シンが自分たち王太子夫妻のリビングに入ると、チェギョンはラグに座り込んで何やら没頭していた。ソファの前のテーブルにタブレットが置かれ、床にはカタログらしきものが散らばっていた。
――――夫が帰宅しても、無視か。
シンは苦笑しつつ、夢中になっている妻を眺め口元を緩めた。

サックスブルーのノースリーブのワンピースに、オフホワイトのカーディガンを羽織ったチェギョンは、王太子妃と言うよりはどこにでもいる良家の令嬢だ。長い髪は緩くウェーブしたまま、そのまま下ろしている。
彼は最近気づいた。妻が髪を結わえることが嫌いなことに。
人前に出る時は美しく整えているが、今日のように宮殿にいるときなど食事の時以外はこうして下ろしたままにしていることが多い。彼女の長く艶やかな髪が背中で波打ち、動くたびにふわりふわりと揺れている。
そして自分もまた、自然なままに下ろされた妻の髪が好きだとシンは気づいた。

忍び足で―――ここの主の自分がどうしてこんなことをするのかと、内心面白おかしく感じつつ―――チェギョンに近づくと、彼女の背後にあるソファにそっと腰を下ろした。


「うーん…。これがいい?それとも、こっち?」
シンは首をキリンのように伸ばして、チェギョンの肩越しにタブレットの画面を覗いた。
どうやら妻は図書室に置くソファを検討中らしい。
彼がひじ掛けに頬杖をついて眺めていると、次第に彼女のセレクトに一定の好みがあることが分かった。
チェギョンは優美なデザインの物より、シンプルなもののほうが好きなようだ。猫足の優美なデザインはシンも好きではない。妻と好みが似ていてホッとする。

「シンは背が高いから、背もたれが高めのほうが好きよね」
彼は微笑んだ。妻は自分のことを思い浮かべながらソファを選んでいるようだ。
「グリーンの瞳にピッタリなのがいいかしら。きっと…素敵だわ」
チェギョン小さく呟き、耳まで紅くしている。
「や、やだ、私ったら。シンのことばっかり」
急にバタバタとカタログのページをめくっている彼女を眺め、彼は胸が満足感で浸っていく心地よさに酔いしれた。

妻の独り言を聞くのは楽しい。
シンは頬がだらしなく緩んでくるのを止められなかった。
「これと、これと、これと…沢山ありすぎて決められないわ」
ほぅぅとチェギョンがくたびれたようなため息をついた。
コトンとテーブルに頭を載せた彼女は、マントルピースの上あたりに視線を漂わせている。

「…あれが現実になったらいいのに」
小さな声がシンの耳に届いた。妻の顔は見えないけれど彼女が寂しそうな表情をしているのは間違いないだろう。彼女の呟き声はとても切なかったから。
 
彼は堪らなくなり、ソファを降りると妻の背中からそっと抱きしめた。
「何が『現実になったらいい』んだ?」
「シン?」






突然の抱擁に驚いたチェギョンは、首を動かして自分に抱き付いている大きな体の主を確かめた。自分の独り言を夫に聞かれていたと知ってチェギョンは頬を染めた。
「な、なんでもないの」
「そうかな?僕にはそうは聞こえなかったぞ」
グリーンの目が真剣に自分を見つめてくる。彼女は目を閉じた。夫のことが気になって仕方がない。その理由に彼女はうすうす気づいていた。間違いなく彼にひかれている。それも少しだけでなく、とても深く。

―――あの写真楯の新婚カップルの笑みが、心からのそれならいいのに。

夫に愛されているかはわからないが、少なくとも自分は幸せだ。
それならば、わざわざ危険を冒してまで夫の気持ちを確かめる必要などない。このままでも十分。
優しく重なり絡みつくキスにウットリと身を任せつつ、彼女は考えていた。
 
チェギョンは息を整え目を開けた。そこには目を閉じる前と同じ瞳が、じっと彼女を見つめていた。
「あ、あの…ウエディングドレスのような真っ白なソファに憧れていたの。でも、あまりにも白いから落ち着かないかしらって悩んでいて…」
そう嘘ではない。実際、白いソファにするか他の色にするか自分は悩んでいたのだ。
「なんだ、そんなことか」
にっこりと微笑んだシンは肩の力を抜いたように見えた。彼はソファに座りそれから彼女の手を掴んで膝の上に座らせようとする。
「シ、シン」
キスで心を乱されているときに、なんてことをするつもりなのだろうか。これではひっきりなしに動いている鼓動を彼に知られてしまう。
 
