―――シンは私のことをどう思っているの?

 
最近のチェギョンはそのことばかり考えている。自分たち二人が世に認められた夫婦であるという事実からすれば、なんとも間の抜けた物思いだけれど。
 
―――妻が夫のことを想って、何がいけないと言うの?
 
そう自分自身を正当化してみる。そうしたところで結局は元の場所に戻ってしまうのだ。つまりは、『夫に好意をもってもらいたい』。いや違う。単なる『好意』ではなく、『愛されたい』。
 
夫がチェギョンを見つめる目はいつも優しく、まるで“本当に心から愛している”ように見えることがある。

けれど相手はあの『シン・セント・ジェームズ』だ。

いくら姉夫婦の事故死が突然だったとしても、それを乗り越える術として彼が出した解決策は酷すぎた。まるで、『チェギョン・クライボーン』が感情の無い人形のように扱ったのだから。遥か彼方に置き去りにした彼女自身の“想い”が、痛みと共に再びチェギョンの胸を痛めつけていることを、シンは知らないだろう。
 
チェギョンがまだ少女だった時、彼女には『白馬の王子さま』が存在した。王子はとても優しく眩しかった。そして憧れている彼女の視線には気づいてくれなかった。


「そうよ、彼を信用するなんて馬鹿げてる」
チェギョンはもう何万回と到達した答えを口にした。それでも彼がみせてくれる優しさは、全部嘘だとは思いたくはない。その中にたった1%だけだとしても、真心が籠っていると信じたい。
チェギョンの想いは堂々巡りで、答えが見えない。深くため息をついた彼女は、手に持った書類に目を落とした。物思いにふけっていたとしても、王太子妃である彼女にはやらねばいけない仕事が山積みだからだ。
隣同士の重厚なデスクの主は、朝から国王のもとにいる。
シンの大きな体が隣にいないと、どうにも落ち着かない。彼が座っていたらいたで、チェギョンの集中力は切れ切れになるに決まっているけれど。

チェギョンは立ち上がり、吸い寄せられるようにシンの椅子に座った。
「足がつかないわ」
ブラブラと子どものように左右の脚を揺らし彼女は微笑んだ。

 
その時気づいた。几帳面な夫にしては珍しく、本来なら鍵がかかっている引き出しが少しだけ開いていた。

「何かしら?」
チェギョンは好奇心が抑えられなかった。
彼がこの引き出しを開けているのを見たことがない。他の引き出しは、自分がいる時も何にも気にせず開け閉めする夫が、この引き出しだけは絶対開けないことに彼女は知っていた。
これまでも何度か、チェギョンがじっとその引き出しを見つめて居ることに気づいたシンが、さり気なく話題をふって妻の関心を反らそうとしたこともあった。

 

「少しだけ見てもいい?」
誰もいないけれど、誰かに確認するように小さな声で願い出た。

この部屋で仕事をする時は、パーマー夫人には出来るだけ休息を与えるようにしている。夫の側近が居ることであるし、なによりシンが傍に居てくれる。
仕事の先輩としての彼は頼りがいがあり、よき相談相手でもあった。

今日も夫もこの部屋で仕事をしていたのだが、ものの10分もしないうちに国王から呼ばれてしまったのだ。
「パーマー夫人を呼ぼうか?」
彼が立ち上がりながらそう言ったけれど、チェギョンは首を横に振った。
「用があったら私から呼ぶわ。大丈夫よ」
なんとなく声の調子がおかしかった女官長を休ませてあげたかった。
「すぐに戻るよ」
額にキスをして、夫は部屋を出て行った。その大きな後姿がドアの向こうに消えると、何故だか胸に冷たい風が吹き抜けたような気がした。


恐る恐る引き出しを引く。夫の恋人の想い出が隠されていたらどうしたらいいだろうか。一瞬ためらったけれども、結局彼女は引き出しを引いた。

そして大きく目を開けた。
「シン…」
一番上に写真楯が、表をこちらに向けて入っていた。その写真楯に入っている写真は、まぎれもなく自分だ。
それも、視線の先にシンが映っている。きっとメディアが盗み撮りした写真なのだろう。

夫はどんな意味をこの写真から読み取ったのだろう?
そして、この写真をこうして引き出しに入れている意味は?

気が付けばチェギョンはその写真楯を手に取り、部屋を飛び出していた。



****



「シン、教えて」

突然妻の声が聞こえシンが振り向くと―――国王の側近たちは突然現れた王太子妃に困惑気味だ―――薄い黄色のワンピースを着たチェギョンが真剣な顔をしてこちらを向いている。

「妃殿下、今は陛下と殿下は打ち合わせ中でして―――」
「ねぇ、どうして?」
側近たちの言葉など全く耳に入っていないのか、チェギョンはずんずんと自分だけを見つめ近づいてくる。
「妃殿下―――」
普段は慎み深く、けして仕えている人を困らせないチェギョンの普段とは違うその態度に、側近たちが盛んにシンに視線を送ってくる。
彼は手を軽く上げ、側近たちに「自分に任せろ」と合図を送った。
「陛下、妻が僕に何か『緊急の』用があるようです」
父王に向かってシンが言うと、
「そのようだな」
苦笑した国王は、
「休憩するよ」
立ち上がり、側近たちを引き連れて部屋を出て行った。


「ねぇ、シン」
そうした父とのやり取りさえ、今の妻には目に入らないらしい。薄茶色の大きな瞳は瞬きさえ忘れたのか、自分だけを映している。
小さな左手が右腕にかかる。
「シン、教えて」
まるで世界に自分とチェギョンしかいないような切羽詰った顔で、見つめてくる妻の左の肘を掴みそっと抱き寄せた。

