思い出のプロ野球選手、今回は基 満男選手です。 

 

西鉄~クラウンまでライオンズで、その後は横浜大洋で、'60年代から'80年代まで活躍した打てる名二塁手です。

 

【基 満男(もとい・みつお)】

生年月日:1946(昭和21)年11月10日

入団:西鉄('66・ドラフト外)
経歴:報徳学園高-駒大中退-篠崎倉庫-西鉄('67~'78)-大洋('79~'84)

通算成績:1,914試合 打率.273 1,734安打 189本塁打 672打点 217盗塁

表彰:ベストナイン 2回('72、'80)、Gグラブ賞 1回('80)

節目の記録:試合-1,000試合出場('75.5.17)、1,500試合出場('81.4.15)

      安打-1,000本安打('75.9.18)、1,500本安打('81.4.11)

      本塁打-100号('74.4.28)、150号('79.8.25)

オールスター出場 6回('68、'71~'73、'77、'80)

1試合4二塁打('79.5.9)

 

 

●個人的印象

ずっと大洋の選手だと思っていました。

大洋に在籍したのは1979(昭和54)年からで、それ以前から大洋にいた印象がありましたが記憶違いでした。クラウンライオンズの球団の存在は記憶にありますが、そこにいた記憶が何故か全然ありませんでした。同じくクラウンに在籍したショートの真弓明信選手の記憶はありますが、二遊間を組んでいた基選手の記憶がなく…というところです。

また小学校低学年時に「基」の名字を正確に読めるはずもなく、これを「もとい」と読めた事で、「もとづく」とか「もとに」とかすんなり読めました。昔は結構、野球選手から漢字を覚える事が多かったです。

 

●プロ入りまで

兵庫県の名門・報徳学園高の出身で、彼の入学当時は春なし・夏1回出場歴があるだけの高校でした。夏の出場は彼の中3時代、つまり高校に入る直前1961(昭和36)年の事で、甲子園を目指しましたが、ようやく3年次の選抜で報徳学園自体が春は初出場を果たしました。高校の同期に、後に広島黄金時代の正捕手として活躍する水沼四郎選手がいました。
夏は残念ながら一度も出られず、彼の入学前1961年と卒業後の1965年に出場しており、ちょうど在学中の3年間は夏の出場がなかった期間でした。

その後駒澤大学へ進学するも1年次で中退、その後帰郷し地元の企業で働いていたという異色の経歴の持ち主です。つまりは野球のエリートコースから全く外れてしまった訳です。

報告学園の先輩の伝などあり、西鉄と阪神のテストを受けて、ドラフトにはかからず、「ドラフト外」の形で西鉄に入団する事となりました。

 

●初期キャリア

21歳になる年である1967(昭和42)年度がルーキーイヤーでしたが、この年からいきなり124試合に出場して、347打席に立ち70安打で打率.225で、3本塁打16打点という成績でしたが10盗塁をマークしています。

 

●2年目からレギュラー定着

1968(昭和43)年、2年目にして初めて規定打席に到達し、100安打越えの110安打を記録、本塁打も2ケタ12本に35打点を挙げ、盗塁も21を記録しています。打率は.235と前年に続き低空飛行でした。この年は犠打がリーグ最多で、また初めてオールスターにも出場しました。

3年目1969(昭和44)年はキャリアハイの141安打を記録し、打率.295の成績で打率8位で初めて打撃べステン入りしました。現役時代特に打撃タイトルは取っていませんが、この年は34本の二塁打を記録し、これはリーグ最多でした。

 

●西鉄末期と黒い霧

1970(昭和45)年はギリギリ100安打で、規定打席到達はしたものの出場機会も減りました。これは当時球界を震撼させた「黒い霧事件」の影響で、八百長話を持ち掛けられ代金も渡されたといいます。カネは返し「シロ」とされましたが、嫌疑がかかる状況で試合出場を見合わせる状況となり、出られなかった事も影響しています。ただそんな中でホームランは21本とキャリアハイを記録しています。

泥沼にはまった西鉄は球団経営にも行き詰まりますが、西鉄ラストの1972(昭和47)年には初の3割越えとなる.301の打率をマークし、20本塁打もクリア3年連続43打点という不思議な記録も残しています。この年初めてベストナインを受賞しました。

 

●太平洋・クラウン

西鉄が球団譲渡しその歴史に幕が下ろされると、ライオンズは太平洋クラブが運営しますが、西鉄時代末期の3年連続最下位を免れるのがやっとでした。

そんな「太平洋」初年度の1973(昭和48)年は打率.292をマーク、102試合出場に留まりましたが、それでいて打点59と初めて50打点を越えました。オールスターには3年連続で出場しています。

1974(昭和49)年に通算100本塁打、翌1975(昭和50)年には通算1,000試合出場と1,000本安打を達成するなど、30歳を目前に節目の記録に到達するようになりました。

 

レギュラーを掴んだ2年目1968年から1975年まで8年連続で、黒い霧事件を乗り越えながら規定打席に到達し続けていましたが、1976(昭和51)年30歳になる年に久しぶりに規定打席を割り込む事となりました。この年はチームで吉岡悟選手が大活躍し、あれよあれよという間に首位打者を獲得する事となり、その吉岡選手に定位置を奪われた格好でした。

