シンは何を言っているのだろう。
「チェギョン、聞いてる?」
恥ずかしそうに前髪をかき上げ、夫が自分を見つめている。チェギョンは大きく目を瞬いた。
「聞いてます」
消え入りそうに答えると、シンは満足そうに頷いてた。彼が意図することは何だろうか。チェギョンはそのことについて、今は深く考えたくなかった。ただ夫が自分を見つめるその目がとても優し気で、胸をざわつかせることだけは認めよう。
「チェギョンの姿が見当たらないと、大騒ぎしていたよ、パーマー夫人や女官たちが、ね」
「悪いことをしました」
何も考えずに部屋と飛び出した自分が恥ずかしい。
「子どもでもないのに…私ったら、ダメね」
苦しそうな顔でチェギョンは下を向いた。これでは姉と一緒ではないか。自分にかしずく人々に対して、迷惑や心配を掛けたくないと思っているのに。
「チェギョン、僕が君の機嫌を損ねるようなことをしたんだろう?」
夫の手が彼女の顎にかかり、ゆっくりと顔を上げさせられた。

あの時―――シンの微笑みに―――胸がぎゅっと握りつぶされたかのように苦しくなった理由は、なんだったのだろう。チェギョンは必死に思いだそうとした。少なくとも彼は悪くない。それだけは明白な事実だ。逃げ出した原因は彼にあるのではなく、自分にあるのだから。
「いいえ、違います」
シンはオーツのビスケットを齧っただけだ。彼は平然としているのに、彼のことばかり考えている自分が情けなかった。
チェギョンはまた泣きだしそうになり、奥歯をぐっと噛みしめ堪えた。


妻の眉間にしわが寄っている。
そんな顔を見たいわけではないのに、自分は何故か妻にこんな顔をさせてばかりいる。シンはチェギョンを優しく抱きしめた。柔らかで小さな彼女に対する慈愛が自然と沸き起こってきた。二枚貝のような小さな耳元に小さく囁いた。
「あの時、君はこう言ったね。『シンはどうしてそんなに平然としてられるのか』って。それから、『私にとっては違うわ』とも言ったよ」
彼女の体がピクリと動いた。
「どうしてそんなことを言ったか、その理由を聞いてもいいだろうか」
彼は妻が口を開くのを待った。今度こそ本音を見せてほしい。

「…忘れてしまいました」
充分な間を置いて、チェギョンが答えた。
「そうか…それでは、しかたがないな」
妻はまたもや心を閉ざしてしまったらしい。シンは落胆のため息をついた。
 
―――そう簡単に、心のうちを見せてはくれないと言うわけか。


「君の姿が消えて、僕は心配した」
「申し訳ございません」
妻の他人行儀な態度が気に入らない。
「チェギョン、僕を見てごらん」
従順な妻らしくチェギョンが顔を上げた。両手で彼女の小さな頭を包んだ。
「君のことが心配だったのは、君が王太子妃だからじゃない。君がチェギョン・クライボーンだからだ」
チェギョンの薄茶色の瞳が大きく見開かれ、驚いているようだ。
そんな彼女にシンは優しく微笑みかけ、そしてゆっくりと顔を近づけていった。妻が心の内を見せてくれないのなら、ひとまず自分は気持ちを行動で示そう。
 
―――それは言いわけかもしれないな
 
 
本当にキスをする理由はそれだろうか。シンは自分に問いかけた。チェギョンの心を引き出したくてキスをしたのだろうか。それとも純粋に彼女にキスをしたかったのだろうか。はっきりとした答えを見つけるのは、まだできない。ただ、今この瞬間、彼女を抱きしめ、彼女を感じたかった。
 
 
 

夫のついばむようなキスがだんだんと深みを増し、チェギョンは彼の腕をぎゅっと掴んだ。そうしなければ、倒れてしまいそうだから。
シンの言葉の意味はなんだろうか。
聞きたいような、聞きたくないような宙ぶらりんの気持ちのまま、何時までも続くキスに翻弄されていく。


