数22安打(打率.259)で2本塁打10打点でした。

西武との日本シリーズでは全6試合に出場しましたが、ほとんどが代打で第5戦のみヒットを放っています。

 

1983(昭和58)年は114打数37安打(打率.325)で2本塁打13打点の成績で、打数が少ないながらも.325の高打率を残し、しぶとさを見せました。

 

1984(昭和59)年は83試合で124打数35安打(打率.282)で1本塁打17打点でした。

100打数以上と2ケタ打点はこの年が最後でした。

この年は唯一の本塁打が代打満塁ホームランであったり、また0-1から同点タイムリーを放ち、守っては相手側のホームラン性の当たりを好捕するファインプレーを見せ、勝利に貢献したり、印象的な活躍を見せています。

 

1985(昭和60)年4月には通算1,000試合出場を達成し、またこの年唯一のホームランが現役最後のものとなりました。

 

1986(昭和61)年から顕著に出番が減り、現役生活で初めて1ケタ安打に終わり、57試合で48打数9安打(打率.188)で1打点、1987(昭和62)年わずか6試合の出場で16打数3安打で前年と同じ打率.188で2打点に終わり、この年限り36歳で引退しました。

 

プロ野球史上初の「新人王を獲得しながら一度も規定打席に到達していない野手」となりました。

 

引退後はプロ野球ニュースの解説でおなじみでしたがフジテレビの野球解説者を長年務め、母校・静岡商の外部コーチや常葉大学の総監督を務めたりしていました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

34歳になるシーズンで、通算1,000試合出場まであと「6」に迫っていました。

代打の切り札が主戦場で、昔レギュラーに近い働きを見せていた事で年俸1,700万(推定)とされ、当時いわれていた1千万円プレーヤーでした。

相手捕手から囁かれるのはよくありましたが、彼は相手捕手に話しかけるタイプだったのですね。
この2年後に引退しています。

 

      

 

 

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