「チェギョン、こっちに来てごらん」
シンに呼ばれたチェギョンは素直に夫の言葉に従い、暖炉の前のラグに座る彼に近づいた。そろそろ朝晩の冷え込みが厳しくなり、温かい暖炉の前に座るのが快適になってきている。
ラグに座る夫は、赤いスウェットと濃紺のデニムというくだけた姿だ。シャワーを浴びまだ湿った前髪が、額に落ちていて普段より彼を幼く見せていた。彼のそんな姿を見るたびに二人の物質的な距離が縮まっていることを感じ、その一方で心の距離は相変わらず平行線をたどっていることを思い出させる。

マントルピースの上に、自分たちの豪華な結婚式の写真が飾ってある。ここへ住むようになった初めの頃、この写真を見るのが辛かったことを彼女は思いだした。
絵にかいたような幸せな“花嫁と花婿”の二人。

そうでないことを、誰よりも知っているのは自分たちに他ならない。
 
―――写真向けの花婿と花嫁ね。


そんな屈折した思いが、この写真を直視することを避けていた。
チェギョンはマントルピースの上の写真に手を伸ばし、写真楯の中の二人を見つめた。


「綺麗な花嫁だ」
シンは妻の肩越しにその小さな手に自分の手をかぶせ、写真楯を掴んだ。
薄い水色のカシミヤワンピースの妻は、いつも以上にほっそりとしている。ボートネックから美しいデコルテが顔をのぞかせ、その窪みにキスをしたくなる。

「シンも、素敵な花婿だわ」
チェギョンが顔を横に向け微笑んだ。その頬に唇をそっと寄せ彼は答えた。
「僕の花嫁ほど、清楚で可憐な花嫁は後にも先にも見たことないよ」
「シン…」
「僕が言った言葉、覚えてるかな?」

妻の細い腰に腕を回し自分に引き寄せながら、彼女の耳元で彼は囁いた。こんな風に彼女に触れることもすっかり馴染んだ二人だ。彼女の方もシンの抱擁に身を任せてくれるようになった。二人の距離はぐんと縮まったのではないだろうか。
 
 

今も素直に彼にもたれ掛かってきている。
「覚えてるわ。だって、シンから褒め言葉を頂いたのは、あの時が初めてだったから。例えお世辞だとしても…嬉しかった」

『嬉しい』と言いながらも、何故だかその瞳は悲しそうに見えた。
 

ウエディングドレスの妻は輝くようだった。彼女の顔に作ったような笑みが浮かんでいたのが残念だったが、それ以外は完璧だったと言える。
「こんなに綺麗な花嫁が僕の妻になるとは、僕は世界一の花婿だと思うね」
だから彼はあの日、そう言ったのだ。
今思えば、あの時から自分はチェギョンに夢中だった。美しい外見も少しはにかんだ笑みも、それから、ほんの一瞬だけ見せた反抗的な瞳の輝きも。

「本心だ。口からの出まかせのわけないだろう?」
チェギョンの顔を覗きこむと、彼女は曖昧な笑みを浮かべたまま少し躊躇して
「ありがとう」
それでもお礼の言葉を口にしていた。彼としてはもっと心から喜んでくれるだろうと期待したというのに。だからだろうか、彼女をからかってみた。
「口だけ?」
シンがチェギョンの頬をつつくと、彼女はさっと頬を染めて元の場所に写真楯を置いた。それから夫に向き直ると小さな手でシンの頬を包み、顎を上げて唇を重ねる。
まだ、うぶなところがある妻だけれども、最近は随分と積極的なキスをするようになってきた。シンは満足そうに喉の奥を鳴らすと、チェギョンの背中に置いた手で背骨に沿って撫でていく。

 

 
キスはどんどんと情熱的になり、深みを増してきた。

シンに絡められ、吸われ、弄られてチェギョンの膝から力が抜け、ぐにゃりと夫の逞しい体に寄りかかった。
 

「これでは予定が狂いそうだ」
彼が少々恥ずかしそうに、そしてため息まじりに呟いた。その意味が分からなかったチェギョンが彼を見つめると、グリーンの瞳はとても優し気に光ったような気がする。