恥ずかしそうに抵抗するチェギョンに、
「僕たちは夫婦だろ?仲良くしていても誰も文句を言わないよ」
シンは無理矢理座らせた。
居心地悪そうに、キョロキョロしている彼女。自分の膝の上はなかなか安定感があって座り心地は良さそうだと言うのに。
「そんなにドアの方ばかり見てなくても大丈夫だ」
笑いながら妻の細い腕を叩いた。
「でも…」
シンに言われても、ドアがいつ開くのかと彼女は気が気でないようだ。女官たちに見られでもしたら、彼女たちの恰好のティータイムの話題を提供することになるからだろう。
そんな事気にする事ではない。自分たちはれっきとした夫婦であり、二人が仲睦まじいことは宮殿の人々にとって歓びにつながる。
「…恥ずかしいわ」
チェギョンは目を伏せている。長い睫毛が頬に影を作り、守ってやりたいという保護欲が強くなる。
「チェギョン」

シン

「僕たちは夫婦だったと思うけどね」
「ふ、夫婦だからと言って、人前でみっともないことをする理由にはなりません」
頑なな答え。それでも頬を染めているだけ、愛らしい。
「みっともないわけないだろう?」
これ以上彼女の口から否定的な言葉は聞きたくない。だから彼はすかさず彼女の唇を奪うことにした。最初こそ強張っていたしなやかな体は、すぐにクッタリと力が抜け彼の首に腕が回った。だからシンは細く折れそうな腰を掴んで、充分に満足できるまでキスをする事にした。
 
―――チェギョンをこの腕の中から放すことなど、絶対にない。





「どのソファが候補なんだ?」
ラグに広がったカタログと端末の画面を手に取り、シンは自分の膝の間にちょこんと行儀よく座る妻の顔を後ろから覗きこんだ。
「ドアに鍵を掛けておいたよ」とシンが秘密を妻に打ち明けると、ほっとした顔をした彼女は素直に膝の間におさまっている。そればかりか、少し甘えるように背中を自分の胸に持たれかけてきたのだ。
 
―――いい傾向だ。

「これです。あとは、これと、これと…」
「おいおい。こんなに沢山候補があるのか?これじゃあ、とうてい一つに絞り切れないな」
彼がくすくすと笑うと、妻は目をすがめ口を僅かに尖らせた。
夫が彼女のそんな表情に、ひどくそそられてしまったことなど知らずに。


「でも、実物がないと決められないでしょう?座り心地が大事よ」
彼女は彼の手からさっと端末を取り上げ、カタログを束ね始めている。
彼は妻が選んだ数々の候補に共通の特徴があることに気づいた。それは大柄な自分に合わせた、ゆったりとした座り心地の良さそうなソファばかりだったのだ。
ほっそりとした妻が座るのならば、もう少しコンパクトなソファでも良さそうだ。
実際、結婚に際して妻が新調させたこのリビングのソファは、彼女が今選んでいたものより、一回り小さいものだ。
きっとチェギョン自身が座り心地の良いものを選んだのだろう。

シンの心に温かい何かが広がった。

チェギョンが自分のことを優先してくれている。その事実が突然とても大事なことのように思えてきた。
 
 
「じゃあ、もう少し絞って、後は実物をここへ運んで座り心地を確かめられるように手配しようか?」
夫の素晴らしい提案に、チェギョンは瞳を輝かせた。
「そんなこと、できるの?」
結婚する前のように身軽に出かけられなくなり、実際のところどうやって座り心地を確かめたらいいのかと、チェギョンは考えていたのだ。
シンはニコニコと笑っている。
「僕たちが使うんだからね。座ってみなきゃ決められないだろう?」
「ええ」

シンの逞しい首に抱き付き、この喜びを表現できたらどれほどいいだろうか。

チェギョンは自分が夫に抱き付く姿を想像して、それから、堅く手を握った。
バカなことを考えるのはダメよ。
シンが言ったでしょ?『自分たちが使うのだから、確かめるのだ』と。
実際彼の本心はそこにあるはず。間違っても自分を喜ばすためにそんな提案をしたわけではない。


