「緊張してるのか?」
シンは朝食の席でチェギョンに向かって声を掛けた。朝、自分が起きる前にチェギョンがベッドを抜け出し身支度を整えていた時から、なんとなくそう感じていた。
今日は彼女が初めて公式の場でスピーチをするのだ。

「もう食べられそうにないの。心臓が口から飛び出してきそう」
情けない顔をして―――もともと少したれ目の目じりがさらに下がり、大きな目が潤んでいるように見える―――チェギョンは皿を押しやった。

「ほら、そんなことを言ってないで食べるんだ。ほとんど口にしてないだろ?」
向かい合わせに座っていた席を立ち、シンは妻の横に腰かけた。
おもむろにスプーンを持ちあげ、じゃがいものスープをすくった。朝食には珍しいスープを食卓に並べるように指示したのはシン本人だ。
小食のチェギョンは朝、軽く済ませるのが常で、下手をするとバゲットとコーヒーか紅茶と言うことも多い。
伝統的なボリュームのある朝食を好むシンからしたら、信じられないほど少しだ。
そこで彼が料理長に命じて、喉越しの良く栄養価が高いスープを朝食の席に出すようにさせたのだ。

しかし今朝はそのスープさえも、妻は喉を通らないらしい。

 

 
夫がスプーンを口元に持ってきている。チェギョンはそれをじっと見つめた。チラリと彼を見ると、妙に決意のある視線をしている。つまり諦めるつもりはないということだ。

彼女はしばらく躊躇したのち、結局口を開けた。夫がこうすると決めたら、最後までそうする人だと最近分かってきたから。
「美味しいだろ?うん?」
彼が顔を覗きこんできて、チェギョンは今までと違った意味で心臓がドキドキと音を立て始めた。
「え?そ、そうね。でも、自分で飲めます」
彼女がスプーンを取り戻そうとすると、夫は笑うだけで取り合ってくれない。彼は全部飲み干すまで、スプーンを自分に渡しはしないだろう。
諦めた彼女は彼に食べさせてもらうことを選んだ。
正直、朝から夫とスプーンの取り合いをするだけの元気もない。それに、シンとの触れ合いは単純に嬉しいから。


妻は自分に食べさせてもらう事にしたようだ。
シンは微笑んだ。少しずつ彼女は自分との距離を縮めてきている。最初、テーブルにつく場所でもめたことから考えると、随分な進歩だろう。
広いテーブルの端と端で食事をとるなど、バカらしくて仕方ないと主張するシンにチェギョンは難色を示したのだ。
「それがマナーですから」と。
それが今では当たり前のように、隣や向かい合わせに座っている。

自分にとって優先順位の一番が妻だ。
シンは自覚していた。彼が常に心に留めているのは美しい妻のことだった。

「ほら、全部食べられたじゃないか。これでスピーチも完璧だよ」
「ああ、それを言わないで。また思いだしたら、ドキドキしてきたわ」
胸に手を当て、目をつぶっているチェギョンを、シンは見つめた。その表情がとても優しいことに彼は気づいていないけれど。


彼女の姉のヒョリン妃は、人前で目立つことが好きな女性だった。当然こうした目立つ仕事は嬉々としていたのをシンは思いだした。それに比べると、チェギョンは慈善事業の訪問などの仕事のほうが好きなようだ。
特に子どもに関する仕事には目を輝かせている。
―――きっといい母親になるだろう。
彼の頭の中に小さな息子や娘と庭で遊んでいるチェギョンの姿が思い浮かび、胸が温かくなった。

「今日のスピーチは、女性たちによる会議の開催国としての開会宣言だろ?普段のチェギョンらしく落ち着いて話せばいいよ」
「だって、本当は王妃様の仕事だったのよ」
王妃である母が体調を崩し、大事を取って休んでいるために急きょチェギョンが代役を務めることになったのだ。
王妃としての務めを第一にしている母があの程度の風邪で仕事を取りやめることを不思議に感じたシンは、父と母に確かめた。すると、
「そろそろ、チェギョンも独り立ちさせてみましょう。いつもシンか私が一緒ですもの。スピーチの内容は雛型があるし、なによりこれは『ヒョリンがしたことがない』のよ」
と優雅な笑みを見せた。王妃の含みある言葉に彼は頭を下げた。

母は母なりに、チェギョンのコンプレックスを解消しようと考えてくれたのだ。

何かと姉であるヒョリンと比較される妻。自分の姉である分、赤の他人との比較よりはましなのかもしれないが、それでもいい気がしないのは確かだろう。
けしてチェギョンの人気が低いわけではないが、人と言うものは亡くなった者には実際よりも高く評価するような作用が働くものだ。

