トントントンとドアが叩かれる音で、チェギョンは我に返った。
今朝からずっとこんなふうだった。気づくと昨晩、本当の意味で“夫”になったシンの事ばかり考えている。
窓際に置かれた椅子に座った彼女の膝の上に、お気に入りの小説が乗っている。けれどもそれは言葉通り“乗っている”だけ。お気に入りの本のはずなのに、一向にページはめくられないままだ。

「はい」
返事をすれば、パーマー夫人がワゴンを押した女官を連れて部屋に入ってきた。
「妃殿下、窓を開けましょうか。外の爽やかな風で部屋の空気を入れ替えましょう」
夫人のさり気ない一言に、チェギョンは真っ赤になった。
優秀な女官長のことだ。言外に“夫とのベッドの営みのなごり”があると匂わせたのではないかと、深読みしてしまう。実際はそんなことはないはず。ここは二人が夫婦になった彼女の寝室ではなく、王太子妃専用の居間なのだから。
 
どうか女官長の意図することを、ワゴンを押した若い女官が気づかないといいけれど。
 
 
チェギョンの当惑した姿をみた夫人は、若い女官に目で合図をすると彼女を部屋から追い出してくれた。彼女を見つめる夫人の視線は柔らかく、温かった。
「気になさることはありません。妃殿下の寝室は換気をしました。十分に空気の入れ替えが終わった後で、ベッドメイキングをさせましょう」
ティータイムの準備をしながら、さり気なくそう告げられた時、チェギョンは全身が真っ赤になったのが分かった。
「でも、夫人には分かってしまったわ」
泣き出しそうなチェギョンに、パーマー夫人は柔らかく微笑んだ。
「女官としての経験と、子どもを産んだことのある女としての経験からです。あの若い女官にはどちらもございません。私の言葉の意味など全く理解できないはずです」
「そうだといいけど…」
開いたまま1時間もそのままのページを見つめたまま、彼女は呟いた。


「妃殿下と殿下は、ご夫婦なのですから、当然です。むしろやっとお二人がそうなってくださり、わたくし共は嬉しい限りですけどね」
ちらっと夫人を見たチェギョンは、情けない歪んだ笑顔を浮かべ、
「そうね。私に課せられた責任と義務を考えたら、当然のことね」
半ばあきらめたように呟いた。

「あら、妃殿下はそう思っていらっしゃるのですか」
「え?」
驚いたチェギョンが大きく目を見開いて女官長の顔を見ると、そこには夫人の意味深長な笑みが浮かんでいた。
「あのシン様が、チェギョン様の魅力にすっかり“やられてる”というわけですよ」
小さなウィンク付き。
「…そんなこと、ないわ」
夫のあのからかうような表情。彼は絶対、自分のこの“体”だけを楽しんでいる。
本当に女性のことを想っていたら、愛の言葉をささやくはずよ。
けれど、シンはそんな言葉を吐かなかった。

――――私は彼からの愛の告白を聞きたかったの…?

一瞬だとしてもそんなことを考えていた自分に、チェギョンは驚いた。そして未だに未来の夫から告げられたプロポーズを気にしている。なぜこんなにそのことに拘ってしまうのだろう。

「そんなことありますとも。シン様がチェギョン様を見つめるあの目の優しいことと言ったら…!」
両手を胸の前で絡めた女官長が、中年女性らしからぬウットリとした顔をしている。
その姿にチェギョンはクスリと笑った。

「パーマー夫人の冗談、面白かったわ。ちょうど喉が渇いていたの」
ソファの前の机に用意されたティーセットに笑みを浮かべ、腰を下ろした。
「冗談なんかではございませんよ」
ぶつぶつと不満そうに呟く女官長を横目に、チェギョンは優雅な仕草でカップに指を掛けた。彼女のそんな妃らしい様子を夫人がさり気なく見ていて、「チェギョン妃はヒョリン妃に対してコンプレックスがおありのようですが、前王太子妃殿下に負けず劣らず、いいえ、気品と言えばチェギョン妃のほうが優っている、この国の妃です。」などと心で思っていたことは知らなかった。






チェギョンはどうしているだろう。シンは一日中妻の事ばかり考えていた。

陽が高くのぼるまで、自分は彼女をベッドの中に閉じ込めていた。1か月間、この宮殿に仕える人々が待ち望んでいたことだ。
予定の時間になっても起きてこない王太子とその妻に、人々が寛大なのは当たり前だろう。午前中の全ての仕事はキャンセルされ、それについて咎める言葉を言う者もいなかった。通常ならば、明らかに文句のある顔をする側近たちも、今日ばかりはニコニコとしている。

それをいいことに、グズグズと妻の体を手放さなかった。

しかし、さすがに午後までそうしているわけにもいかず、シンは後ろ髪を引かれる思いで眠っている彼女を置いて、ベッドを抜け出したのだ。


『妃殿下がブランチをお取りになったそうです』
 
側近が書類を渡しながら、さり気なく伝えてきてから、もう4時間ほどたっている。そろそろお茶の時間だ。
トンと画面をタップすると、シンは執務室の重厚な椅子から立ち上がった。
「休憩するよ」
スタンドハンガーからジャケットを掴み、シンは部屋を大股で横切っていく。

「こちらにご用意させましょうか?」
「いや、いい。チェギョンと一緒にお茶にする」
シンの言葉に、侍従長のミスター・ハモンドは微笑んだ。

『前王太子夫妻の二の舞はごめんだ。一日でも早く、ご夫妻にお子様がお生まれになるといい。…しかし、それもそう遠くない未来だと信じております』
ハモンドが頭で考えたことは、この宮殿で使える人々の多くが予想していることだ。そしてその予想は当たるだろうと確信している。