「シン」
妻に名を呼ばれ顔を傾げると、ピンク色の唇がそっと重なってきた。重なってきたのと同じくらい唐突に唇が離れていった。
「あ、あの…お、お礼のつもり…」
はにかんだような妻が小さな声でもじもじを言い訳をする姿を、シンはいつまでも見つめていた。



****



チェギョンがウキウキといった様子で沢山のソファに間を縫うように歩き回る姿を、しんはマントルピースに肘を掛け体を持たれされながら眺めていた。
その視線の先に常に妻が居ることを、ここにいる人たちは皆見て見ぬふりをしながら、内心ほほえましく感じていた。

『どうやら王太子ご夫妻に小さな家族が加わるのは、時間の問題と見える。』
彼らが宮殿から帰った先々で話したとしても、おかしくはない。


「どっちにするつもりなんだ?」
妻が二つのソファで悩んでいる様子に気づいたシンは、彼女に歩み寄った。
チェギョンが悩んでいるのは、真っ白なソファと薄い紺色のソファだった。
どちらも似たようなデザインと大きさで、座り心地も良さそうだ。
「殿下、座ってみてください。とうてい自分では決められそうもないです」
困ったように眉を寄せているチェギョンのおくれ毛をそっと耳に掛けてやりながら、シンは答えた。
「じゃあ、二人で座ってみればいい」
妻の手を引き、並んで腰掛けた。どちらのソファも座り心地は完璧だった。シンの体にぴったりとフィットする。

 
 
「これは、ここから立ち上がるのが苦痛になりそうなほどだ」
夫の満足そうな表情にチェギョンは素直に喜んだ。自分の審美眼を認められて嬉しくない人がいるだろうか。
「でも、どちらにしましょうか」
チェギョンは甲乙つけがたい二つのソファを恨めしげに眺めた。
きっとどちらかを選べば、もう一方に思いを馳せてしまうだろう。
「選べないなら、両方にすればいい」
思いがけないシンの答えがかえってきた。
「でも…」
「どちらかを選んだら、きっと片方のことを考えてしまうさ」
彼は自分と同じことを考えている。グリーンの瞳は楽しそうに光っていた。
「一つは図書室に。もう一つは、僕たちの寝室にどうだろう?」
「シン…いいの?」
「こんなに座り心地のいいソファ、どちらか一つを選ぶのは至難の業だ。それならこうするのがいいだろう?幸い僕たちの寝室には一人掛けのソファしかないしね」
「じゃあ、そうします」
チェギョンが答えると彼は満足そうに頷き、それから侍従たちに目配せをしていた。「退出せよ」というサインだろう。
 
「素晴らしいソファを選んでくれた妃に、僕からご褒美を与えたい」
「大袈裟ね。ただのソファよ」
チェギョンははにかんだ。
「いや、大袈裟なことはないよ」
シンが真剣な顔をして言うけれど、少々芝居かかっているようにも見えた。
 
彼はジャケットのポケットに手を入れ、ハンカチを出した。
彼女の小さな手を掴み、手のひらを天井に向けるように促す。チェギョンが夫の言うとおりにすると、その手のひらにハンカチがのせられ、そしてそっと開かれた。
「綺麗…」
パヴェダイヤを埋め込んだハート型のイヤリングが乗っている。
「これを私に…?」
彼がにっこり笑い、それから彼女の耳たぶの小さなピアスを外した。かわりに大ぶりのハートのイヤリングをつけてくれる。彼に触れられた耳たぶが熱い。

「似合うよ。君はとても美しい。もっと自信を持ってもいいんだ。アクセサリーも、ね」
夫は気づいていたらしい。
チェギョンが『王太子妃』という地位にどこか居心地の悪さと引け目を感じており、それが自然と小ぶりのアクセサリーを選んでいるという事に。
「この国の王太子妃は、君だよ。エレナ」
真っ直ぐなグリーンの瞳を彼女は見つめた。

「他の誰でもない、チェギョン・クライボーンだ。そして、このシン・セント・ジョージの妻だ」