「何を…?」
今日は一日宮殿から出ない予定だからか、彼女の長い髪は耳の上でサイドをねじって留めただけのあっさりとした髪型だ。彼女が動くたびに、背中に垂れた髪が揺れる。
「―――本当なの?ねぇ、信じていいの?」
顎を上げて見上げてくる無垢な視線を、シンは受け止めた。
「何のことか分からないけれど、君に嘘をついたことはない」
「シン―――私」
突然細い左腕が彼の首に廻り、チェギョンはピッタリと自分に抱き付いてきた。彼は細い腰を掴み、二人の隙間を無くした。大事な彼女の小さな体が自分の腕の中ですっぽりとおさまる。

「私…信じていいのね?」
「いいに決まってる」
涙声でチェギョンが小さく呟いたのを、シンは聞き逃さなかった。どうして彼女が泣いているのだろうか。その理由を知りたい。その時彼は気づいた。彼女が何かを手にしていることに。
「うん?これは?」
シンが尋ねると、チェギョンはそっと夫から身を剥がした。彼女が大事そうに胸に抱えているものは、写真盾のようだ。妻がためらいがちにその表を見せた。

 
 
 


「―――引き出しの鍵がかかってなかったの。それで、こんなことするなんて自分でも信じられないの。でも気づいたら、引き出しを開けていたわ」
チェギョンは夫の顔を見る勇気がなく、写真楯を見つめながら説明した。
しばしの沈黙。
夫は怒ったのだろう。それはそうだ。自分だって同じことをされたら、しばらく夫と口を利きたくない。
「ごめんなさい」
震える声で彼女は言った。

大きな手が写真楯を掴む。

「まいったな―――」
聞こえてきた声は怒っているようには聞こえなかった。ううん、むしろ照れているように聞こえる。
チェギョンは勇気を出して顔を上げた。



妻が文字通り息をのんで自分の答えを待っている。
シンは、深く息を吸うと、もう何日も前から気づいていた自分の気持ちを口にすることにした。
「―――愛してる」
びっくりしたのかチェギョン小さく口を開き、声にならない声を上げた。

「チェギョン、君を愛してるんだ。最初、どうしてこんなに君が気になるのか、自分でも不思議だったよ。寝ても覚めても、君のことを考えてしまうんだ」
真っ白な頬に手を添える。
「じゃ、じゃあ…私が痛い思いをしてたら、自分が変わってやりたいって言ったのは、本心だったの?」
「当たり前だ。そんなことで嘘をついてどうするんだ」
「そう、なの…ね」
どこかぼんやりした顔をで妻が呟いた。
「チェギョン?どうしてそんな風に考えたんだ?」

ふいとシンから離れた彼女が、自分の身を守るように腕で体を覆った。
ウロウロと部屋の中を行ったり来たりしている。

「私、分からなかった―――シンが本心でそう言ってるのか。もしかして、『妻を心配する夫』の振りをしてるだけなのかって」
「バカな」
妻のバカバカしい思想を一蹴したシンは、チェギョンの顔に浮かぶ奇妙な表情に伸ばしかけた腕を下ろした。彼女は本できそう思っているようだから。
「あ、あなたは、私のことをただの人形だと思ってるって、私、考えていたの」
「チェギョン?」
「だって!そうでしょ…」
睨みつけたいのか、泣きたいのか分からない顔をした妻が、真っ直ぐに自分を見つめる。

「王太子殿下は、『僕たちは結婚しなければならないだろう』と仰ったのよ」
涙を溜めた目で見つめられ、シンは胸が締め付けられた。
「まるで義務みたいに。私に感情がない人形で居ろと、言ったのと同じよ」
「チェギョン…それは、僕が悪かった。君を傷つけた」
シンが近づくとチェギョンは離れていった。二人の距離はいつまでも縮まらない。

―――くそっ。僕はなんてことを口にしたんだ


「あなたに惹かれていったわ…どんどん。自分でも情けないぐらい」
チェギョンが自分のことを卑下するような表情をした。
「でも―――」
喉に手を当てた彼女が、絞り出すように言った。
「あなたを信じてはダメっていつも言い聞かせきた」
シンの胸には後悔の嵐が吹き荒れている。
「チェギョン、僕―――」
彼の言葉など聞いていないのか、妻はその言葉を遮り話し出した。
「じ、自分の心に嘘をついているのが、どんなに辛いか―――分かる?」
頬を伝る涙をチェギョンは手のひらでグイッと子どものように拭っていた。
「苦しくて、辛くて―――それなのに」

唐突に動き出したチェギョンが、勢いをつけたままシンの腕の中に飛び込んできた。
「シンの事ばかり考えているの」
「チェギョン」

震える声でシンは呟き、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「――――愛してるわ、心から」
夢のような言葉が彼の耳に響いた。



****
 

 
「そんなすまなそうな顔する必要ない」

シンは自分の膝の上で横抱きにされている妻の顔を覗きこんだ。
「でも…」
チェギョンの視線の先には、粉々に割れた写真楯のガラスと、くしゃくしゃになった写真が落ちていた。

「だって私が手を放したら、落ちたのよ」
自分の犯した粗相をさも重大な失態のように嘆く妻に、シンは優しく笑いかけた。
「チェギョン」
「なぁに?」
「―――僕が君に対して犯した罪に比べたら、こんなこと、どうってことないだろ?」
「シン…」
「君を一生愛し続けるよ。それは間違いない。君の傷が癒えるように努力すると誓う」

夫の真剣な顔を見て、チェギョンは口元を緩ませた。
「傍に居てくれるだけでいいの。それに―――もう傷は癒されたわ」
シンの首に手を回し、自分に引き寄せると、そっと口づけた。