シンの寝室はまるで彼自身を表しているかのように、余分なものを一切省いた、どこまでもシンプルな部屋だった。

「ショールームみたいな部屋ね…」
クスリと小さくシンが笑った声で、チェギョンは自分が思わず声に出していたことに気づき、頬を染めた。

 
―――私ったら、なにをやっているの?
 

普段は、慎ましやかで思慮深い女性だと言われている自分が、うっかり本音を漏らすなんて。それも当の本人の前で。彼が面白がってくれてよかった。

「申し訳ありません、殿下」
彼女が礼儀に沿った“正しい返答”をしたというのに、シンは僅かに顔をしかめた。

自分の態度が、気に障らなかったのだろうか。チェギョンは戸惑った。まさか、謝罪したことが気に入らなかったのだろうか。どうにも、夫になった彼の考えは理解できない。

チェギョンは、静かに目を伏せ夫が口を開くのを待った。

シンはきっと、自分を叱るだろう。そう、普通の王子ならきっとそうだ。少なくとも前の王太子であるユルならば、不機嫌になったのは確実だ。
義兄のことをあまり非難したくはないけれども、人前で見せる好感度の高さは、宮殿で見せていたユル王太子とは別人のようだった。怒りぽく、時に子どもじみた我儘な姿を、ごくたまに訪れるチェギョンは幾度となく目にしてきた。




「どうして、そんな口の利き方をする?」
シンがチェギョンの尖った顎を親指と人差し指で掴んでそっと顔を上げさせ、その薄茶色の瞳を覗きこんだ。戸惑ったような妻の視線が、妙に気にくわない。
チェギョンは自分のことを、どんな男だと思っているのだろうか。

「私は殿下の妻ですから。馴れ馴れしく話すわけにはいきません」
「僕たちは夫婦だ」
チェギョンの冷静な口ぶりに、シンは声をわずかに荒げた。その勢いに驚いたのか、彼女は目を見開いた。

―――チェギョンの気持ちは、その瞳に現れるというわけか。

先ほど感じた直感が、どうやら間違いがないと分かり、シンは微笑んだ。
チェギョンのガラスのような壁が少しだけ薄くなる瞬間を見分ける方法を知ったシンは、腹立ちも消え去っていくの感じた。

そうだ、自分たちはまだ始まったばかりなのだ。ここで焦っても仕方がない。少なくともこれから続く人生には、彼女が必ずいるはずだから。




「二人きりの時は、“ただの”夫婦だ」
シンの親指が小さな円を描く。その心地よさに、チェギョンの胸はドキドキを早鐘を打ちだした。
「“た、ただの”夫婦ではないわ。“ただの”他人の二人です、殿下」
夫の親密な触れ合いに心をかき乱されているのを、知られたくない。チェギョンは冷静な声色で―――相当な努力を要したが―――シンに返す。
彼の男らしい太い眉が、ピクリと動く。

「いいだろう、君の言う通りだ、妃殿下」
シンがチェギョンの顎から手を放すと、彼女は安堵と同時に、一抹の寂しさを感じた。
―――寂しい?まさか。違うわ。
思いがけない感情に心が動かされる。チェギョンは軽く首を振ることで、余計な思いを忘れようとした。例え、それが無駄な努力だったとしても。





あくまでも、『意に添わぬ結婚』だという態度を崩さないわけか。

シンは妻から一歩身を引いて、呼吸を整えた。
いつだって、ものに動じない氷の王子だと言われている自分が、妻の言葉一つ一つに敏感に反応してしまう。どうしたのだろう。

ふと、チェギョンの足先を見ると、白いナイトガウンから覗く、同じく白いサテンの室内履きを履いたつま先が揺れているように感じた。そのままゆっくり観察していくと、あろうことか、妻は震えていた。これは思っても見なかったことだ。

「チェギョン、寒いのかな?震えているようだけど」
「い、いいえ。寒くありません」
「チェギョン?」
二人の距離を夫が縮めると、それに呼応するように妻が半歩下がった。長いエシンの腕は、妻が半歩ばかり離れたところで難なく彼女を掴まえることが出来る。
「チェギョン、我慢するようなことじゃない。本当のことを言うんだ」
華奢な肩を掴むと、シンは身を屈めてチェギョンの顔を覗きこもうとした。

僅かに体をよじるチェギョンが、下唇を噛み視線を反らせている。そればかりか、両手はガウンを握りしめ、何かに耐えている風情だ。
「チェギョン?」
優しく包み込むよう、彼女の警戒心が消えるようシンが声を掛けると、チェギョンは恐る恐る視線を合わせた。

妻の目に浮かぶ不安と戸惑いの色に、シンは彼女の気持ちを―――多分正しく―――理解した。
「…心配するようなことは、今夜はない」
「殿下…」

なんと滑稽なことか。次男坊の気楽さもあり、自分の誘いを断ってきた女性など皆無だ。そればかりか、女性たちのほうから積極的にベッドに誘ってきたというのに、自分の妻となり、堂々と同じベッドで眠る権利を得た“妻”から、けだもの扱いをされるとは。

シンは内心苦笑しながらも、とりあえずは、チェギョンの気を休ませてやりたいと心底感じた。どうしてそう感じたのかは、定かではない。
今まで、女性たちの気持ちなどあまり考慮したことはないというのに。