夫は先にラグに座ると彼女の手を引っ張った。彼の手に引かれチェギョンが座ると、自分の立てた片膝の間に妻を座らせ、シンは脇に置いてあった一冊の本を取り上げた。

興味津々でその本を見つめる彼女に、彼は微笑みゆっくりとその本を広げてくれた。
「この本を読んであげようと思ってね」
「…見たことのない本だわ。物語かしら?」
薄い緑の重厚な表紙に金色で刻印された題名は、聞いたことも見たこともない。
シンは微笑むだけで、答えてくれない。
かわりに彼はそっとページをめくると低く良く響く声で―――チェギョンが大好きな声―――読み始めた。

それは子供向けの童話だった。
一人の少年が、世界を冒険しながら成長してく物語。そこに出てくる動物や妖精たちはどこか温かく、少年をそっと見守っていてくれる。


「素敵ね」
目を閉じて夫の心地よい声を聞きながら、物語の世界に漂っていたチェギョンはとてもウットリとした顔をしているのではないだろうか。自分の表情は見えないけれど、彼が彼女を見つめつ眼差しがそう告げている。
「どうしてこんなに素敵な童話を、私は知らなかったのかしら?不思議だわ」
心温まるこの童話は、世界中で広く愛されてもおかしくない。
「チェギョンの知らない本が、世の中にはたくさんあるってことだよ」
「そう?でも、私が知らないなんて…」
チェギョンは児童文学を専門としていた。将来は、児童書の制作、出版に携わりたいと願ってきた。その夢は本当に『夢物語』になってしまったけれど。

「いくら、君がその道に詳しくても、膨大な量の本があるんだぞ」
「そうだけど…」

夫の言葉に納得できない顔をした妻に、彼はそれ以上何も言わなかった。かわりに、優しいキスが降り注ぎ、いつの間にかラグへ倒されていった。


暖かな暖炉の火がゆらゆらと燃えている。
広い室内に、甘く囁く夫の低い声と、小さな歓声ととぎれとぎれの妻の浅い息遣いが響いていた。



****




「チェギョン、ここに君の好きな本を入れるといい」
王太子夫妻の翼棟にも―――国王夫妻専用の図書室には負けるが―――大きなそれがあった。シンはその壁一面分の本棚を妻のために空けた。
「いいの?」

薄茶色の瞳がキラキラと輝く。
 
―――その笑顔のためなら、なんだってしてもいい。
 
実際そうなのだ。初めこそ『心の声』を否定していた彼だけれども、いつしかそれを素直に受け入れる自分になっていた。妻を好ましく感じている自分を認めたい。
 

「もちろん。ここは“僕と君”の図書室だからね」
「ありがとう」
チェギョンの目が潤んでいるのに気づいたシンは、親指でその涙を拭ってやりながら、
「そんなことで感激されるなんて、僕の妃殿下は欲がないお人だな」
少しばかりおどけて答えた。すると驚いたことに、妻はぎゅっと抱き付いてきた。
自分から甘えてくることは滅多にない妻の思いがけない嬉しい仕草に、彼の頬が緩んだ。誰かが見たら、『妻に甘いだらしない夫の顔』だと評するかもしれないが、幸いにもここには自分たち二人しかいない。
「とても心がこもったプレゼントよ」

彼女のくぐもった声が、彼の胸から聞こえてきた。
 


結婚して王室の一員となった自分には、妃としての責務があり、それに全てを捧げることを夫が望んでいると思っていた。でも夫は自分に児童書の勉強をこれからも続けていい、と許してくれたのだ。
「結婚したからと言って、妻を家庭にがんじがらめにするつもりはない。君には君のやりたいことや夢があるだろ?」
「シン」
顔を上げて夫の端正な顔を見上げると、グリーンの目は今日も優しかった。
「王太子妃になったって、チェギョンがやりたいことは好きなだけやればいい」
大きな手が頬を包み親指が円を描きながら撫でてくれる心地よさに、チェギョンは目を閉じた。

シン・セント・ジョージは、自分が想像していたような男性ではなかった。氷の王子だと噂されてきたけれど、それは違う。
彼ほど温かく思いやりのある心を持った男性に、今まで出会ったことがない。

