「誰もいないかな」
パーマー夫人には「ちょっとだけ散歩をしてくる」と告げて、チェギョンは以前迷い込んだ回廊に向かった。サンルームの扉を開け中を確かめると、彼女はほっと息を吐いた。一人になりたかったからだ。
「じゃあ、ちょっと息抜きしちゃおう」
彼女は大きく伸びをして深呼吸をした。
少しずつ慣れてきた宮殿の生活。それでも時々息苦しくなることがある。
ほんの少しだけ王太子妃『チェギョン妃』を脱ぎ捨てて、ただの『チェギョン・クライボーン』に戻りたいと思った時、彼女の頭に浮かんできたのはこの中庭だった。

サンルームの中でゴソゴソと着替えたチェギョンは、ワンピース姿から白いVネックのシンプルなニットとデニム姿になった。長い栗色の髪を無造作にポニーテールにした。
「うぅぅぅん」
サンルームを出て青空のもと、もう一度背伸びをして大きく息を吐くと、自分らしさを取り戻していく。空はどこまでも青く、沢山の悩みが吸い取られていくようだ。

「じゃあ、最後の仕上げ」
いそいそとデニムのポケットに端末をねじ込み、チェギョンは中庭を囲む大きな木を目指して走り出した。
お目当ての木の下で太い幹をトントンと叩き、彼女は上を向いて丹念に木登りに適した木か確かめた。
「うん!大丈夫そうね」
キョロキョロと周りを確かめ、それからスルスルとーーーおよそ公爵の令嬢として育ったとは思えない素早さでーーー登り始めた。



枝が二股に分かれている場所に座ると、チェギョンはイヤホンを耳にはめた。

木々の葉の隙間から青空と太陽の光が顔を出し、目を細めないと眩しい。
自分がレディ・チェギョンからプリンセス・チェギョンになっても、太陽は同じ優しさで光を注ぎ、青空はどこまでも広く風は悩みを連れ去っていく。膝の上に顎を乗せ、ぼんやりと視線を漂わせた。
「ねえ、教えて。誰かのことばかり考えているって…それに名前を付けるとしたら、何?」
自分はシンのことを好きなのかしら?多分、好きなのだろう。
シン・セント・ジョージは魅力的な人だ。人間として、彼女は夫のことを高く評価している。

でも、そんなに単純な感情を彼に抱いているわけでなはいと、チェギョンは知っている。夫と同じぐらい自分が高く買っている人は沢山いる。それなのに、シンだけが特別な存在だ。


広い大広間の舞踏会でも、夫の姿を無意識に探してしまう。彼が自分を見つけてくれると、体中が熱くなり心の底から嬉しくなるのだ。
ベッドの中で睦みあうことも気に入ってる。それ以上に、シーツに二人でくるまってとりとめのないことを話している時間が、チェギョンには何よりも大切な時になっている。そしてシンの香りに包まれながら、彼の大きな体に護られるようにして眠りにつく瞬間は、夢を見ているようなフワフワした気分になるのだ。
朝、目を開けた時に、シンのグリーンの目が自分を覗きこんでいると、今日と言う1日がきっと素晴らしい日になるとさえ感じる。

そう、自分は1日中、夫のことを考えている。


それなのに、夫の気持ちを聞くのが怖い。
彼が「王太子妃だから必要なんだ」と答えたらと考えると、どうしても彼の本心を知りたくないと思ってしまう。

イヤホンから流れるR&Bのアップテンポな曲を聴きながら、チェギョンは顔を上げて目をつぶった。



****



「チェギョンは?」
父王との打ち合わせを済ませ、自分たちが住む翼棟に戻ってきたシンは、いつもなら自分を迎えに出てくる妻の姿が見えないことに気づいた。

「散歩に出かけると仰っていました」
女官長の言葉に彼は微笑んだ。
あの妻のことだ。庭園のベンチで読書をしているか、花壇で花の香りを楽しんでいることだろう。
カールした長い髪を風にそよがせ、まるでフォトグラフにしてもいいぐらいの上品な姿をしているはずだ。

「じゃあ、僕も妃殿下のお供をしよう」
シンの言葉にパーマー夫人は、ふんわりと笑った。
「きっと妃殿下も喜びますよ」
軽く頷き、シンは普段着に着替えるために衣裳部屋へ向かった。




「ここにも、居ないな」
散歩に出かけると言った妻の姿が見つからない。
シンは顔をしかめた。人に迷惑をかけることを極端に嫌がるチェギョンが、かくれんぼをしているかのように居なくなるわけがない。

「うん?もしかして…」

シンが向かった先は、小さなサンルームがある中庭だった。
自分があの場所を好むように、チェギョンもあそこが気に入るような気がしたのだ。


「やっぱりな」
サンルームの扉を開けたシンは微笑んだ。妻の大ぶりのバッグがちょこんとベンチに置かれていたのだ。
「さて、では迷子の妃殿下を探すとするか」
ポンと手を叩き、彼はひとりごちた。この中庭のどこかに彼女がいる。
ちょっとした『かくれんぼ』だと思うと、ひとりでに頬が緩んだ。