美しくカーブを描く優しげな眉をシンの親指がそっと撫でる。
数回往復すると、チェギョンの表情が和らいだ。

「いいのですか?」
小さな声が躊躇いながら、問いかける。
「夫婦が同じベッドで休むたびに、抱き合っていたら、体を休める暇もないと思うけど?」
シンのどこか面白がっている口調ときわどい言葉に、チェギョンは無垢な新妻らしく頬を染めた。
「そんな意味で申したわけではありません」
赤くなりながらも、毅然とした口ぶりで答えてくるチェギョンに、シンは微笑んだ。
自分の妻は、慎ましやかな外見の下に、鋼のような強さを隠しているらしい。

よくよく考えれば、チェギョンはまだ24歳だ。社会に出て間もない彼女に、降ってわいたような不幸が降りかかり、それを誰にも悟られないようにしているのだ。
その仮面の下には、どんな素顔が隠れているのだろう?




「『どんな意味』なのか、それは次の機会にとっておくよ」
シンが優しく微笑むと、チェギョンはまた目を見開いた。

彼のこんな笑顔、見たことがない。いつだって、『その場に即した笑顔』を作ることが出来る人だ。
シン・セント・ジョージ王太子は、もしかしたら、自分が思っているような人ではないのかもしれない。

チェギョンは、少しだけ彼との生活が楽しみになった。
シンの素顔を知ることが出来る楽しみができて。



「さあ、おいで」
シンの大きな手がチェギョンの小さな手を掴み、そっと引っ張っていく。不思議と先ほどまでの不安は消え去り、素直に夫の言葉に従ってチェギョンはついて行った。
大きなベッドの前で彼は立ち止ると、慈愛に満ちた顔でチェギョンを見つめた。

「今日は疲れただろう?」
シンは、そっとチェギョンを抱き寄せ、ふんわりと―――親鳥が卵を抱くように―――腕の中に閉じ込めた。
あれほどまでに不安そうだった妻が、今は大人しく自分の腕に抱かれている。
シンは満足げに微笑んだ。もし今、彼の表情を見たならば、老いも若きも彼に恋に落ちただろう。

「ええ、少し」
チェギョンのくぐもった声が聞こえる。彼女が口を開くと、温かい息がシンの胸に掛かり、パーカーの厚い生地が憎らしい。
どうしてТシャツ一枚にしなかったのだろう。
「『少し』とは、随分控えめな言い方だね?」
「じゃあ、『とっても』と言い換えてもよろしいですか。」
チェギョンがお茶目に目を光らせ、顔を上げた。
シンの心臓が、ドキンと大きく一つ動いた。彼自身は気づかなかったかもしれないが。
自分の気持ちを誤魔化すためなのか、居心地の悪さを消したりたいためなのか、彼は妻のおくれ毛を指に巻き付け、
「一日よく耐えたね。立派だった」
チェギョンにねぎらいの言葉を掛けた。


チェギョンは心底驚いた。夫となったシン王太子から、こんな言葉が聞けるとは思ってもみなかったからだ。
「殿下…ありがとうございます」

胸がつかえて言葉がでない。誰もが『幸福な花嫁』だと思っている自分の姿に、本当は自分自身が一番戸惑っていた。
 
―――もし私が、『世界で一番不幸な花嫁』だと感じていると、皆が知ったら?
 

誰にも気取られてはならない。だから、ずっと気を張っていたのだ。
それだというのに、自分に関心を持っていないと思っていた夫から、思いがけないねぎらいの言葉を聞いてしまったのだ。

この戸惑いと、大きな喜びをどうしたらいいのだろうか。

「シンだ」
じっとチェギョンを見つめてくるシンの瞳は、どこまでも優しく深い。
「ええ…」
何か『思うところ』があって、こんな言葉を掛けてくれるのだろうか。
チェギョンはじっと探るように、夫のグリーンの瞳を見つめたが、そこには、邪念などないように感じる、

ふっと、シンが苦笑いをした。

「やれやれ。相当僕のことを警戒してるな?そんなに、僕が怖いのか?」
笑うと八重歯が見える口元のせいで、シンが普段より幼く感じる。
「…怖くはないわ。ただ―――」
「ただ?」
目を閉じて大きく息を深呼吸したチェギョンが、目を開くと
「“危険”な香りがするから」
彼の笑顔に勇気をもらい、彼女は答えた。



笑い声が広い寝室に響く。

妻となったこの女性は、なかなか肝が据わっている。
誰もが一線を引いている“シン・セント・ジョージ”に面と向かって、『危険』だと言ったのだから。

「チェギョン、君の言った通りなのか、1年後にもう一度同じ質問をしてみたいね」
シンはチェギョンを抱き上げると、彼女が小さな悲鳴を上げると同時に、ベッドの真ん中に妻を横たえた。

「今日はもう眠るんだ。君と同じぐらい僕も疲れている」
チェギョンの首の下に逞しい腕を入れて、軽く抱き寄せると、シンは彼女の額にキスを落とした。
―――これは“親愛の印”だ。それ以上でもそれ以下でもない。
誰に言い訳するわけでもなく、心の中で呟きながら。