王太子用の居間へ行くと、妻の姿はなかった。
相当途方に暮れた顔をしていたのだろう、女官の一人が「妃殿下は、自室においでです」と向こうから声を掛けてきた。通常女官や侍従たちは、こちらが声を掛けるまで黙っている。そうした規律を理解している女官が、思わず伝えてきたという事は、彼の顔に明らかな落胆の色があったというわけか。

シンは苦笑した。

仕方がない。認めることにしよう。
自分は確かに、“妻”のことが気になる。ただし、それが“チェギョン”だからとは断言できない。何しろ、妻と言う存在ができたのは、これが初めてなのだから。


チェギョンの部屋の前で、ノックをするかどうか、シンはふと悩んだ。
突然ドアが開いたら、あの妻のことだ、眉を上げて不機嫌な顔をするだろう。かと言って、ノックをするなど妻の機嫌を伺う情けない夫のようで気に入らない。
結局、シンは出来る限りさりげなく、ドアを開け中に入ることにした。


 
 
「ご機嫌、いかがかな?」
颯爽と現れた夫は、今日もハンサムだった。
濃いグレイのパンツは、真っ直ぐなセンタープレスがかかっている。上質なものを着こなすには、本人がそれに負けないだけの品格を身につけていることが必要だと、公爵家の令嬢として育った彼女は知っていた。その点で夫は極上のジャケットを羽織っていても、それに負けないだけの堂々とした風格だった。

そう言えばシンはお洒落な男性だと、チェギョンは思った。どうして今までそう感じなかったのかと不思議だ。
義理兄のユルのほうが、世間では洒落者として通っていた。どうして兄の方がずっとそう世間で言われていたのか、その理由を考えた。
 

ユルの服装には、彼自身と同じく“これ見よがし”な点が多かった。一目見ただけで誰にでもわかりやすい“オシャレ”をしていた。
それに比べてシンの装いは、一見シンプルだ。ただ丹念に観察すると、ジャケットの肩幅、丈の長さと胴回り、パンツの細さなど計算されていることが分かる。
シンは“自分をより素晴らしく魅せる”技を知り尽くしているように感じた。

そしてーーーこれがまことに厄介なことだがーーーチェギョン自身は、シンのオシャレのほうが好ましいと思ってしまうのだ。

義理兄は少し自分勝手でわがままなところもあったが、おおらかで明るく、チェギョンは義理妹として好きだった。あのユル以上の感情をシンに感じるなんて、自分はおかしくなってしまったのだろうか。


「チェギョン?」
顎を夫につかまれて、その目を覗きこまれていることに、チェギョンは気づかなかった。心配そうにシンが見つめてくる。

「え?」
「大丈夫か?体が辛い?」
シンが何を指しているのか、チェギョンは一瞬で理解し、全身を赤く染めた。
「だ、大丈夫です、殿下」
「本当か?」
「本当です」
キッパリと答えると、シンはやっと手を放した。
ーーーどうして夫はそんな“心から”心配していると言わんばかりの表情をするのだろう。
彼が自分のことを気に掛ける…?

そんなこと、絶対にないはずよ。



「美味しそうだな」
チェギョンの横に座ったシンが、目の前の小さなビスケットに手を伸ばした。
オーツのビスケットが夫のお気に入りだと、チェギョンは知っている。
だから、お茶の時間には「自分が気に入った」と伝えて、毎回ビスケットを用意してもらっている。シンがお茶に来るかも、と期待してるわけではない。
ただ、妻としてそうするのがいいと思ったから。そうに決まっている。


カップの端に口をつけ、そっと夫の様子を伺った。
一口齧ったシンが、サクサクとした食感に満足そうに微笑んだ瞬間、チェギョンの体にびりりと電気が走った。

彼のこの笑顔を、自分に向けてほしい。
彼のこの笑顔を、自分だけが独り占めしたい。

突然胸に芽生えた感情は、チェギョンの心を激しく乱した。抑えきれない気持ちが、体の中からあふれ出しそうになる。
「どう、して…?」
チェギョンの口から本人の意思とは関係なく、言葉が零れ落ちてきた。

「チェギョン?」
「どうして、シンは、そんなに平然としていられるの?」
「チェギョン、どうしたんだ」
カチャンと乱暴にカップを戻したチェギョンが、立ち上がる。すかさずその細い手首を、シンの大きな手が掴んだ。



「あなたにとっては、どうってことのないことだったのでしょうね?でも、私にとっては違うわ」
涙交じりのチェギョンの大きな瞳が、哀しげにシンを見つめる。こんな目をした美女を一度見たら誰もが恋に落ちそうだ。
女性の涙ほど手におえないものはないと常々感じている自分が、チェギョンの打ちひしがれた姿に心が揺さぶられる。

「二人のベッドのことを言ってるのか?」
立ち上がったシンがチェギョンを引き寄せようとするも、彼女は体を捻ってそれから逃げようとする。
「チェギョン、君の言いたいことが僕には分からない。だから、落ち着いて話してくれ」
「話すことなんて、ないわ」

掴まれた腕を大きく上下に動かした瞬間、シンが一瞬ひるんだ。妻の細い腕を折ってしまいそうになったからだ。
その隙にチェギョンは部屋を飛び出していった。