いつか振りむいて20
++++「ダメだ」「どうして?」「ルイを裏切ることはできない」「あなたとルイは兄弟よ。構わないわ」「ヒョリン…君の狙いはそれだったのか…?」++++「シン、見て」色とりどりの花を腕一杯に抱えて、幸せそうな笑みを浮かべたチェギョンが部屋へ入ってきた。シンは頭を軽く振り物思いを追いやると、妻の姿を目をすがめて見つめた。「…さながら、春の花の精か、あるいは花のプリンセスというところか」小さく呟くと、妻の腕から零れ落ちそうになっている花に手を伸ばそうと、彼女に近づいた。「さっき、何か言った?」腕に引き寄せた妻は花を抱えたまま、シンを見上げてきた。何かいぶかしんでいるような瞳に彼は微笑んだ。彼女の問いかけに答えるつもりはない。チェギョンを愛している。だからこそ、彼女をいたずらに傷つけくないのだ。シンは薄茶色の瞳を覗き込んだ。「チェギョンが花のプリンセスだって言ってんだ」ふんわりと彼女が微笑んだ。それだけで胸の中のモヤモヤした気持ちが消えて行く。「私は確かにプリンセスだけど…それじゃあ、シンは花のプリンスね」「僕が?フーム…どんな花のプリンスなんだろうな」彼女が明るい笑い声をたてた。こんなふうに屈託のない声を聞かせてくれるようになったのに、ヒョリンとの過去のことで、優しい妻の笑い声が聞こえなくなるのは避けたいところだ。ソファの前のテーブルで透明なフラワーベースに花を散らせながら、チェギョンは出窓に腰かけ自分を見つめる夫に見つめ返した。シンが最近、物思いにふけっているような気がする。彼に尋ねたところで、きっと答えてはくれないだろう。「どう、かしら?」誰にいうわけでもなくチェギョンは呟き、自分で活けた花を立ち上がって見つめた。「…やっぱりお姉さまのようにはいかないわね」ヒョリンはセンスのいい人だった。服のセンスもよかったが、こうした花を活けることもうまかったことを思い出す。「うまく出来てるよ」気が付くと夫が自分のすぐそばに立っていた。「そうかしら?」「チェギョンのように気取らなくて可愛らしい出来栄えだ。僕は気に入ったな」「本当?」「ああ、本当だ」彼にそう言われると自信が湧いてくるから不思議。シンはチェギョンの魔法使いかもしれない。首を傾げて不安そうな顔をしていた妻が、自分の言葉で嬉しそうに微笑む。シンはそのことに満足した。チェギョンにはいつも、幸せでいて欲しい。そしてそれは自分が彼女にいかなる時も与え続けたいものだ。彼女ほど愛されるべき存在はいない。誰にでも愛を注ぐ彼女は、愛に包まれて過ごしてほしい。「でもヒョリンお姉さまは、とってもセンスが良かったのよ。シンも知ってるでしょ?」「ヒョリンの活ける花より、チェギョンのほうがいいよ」強い口調でシンが答えた。そんな彼に妻は少しだけ怪訝な表情を見せていたけれど、無駄口を叩ず賢い彼女はそれ以上追求してこなかった。「シンが好きって言ってくれるなら、それで私はいいの」ふんわりと彼に抱き付いてきた。彼女が動くと春の甘い香りがして、暖かな風が吹くような気がする。「でも、それって『妻に甘い夫』の欲目だと思うんだけど…違うかしら」「うーん、そうとも言えるね」「シン!意地悪ね」チェギョンがわざと拗ねたような顔をして彼を見上げたから、シンは笑いながら彼女の額にキスをして囁いた。耳元で低く声を掛けられ、心臓がドキンと鳴る。シンに慣れることなど一生ないだろう。いつだって彼の傍に居ると恋に落ちた少女のようになってしまう。「―――誰が見たって、チェギョンの方がいいよ。君の純粋さが出ている」「シン…」『誰が見たって』と言うのは言い過ぎだろうと思いながら、チェギョンはそれ以上夫の言葉に言い返すことをやめた。彼が姉のことになるとムキになる傾向があることに、気づいていたから。「まぁ、素敵ですね」パーマー夫人が王太子夫妻のリビングへ入ってくるなり、フラワーベースに活けられた花を見て声を上げた。「そう?」ソファでタブレットを見ていたチェギョンが、顔を上げ恥ずかしそうに笑った。「そうですよ!妃殿下の優しさが出ていますね」部屋に活けられた他の花々をぐるりと見渡しながら、夫人は一人納得するように首を振っている。「でも、ヒョリンお姉さまのようにはいかないわ」ため息をつきながら、チェギョンは自分が活けた花を見つめた。姉が活ける花は、華々しく艶やかだった。ヒョリン自身のように。それに比べて自分はどうだろう。まるで、野原に咲く素朴な名もない花のように見えてしまう。庭師が丹精込めて育てた花たちだと言うのに。「こう言っては何ですが、前妃殿下はもともと活ける花々を選んでおいででしたから、派手な仕上がりになるのは当然です」女官長はそれとなくヒョリンを非難しているようだ。