「これぐらにしておこう」
そう言うと彼は軽く唇を合わせ、名残惜しそうに彼女の頭を撫でた。
「お腹が空いただろ?夕食にしよう。父上と母上も心配してたけれど、チェギョンが疲れているからと、夕食の席は断っておいたよ」
「心配をかけてしまって…私…」
宮殿で自分に仕える人々だけはなく、国王夫妻にまで迷惑をかけたことを知り、チェギョンの胸は痛んだ。そんな彼女の様子に気づいたのだろうか、シンが明るい声で続けた。
「明日二人で挨拶に行こう。大丈夫だ、両親は心配しているだけで、怒ってるわけじゃない」
コツンと額をつついてきた。あまりにも親し気な仕草。チェギョンの胸の奥がきゅっとうずいた。無意識に彼の指が触れた額に手を置いた。
よっぽどキョトンとしていたのだろう、彼が急に困った顔でこちらを見ている。
そして
「まいったな…」
一言そう言うと、あとは苦笑していた。
「そんな顔は、僕の前だけにしてくれ」
「え?」
どんな顔をしているのかと問い直そうとした時には、既に彼の唇が彼女の唇に重なり、その疑問を口にする事は出来なかった。



****



この日の出来事を境に、シンはチェギョンを片時も離そうとしなくなった。食事中は向かい合わせ、もしくは隣同士に席を陣取り、時には渋る彼女を何とか説き伏せ、彼が妻にスプーンを運ぶということさえした。

そんな二人を女官や侍従たちが微笑みながら見つめていた。
どこか緊張感で張りつめたような雰囲気の王太子夫妻の翼棟が、現、王太子夫妻が主になってから、ふわりと温かな春の風に包まれたような空気に変わったことを、皆が感じていた。知らないのは当主の夫妻だけだろう。
 
そればかりかシンは、宮殿内で仕事があるときはチェギョンを執務室に連れ来て、彼女用のデスクまで用意させると、自分のそれとぴったりくっつけるように指示した。

「殿下、困ります」
「シンだ」
チェギョンの腰を引き寄せ、眉を寄せている妻の耳元でシンは熱い息をかけた。
そうして彼女が何かに耐えるように目をつぶると、満足そうに彼は笑った。
「で、でん…。シン。これでは仕事にならないわ」
軽く頭を振り、夫の誘惑を振り飛ばし―――実際のところは、夫の魅力に囚われたまま―――チェギョンは文句を言った。

 
彼女は気づいていなかったけれど、彼は彼女のそんなくだけた態度が気に入っていたらしい。確かに以前に比べると他人行儀のよそよそしい態度は消え去り、チェギョンは随分彼に対してリラックスして接するようになっていた。それがいい事なのか、そうでないのか彼女には分からなかったけれど。

彼は形の良い鼻先を彼女の鼻先を軽くこすりつけてきて、チェギョンはドギマギした。そして彼は余裕の顔をして、彼女の薄茶色の瞳を覗きこんだ。
「どうして、仕事にならないんだ?ただ、隣同士に並んでいるだけだろ?」
「そ、そんなっ…」
彼女が彼を見ると、夫はニヤニヤと笑っている。
シンが隣にいたら、彼の一挙一動が気になって仕事に集中できないに決まっている。
夫の右腕ハモンド侍従長を恨めしそうに見つめたチェギョンは、彼が主人の意向を反古する気がないことを瞬時に悟った。

「このデスク…とっても重そうね」
「そういう事だね、プリンセス・チェギョン」
自分では到底動かせない重さだと、彼女はため息をついた。

「ま、隣同士の机が嫌だと言うなら」
シンは細い腰を掴んだ手に力を込め、より一層妻を引き寄せた。真っ赤になったチェギョンがさり気なく彼の胸を両手で押しているが、そんなことは知るものか。
「僕の膝の上で、君が仕事をしてもいいんだよ。うん?」
「殿下!」
 
 
チチチ。
シンは人差し指を左右に軽く振ると、
「シンだ」
彼女の目の前に顔を突き出し、訂正をする。
「…シン。あ、あなたのアイディアは、ちょっと突飛すぎないかしら」
「そうかな?画期的だと思うよ。うん、そうしよう。ハモンド!!」
「シンっ、やめて。隣同士でいいわ」
必死になって答える妻はとても可憐だった。いつもの取り澄ました顔はどこかに消え、本当に困っているようだ。彼とて彼女を困らせたいわけではない。けれども、こうしてチェギョンをからかっていると、彼女の仮面は取り外され、素顔の彼女がちらりと顔を出してくる。それが見たいのだ。
シンのそんな気持ちは、彼女には伝わっていない。だから彼女はツンと顎を上げて彼を睨みつけ、最後にはするりと彼の腕の中から抜け出してしまった。
 