――――私、幸せよ。

喉の奥に出かかった言葉を、チェギョンはかろうじて飲み込んだ。
夫が自分を大事にしてくれているのは分かっている。そして自分にとってシンが、なくてはならないかけがえのない存在になっていることも自覚していた。

でも、だからこそ、チェギョンはその言葉を口に出せなかった。
「愛してる」と一言告げたら、どんなにか自分の心は晴れやかになるだろう。
シンが『思いやりある人間』だと知ってしまった今、彼が妻である自分をその優しさゆえに大事にしてくれてるとしたら?
愛を告げた自分に、彼が何も答えず、ただ優しく微笑むだけだったら?

―――無理よ。もう傷つきたくない。

「シンみたいな夫で、私は世界一幸せな妃だわ」
チェギョンの言葉にシンは満足そうに笑った。


「チェギョンの好きなソファを選ぶといい。ここにあるソファは年代物だ」
彼は妻の手を引いてそのアンティークなソファに腰を下ろした。
「見た目は、価値がありそうだけどね」
「座り心地は、そうは言えないわね」
背もたれの角度が恐ろしく体にフィットしないソファに、不愉快そうに眉を寄せチェギョンは呟いた。そんな彼女の表情に、シンの心は和んだ。結婚してから彼女は時折、こんなふうに不機嫌な顔も見せてくれるようになった。無表情の彼女は美しく可憐かもしれないが、夫からしたら魅力的だとは言えない。不機嫌な顔の方が、ずっと嬉しく感じてしまう自分は、妻に興味がありすぎる夫だということだろうか。

「お義兄様とお姉様は、このソファで満足していたのかしら」
姉が結婚してここに住んだのは5年近くある。その間この“素晴らしい座り心地”のソファに腰かけていたのだろうか。チェギョンは首を傾げた。
「ユルたちは図書室をあまり使っていなかったみたいだな」
シンの言葉にチェギョンは大きな目を見開いた。
「でも、ヒョリンお姉様は、文学に造詣が深かったはずよ」
公式なプロフィールには必ずそう記載されていた。確かに、実家にいるときからヒョリンが本を読んでいる姿は見たことがなかったが―――ファッション誌を読む姿はよく見られ他―――自室でひとり文学の世界に入り込むことが好きなのだろうと、解釈していたのだ。

夫の顔に浮かんだ奇妙な表情に、チェギョンは恐る恐る尋ねた。
「もしかして…お姉様は、私や世間が思っているより“文学に造詣が”深くなかったということ?」
肩をすぼめた夫の仕草で、彼女は理解した。
きっと事前にインタビューの内容を知っていた姉は、側近たちにその質問の答えを教わっていたのだろう。

「私…お姉さまのことをよく分かってなかったみたいね」
チェギョンが肩を落として哀しげに呟くと、シンは肩を抱いて顔を覗きこんできた。
「チェギョンとヒョリンは歳が少し離れているだろ?それに、ヒョリンは王太子妃だったんだ。いくら姉妹とはいえ、普通の家庭のようには行き来できなかったんだ。しかたないよ」
「ええ…。でも、なんだか国民を騙していたみたいで、申し訳ないわ」
姉の秘密を知ったチェギョンが、ひどく打ちひしがれている姿を見ながら、シンは自分の妻が『ヒョリン』ではなく『チェギョン』で良かったと、心底感じていた。

「もう過ぎたことだ。それより、ここに座り心地のいいとびきりのソファをお願いするよ。僕がうたた寝をしてしまうほど、ね」
シンがわざと明るく言うと、彼女は小さく笑った。
「王太子のやる気を削ぐような素敵なソファを選ぶわ」

 
―――――僕の“やる気を削ぐソファ”だと?それはあり得ないな。
 
無邪気な彼女の声がとても愛らしかったから、彼はそれ以上言わなかったけれど、頭の中は二人が快適なソファでもつれあっている姿が浮かんでいた。どんなソファだろうが、チェギョンに対してやる気を削ぐなどないだろう。
今だってどうにかこうにか欲望を抑え込んでいるというのに。