チェギョンはそんな女官長の意図するところに気づかなかった。「どういうこと?」「端的に申し上げれば、見栄えがするようにあらかじめ庭師に花を選ばせておいでだったという事です。そして、花のバランスも先に指示しておりましたから」そんなこと思ったこともなかった。「そうだったの?」パーマー夫人はチェギョンの問いに、無言でうなずいた。「妃殿下は、この花をどうされたんですか?」「花の盛りを過ぎたのを処分しようとしていたから、貰って来たのよ。ついでに野花も摘んできたわ」「そうでしょうとも」チェギョンが庭を歩いていると、庭師たちが枯れて散る前に花を処分しようとしているのに出くわした。まだ、充分に目を楽しませてくれる花が次々に切られていくのを見ていたら、「それをちょうだい」と声を掛けていた。「だって、まだこんなに綺麗なんですもの。勿体ないわ。それに花が枯れるのは自然の摂理でしょ?」シンがリビングへ入ろうとドアを開けた時、妻が女官長に話す声が聞こえた。―――チェギョンらしい。シンは口の端を上げて微笑んだ。自分の妻となった女性は誰に対しても平等で親切だが、それは生き物全般に対してもそうらしい。「僕の妃は博愛主義者だからね」大股で妻に近寄ると、チェギョンが振り返る前に彼女を後ろから抱きしめ、得意そうに女官長を見る。シンの言葉にパーマー夫人は同意し、大きく頷きながら「妃殿下の素晴らしいところですわ」満足そうに答えた。「誰だって花が処分されるところを見たら、そう思うでしょ。それよりシンにちょうど聞きたかったことがあったの」褒められてくすぐったいのか、チェギョンは恥ずかしそうにそう言うと、話題を変えてしまった。彼の腕からするりと抜け出すと、テーブルに置かれたタブレットをそそくさと持ち上げた。妻がタブレットを操作している様子を眺めながら、同じ姉妹と言えども全く価値観の異なるチェギョンとヒョリンへ思いを馳せた。「チェギョン」夫に呼ばれて彼女が顔を上げると、「―――僕は君を妻にできて、本当に幸せだ」真剣な面持ちでシンが見つめている。「どうしたの?急に」部屋にまだ女官長が居ることを意識した彼女は、突然の夫の独白に戸惑ったような顔をした。夫の方は女官長のことなどすっかり忘れてしまったのか、彼女の腰にを回して抱き寄せ、唇で耳たぶから敏感な喉元をたどりながら「愛している」と囁き続けた。チェギョンが夫の愛撫に身を任せぐったりと彼にもたれ掛かる頃には、広いリビングには王太子夫妻だけになっていた。++++「シン、お願いよ」「断るよ。僕はルイのクローンではないんだ!」「あなたしかいないのよ。―――分かるでしょう?」「子どもができないのは、ルイのせいだと言いたいのか?」ヒョリンを突き放し怒りを抑えながら、部屋を飛び出した。彼女が計算高い女性だったことを、何故自分は見破ることが出来なかったのか?++++「ステップ間違えてたかしら?」チェギョンがシンにそっと聞いた。シャンパン色のドレスを着た妻を腕に抱きながら、流れてくる音楽に合わせステップを踏む。「いや、あっているよ」クルリと回転すると、チェギョンのドレスの裾がふわりと揺れる。チューリップの花のようなドレスを身にまとったチェギョンが、ほっとしたように微笑んだ。妻は長い髪を背中に垂らしている。身支度を整えたシンが妻の部屋に入ると、スタイリストがチェギョンの髪を高く結い上げようとしていた。シャンパン色のドレスは、背中が大きく開いている。それをみたシンは、顔をしかめた。つかつかと近寄り、「今日の妃の髪は、アップにする必要はない」やや苛立たしげに言い放った。突然王太子殿下が近づき、機嫌悪そうに注文を言いだし、スタイリストは眉をひそめたが―――王子の視線の先を辿り、そして納得し―――彼の言う通りにするのが得策だと瞬時に判断した。このドレスの良さはその背中の開き具合であり、それを強調するヘアスタイルが一番良いだろう、と言う自分の考えは控えることとしたが、それが間違いなく正解だっただろう。「チェギョン…君は子どもが欲しい?」突然シンが言いだした言葉に、チェギョンはあっけにとられた。「え?」「僕は、もう少し君を独占したい」熱い視線を堂々と浴びせながら、夫が自分の答えを待っている。チェギョンは全身をピンク色に染め、「…私もシンと同じよ」消え入りそうな声で返した。彼女の言葉にホッとした顔をしたシンは、ワルツを踊るにはやややりすぎだと思われるほど強く妻を抱き寄せた。大きな体を屈めて、「気が合ってよかったよ」熱い息を妻の耳に吹きかけると、頬に唇を寄せた。