それでもチェギョンと直接かかわった人たちが、口を揃えて彼女を褒めることから考えると、ヒョリンの亡霊が消え去るもの時間の問題だろう。



「チェギョンが少しでも緊張がとけるように、僕も会場に行こう。会場の端で君を見てるよ」
シンがチェギョンの髪を撫でながら、そう言うと、
「お仕事は?そんな我がままできないわ。シンも予定通りにしてくれていいの」
彼女は夫の顔を凝視し一瞬喜んだように見えたが、すぐに視線をテーブルに落とした。
「気にすることないよ。これでも僕は優秀な王太子だ」
「知ってるわ」
チェギョンが血の気の失せた顔に、薄らと微笑を浮かべた。
「それは嬉しい言葉だね、チェギョン妃」
シンが大袈裟に喜んでみせると、彼女は横目でちらっと彼を見てから
「この国のひとなら、誰だって知ってるはずよ」
頬を染めながらそっけなく答えた。
「だから、僕の仕事のことは心配してくなくていい。今は自分のことだけ考えてごらん。それとも君は、僕が一緒だとやりにくいのかな?」
「そんなことないわ」
即座に妻が否定して、彼は内心ほっとした。妻に「邪魔だ」と言われたら、傷つくだろう。
「じゃあ、決まりだ」
そう言うとシンは椅子を引いて立ち上がりながら、チェギョンの頭のてっぺんにキスを落とした。



****



チェギョンは震える脚をどうにか動かし、スピーチをするために演台の前に立った。

今日は紺色のワンピースとジャケットを着ている。24歳の自分に似合うように、タイトなスカートではなく腿の途中でプリーツに切りかえられたワンピースは、シンが褒めてくれた。
V字の襟元には、夫が「スピーチデビューの記念に」とプレゼントしてくれた一粒ダイヤのネックレスが光っている。

チェギョンはそっとそのダイヤに触れた。

主催者側が気を利かせてシンに最前列の席を勧めたが、彼はそれを丁寧に辞退した。
「僕に監視されてると妻が感じると、困るからね。僕は大人しく陰に隠れて居よう」
とおどけたように答えていた。そう言いながら、隣に立つチェギョンの頬にキスをしたのだ。きっと今日のニュースの記事になるだろう。


会場の隅に背の高い夫が、ポケットに手を入れリラックスした姿で自分を見つめている。
彼の護るような視線をその体に受け止めながら、チェギョンは深呼吸をした。

―――大丈夫よ。スピーチは全部頭に入っている。落ち着いて、チェギョン・セント・ジョージ




薄暗い場所から、明るい演台に立つ妻を見つめる。

小さな頃から人前に立つことが当たり前だった自分と違って、彼女はごく普通の良家の子女だ。おまけに姉が未来の王太子妃だったため、ヒョリンの陰に隠れ、チェギョン自身はそれほど注目されたわけでもない。時々公爵令嬢としてメディアに出てきたものの、まだ幼い少女だった彼女の日常はいたって普通だっただろう。

そのチェギョンが、今、こうして誰からも注目される存在になってしまった。

―――僕のせいだ。

シンがチェギョンとの結婚を持ち掛けなければ、彼女は紳士階級か貴族の息子たちと一緒になっただろう。

妻が他の男の腕の中にいると考えただけで、シンはイライラした。チェギョンに触れていいのはこのシン・セント・ジョージだけだ。
パンツのポケットに突っ込んだ手をぐっと強く握りしめた。







「どうだったかしら…」
控え室に戻ると、自信無さげに呟く妻をふんわりと抱きしめたシンは、彼女の耳元で
「良かったよ。堂々としていたし、聞き取りやすかった。合格だ」
そっと答えた。
「本当?それならいいけど…。シンにそう言われてほっとしたわ」
チェギョンが照れたように微笑んだ瞬間、シンの胸がドキンと高鳴った。
こんなにも純粋な表情を浮かべるチェギョンの未来を、自分は半ば強引に奪ってしまった。

彼女はこの結婚をどう感じているのだろう。

シンはふと考えた。
数か月前まで、そんなこと全く考えが及ばなかった。兄夫婦の事故死から立ち直るためには必要不可欠な婚姻だと、信じて疑わなかった。
当然、チェギョンも自分と同じように思っているだろうと。

結婚式の後、必ずしも妻が自分と同じ価値観を抱いているわけではないことに気づいたが、それでも、彼女もこの国公爵令嬢でありヒョリンの妹であることから、概ね合意していると結論付けた。

その考えが間違っていたのかもしれない。


「では褒美のキスをしよう」
チェギョンが抗議の言葉を口にする前に、シンは甘く口づけた。
キスが物思いを消し去ってくれることを願って。