パーマー夫人が妻のことを「お茶目なところがおありになる」と話していたが、自分はそんな妻の姿をまだ見たことがない。女官長に軽い嫉妬を覚え、それを夫人に見抜かれてしまった。
「あらあら。殿下、そんな怖い顔をなさって。大丈夫ですよ、じきに殿下の前でもそんな姿を見せてくださいますよ」
あろうことか、励まされてしまった。
「殿下が、ご自分の気持ちを素直に妃殿下にさらけ出しさえすれば、ですけどね」
意味ありげに微笑まれ、途方に暮れた。

―――自分の気持ち、か。

「妃殿下のことを、愛しくお思いになっていらっしゃるのでしょう?」
パーマー夫人の顔からからかいの色が消えて、どこまでも優しい温かな表情が浮かんでいる。
「僕は…」
シンは言葉が続かなかった。

「殿下の目を見ればわかりますよ」
ポンと軽く彼の腕を叩き、女官長は去って行った。


自分は妻を…。



それほど広くもない中庭に、チェギョンの姿は見えなかった。どこへ行ったのだろうか。何か見落としないかと注意深く中庭に目を配りながら歩いていると、どこから歌声が聞こえてきた。その声を頼りに歩いていく。やがて大きな木の上から、その歌声が聞こえてくることに気が付いた。





「こんなところに居たのか」
不意に声がして、チェギョンは目を見開き下を見た。そこには、夫がひどく嬉しそうな顔をして、木に登ってくる姿があった。

スルスルと難なく木に登る夫に驚く。彼がこんなに木登りが上手いだなんて思わなかった。けれどよく考えて見れば、納得できそうだ。彼は『模範的な王子』だったわけではなさそうだから。
きっと養育係の悩みの種だっただろう。

「いい場所を見つけたな」
大きな体をしているくせに、シンは身軽だった。ヒョイとチェギョンの後ろに座ると彼女を自分の体にもたれさせた。
「何を聴いているんだ?」
突然の展開にあっけにとられているチェギョンのことなど気にも留めず、シンは彼女の左耳からイヤホンを抜き取ると、自分の右耳に差した。
とても自然な仕草で、彼女は夫に抗議する隙を逃がしてしまった。二人は同じ曲を共有している。
 
シンが驚いた顔をした。多分彼女が聞いているアップテンポなダンスミュージックが意外だと感じているのだろう。
夫のびっくりしたような顔にチェギョンは微笑んだ。
「意外って顔、してるのね」
ポニーテールの毛先が、彼のハンサムな顔をくすぐっていることに彼女は気づかなかった。そして彼がその毛先を愛おしそうに摘まんだことも。
「そうだな。チェギョンのイメージと違うな」
「私のイメージってどんなふうなのかしら。もしかして、『大人しく貞淑な妃殿下』ってこと?」
思った通りの言葉に、チェギョンはツンと顎を上げて見せた。
「そんなチェギョンを見たのは初めてだよ」
「え?そ、そうかしら」
彼が左手を伸ばし、チェギョンの頬をそっと覆った。
「君は不思議な娘だ。沢山の“チェギョン・クライボーン”を隠している」
夫のグリーンの瞳が、優しく見つめてくる。視線を外したいのにできない。
「チェギョン…」
シンが顔を傾けチェギョンの唇に視線を落とした。
「いつの間にか、僕は…君のことばかり考えている」
彼女の返事を待たずに、二人の唇が重なった。





「そろそろ戻ろう。パーマー夫人が気をもんでいるぞ」
暫く無言でいつもと違う視界を楽しんでいたが、シンが残念そうに呟いた。
「そうね…」
チェギョンは首をひねり、夫の顔をじっと見つめた。
 
―――シン。私も、よ。
言葉にできない想いを、彼が気づいてくれるといいと願いながら。
 
二人の間に流れる穏やかで親密な空気にもう少し浸っていたいと願う彼女の気持ちに、彼も気づいてくれたようだ。チェギョンの腰に彼の腕が回り、ぎゅっと抱きしめられた。そして耳の後ろの窪みとうなじにシンの温かい唇が押し付けられた。


「僕が先に降りるよ」
「そうね」
彼は木に登った時以上にスマートにスルスルと降りて行くと、ゆっくりと妻を見上げた。
「ほら、降りておいで」
夫が木の下で自分を見守っていてくれるだけで、チェギョンは安心できた。木登りが得意な彼女だけども、それでも大きなシンが自分を見守っているだけで、絶対に足を踏み外さない自信が湧いてくる。

彼女がゆっくりと降りて行くと、シンの大きな手が彼女の脇を掴んだ。ふわりと持ち上げられ、地面に下ろされた。

「あ、ありがとう…」
「どういたしまして」
シンがチェギョンの肩を抱き、後ろから顔を覗きこむと、彼女は頬を染めて上目遣いに夫を見た。
軽く肩を押して妻を回転させ自分と向かい合わせに立たせると、彼は頭のてっぺんからつま先までくまなく彼女に視線を走らせた。

「似合ってる」
デニム姿のチェギョンは、生き生きとしていた。
「でも…王太子妃らしくないわ」
「そんなことないさ」
夫が即座に否定して、チェギョンは驚いた。彼は『妃』らしい妻が欲しいと思っていたのだろう。
「僕はそんな君が好きだ」
「シン…」

身を屈めた夫に、妻は顔を上げて応えてくれる。
大きな夫が華奢な妻に覆いかぶさるようにしながら、いつまでも二人は離れなかった。



二人が仲良く手を繋いで戻ってきた姿を見て、パーマー夫人が胸をなで下ろすのは、もうしばらく先になるだろう。
 
 
 
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