 

夫のこうした行動の意味はなんだろう。
チェギョンは毎日のように考えた。そして、行き着く先は『からかって遊んでいる』。
それ以外に何があると言うの?
時々、シンに愛されているのだろうか、と感じることもあった。そんな時、彼女は即座に自分のみっともない考えを否定することにしていた。

少しでも愛せると彼が感じていたのなら、もっと気持ちのこもったプロポーズをしてくれたはず。
シンに傷つけられるのは、もう沢山。

夫との触れ合いは体だけで十分だと、チェギョンはデスクで仕事をするハンサムなシンの姿を窓際に立ちながら眺めた。
『王太子夫妻』である以上は、次の世代に伝統を繋げなければならない。
“だから”夫は自分を抱くのだ。そして、また自分もそれが理由で彼に抱かれるのだ。




逆光を浴びて妻の美しい顔は見えづらいが、その立ち姿はみとれてしまうほどだ。

彼女が初めて国民の前に公式に姿を現したとき、彼女の見せたはにかんだような、それでいて気品あふれる姿は絶賛を浴びた。
前王太子妃のヒョリンが美人の誉れ高かったこともあり、姉に比べて『可愛らしく庶民的な』顔つきのチェギョンはヒョリンに劣るのでは、と一部メディアで言われていたのだ。
そんなくだらない評判を、チェギョンは一瞬でかき消してしまった。

「チェギョン、こっちにおいで」
シンが呼ぶと、彼女はいつものように少し躊躇したような態度を見せ、それから彼に近づいてきた。

「次の国賓を迎える晩さん会のことを確認しよう」
「はい」
仕事の打ち合わせだと分かった妻が、ほっとした顔を見せことがシンには気にらなかった。チェギョンはいつまでたっても、自分に心を開いてくれない。
こちらは、いつだって彼女に対してオープンにしようと待っているのに、肝心の相手は相変わらず、ヴェールをかぶったありさまだ。

妻の手をつかみ、ソファに隣同士に腰を掛ける。ソファの背もたれに腕を伸ばし、チェギョンの長い髪を弄びながら、シンはひとつひとつ打ち合わせを始めた。


シンの親密な触れ方が気になって仕方がない。
懸命に仕事のことに集中しようとするものの、チェギョンの意識はともすれば、夫の大きな手の動きに気を取られてしまう。首筋や耳の後ろ側に彼の指が触れそうになり、そのたびにドキドキと心臓は音を立てるのだ。

「あ、あの…」
勇気をふりしぼり、チェギョンはシンのグリーンの瞳を見据えた。
「ん?」
「で、殿下…シンの手、そこになくてもいいと思います」
「手?」
「はい」

シンは書類を掴んだ手を左右に振って見せた。
「そちらではなくて」
「ん?」
夫はとぼけているのだろうか、それとも本当に無意識なのだろうか。チェギョンは視線を動かし、シンに伝えた。何故か口で「自分の髪に触れるのはやめてほしい」と伝えることが気恥しかったのだ。

「じゃあ、どちらの手かな?」
「手は、二本しかないはずです」
ムッとした顔でチェギョンがシンに言い返した。

その顔を見たシンが嬉しそうに微笑んだ。
「どうして、笑っているのか聞いてもよろしいかしら?」


「君はいつも完璧なプリンセスだ」
夫の口ぶりはどこか不満そうだ。チェギョンが目を細めてシンを睨むと、彼はふとその微笑みに優しさと愛しさを加えた。


「完璧な妃殿下の、そんな顔を見せてもらえるのは…僕だけの特権だと自惚れたいんだ」


雲に隠れていた太陽が再び顔を出し、王太子夫妻が見つめあう部屋に、光のカーテンを煌めかせながら、細く、長く、射し入れた。
小鳥が2羽飛び交い、爽やかな風に色とりどりの花が揺れている。