しかし吉岡選手の活躍は長くは続かず、翌年にはすぐさま定位置を奪い返し、球団が「クラウン」になった1977(昭和52)年には2年ぶりに規定打席に到達し、4年ぶりにオールスターにも出場し、また三塁打を5本も打っているのが特筆すべき点といえます。

翌1978(昭和53)年は再度規定打席を割り込み、291打席に終わりましたが、打率は.304を記録しています。

 

●大洋へ

西鉄から太平洋、クラウンと球団名は変わりながらライオンズは一貫して福岡を本拠地としていましたが、1978年オフ「西武ライオンズ」を誕生させ、埼玉・所沢へ大移転する事となり、この時にチームカラーがガラッと変わり、選手の入替も急ピッチで行われました。

基選手はトレードで前年横浜へ移転したばかりの横浜大洋ホエールズへ移籍しました。

1979(昭和54)年からセ・リーグしかもいわゆる在京球団に身を置く事となり、セ・リーグへの移籍は、巨人戦などでテレビ中継機会が増え、それまでの福岡のファンにもその姿を見せる事ができると考え、移籍を決意したといいます。

同じ年、ロッテから西武へ山崎裕之選手が移籍してきましたが、基選手の抜けた穴を埋める為だったのでしょうか。この同い年で同じ二塁手同士が同一チームで共存する事なく、二人ともがこの年から6年間現役を続けました。

 

●大洋で更に活躍

移籍初年度の1979年は通算150本塁打を達成し、2年ぶりに規定打席に到達し110安打で打率.295と活躍、打点は33歳にして自己最高の65を記録しセ・リーグでは更に実力を発揮しました。チームのショートに山下大輔選手がいて、彼と二遊間を組んでいました。

大洋でのハイライトは34歳になる1980(昭和55)年でした。

この年当時の別当監督からの打下はアドバイスもあってか打率がキャリアハイの.314(打撃ベストテン4位)を記録し、本塁打は12本でしたが打点がキャリアハイの70を挙げ、3年ぶりのオールスター出場とベストナイン、Gグラブのダブル受賞と満開の1年となりました。両リーグでオールスター出場とベストナイン受賞を果たし、特にベストナインは両リーグ受賞は当時5人目という快記録でした。Gグラブ賞はパ・リーグでは受賞がなく、セ・リーグに来て34歳で初めて受賞となりました。この2年だけでも大洋に来て大成功といえると思います。

 

●最後までしぶとく

翌1981(昭和56)年は360打席で打率.236、35歳を迎えてさすがに衰えがきたか、とも思われながらも、通算1,500試合出場と1,500本安打の節目の記録を達成しています。

1982(昭和57)年は36歳になる年で最後の規定打席到達、417打席とわずかに規定をクリアし、ギリギリの100安打で、打率は.269ながら18本塁打63打点と最後の輝かしい花を咲かせるような活躍ぶりでした。

以後規定打席に到達する事はなく、出番が極端に減っていきます。二塁手の後継ともいうべき、一回り年下の高木豊選手の台頭によるもので、高木選手は1983年から期待打席に到達するようになりました。

 

しかしながらその1983年も翌1984(昭和59)年も、少ない出番の中で3割を越える活躍を見せます。

1983年は114打数35安打で打率.307を、1984年は87打数30安打で打率は実に.345(!)、2本塁打18打点を挙げるという活躍で、少ない出番の中代打や守備固めなどで存在感をいかんなく発揮し「来年も」という声もありながら、この年38歳になる年で現役を引退しました。数字的には全然できるし、これが現役引退時の成績か?というぐらいのものでしたが、レギュラーとしてやれない、というのは大きかったのかもしれないですね。

 

●優勝とは無縁

西鉄の末期から太平洋、クラウンとライオンズの弱小期に身を置いた事もあり、新人時代こそチームは2位でしたが、ライオンズ時代は12年間でBクラスが10回もあり、最下位は3年連続と2年連続の計5回も経験しています。

また移籍先も大洋と、これまた当時のBクラス常連球団だった事もあり、西鉄時代同様在籍初年こそ2位でしたが、以降は3位が1度だけであとはすべてBクラスという、これまたライオンズ時代と同現象に陥り、18年間も現役生活を送りながら優勝経験は一度もありませんでした。

 

●後輩との関係性

最後は、自身のポジションを継いだ高木豊選手の話ですが、基選手の晩年に高木選手が二塁のレギュラーで起用され続け、代打が主戦場になってしまったこともあってか、高木選手が挨拶しても返事すらされなかった、と近年You Tubeで語っていました。

そんな中で引退を決意したであろうシーズン終盤、高木選手がレギュラーとして一本立ちしていく頃、基選手に「よくがんばったな」と久々に声を掛けられたことが「今でも忘れられない」とうっすら涙を浮かべつつ、言葉を詰まらせながら話をしていたのがたいへん印象的でした。

それまで無視同然で声を掛けられなかったのが、最後にねぎらいの声を掛けられ「認められたんだ」と実感した瞬間、思いがこみ上げたといい、当時でも今でも同じ感情で思い出す、と言っていました。

 

この話については↓この動画のラストで語られています。

 

 

 

1981年の選手名鑑より。 当時大洋の内野手で最年長でした

背番号は1年目に78というコーチのような大きな番号をつけていましたが、

以後ライオンズ時代は「4」、大洋では一貫して「5」でした。