―――これで良かったの…?

閉められた窓の外から聞こえる歓声のざわめきを感じながら、チェギョンはその小さな胸にもう何千回と問いかけた事柄を、再び取り出し、繰り返した。
例え、答えが『NO』だとしても、引き戻すことなど不可能だと彼女には分かっていたけれども。


「用意はできたかな?」
男らしい声が聞こえ、チェギョンは振り返った。

チェギョンが考えていたよりずっと近くに、シン王子が花婿らしい黒と白の完璧な装いで立っていた。

「ええ、殿下」
長く豊かな睫毛が、チェギョンの美しい薄茶色の瞳を覆い隠してしまう。シンはつい数時間前に妻となった美しいチェギョン妃の顎を、無意識に1本の指だけで押し上げた。

思いがけない夫の仕草に、妻は驚いたらしい。普段は慎ましやかに笑みを浮かべるその瞳が、大きく見開かれ、シンの顔を瞬きも忘れ見つめている。

「さあ、国民たちに僕たちが“愛し合っているカップル”だと信じさせなければ。---できるかな?プリンセス チェギョン」
「はい、殿下」

夫はーーーつい数時間前に大聖堂で豪華絢爛な挙式をしたばかりのーーー“チェギョン・クライボーン”ではなく、シン王太子にふさわしい王太子妃が必要だと、言ったのだ。
不意に触れられてーーーそれも、たった1本の指だと言うのにーーー胸を高鳴らせたのが悔しい。シンは全く動じていないというのに、一人で赤くなっているであろう頬が情けなくて、チェギョンは公爵令嬢らしく顎を上げ、堂々とした態度を見せることにした。


あの瞳を覗きこんだ時、一瞬頬を染めたように見えたのは、自分の見間違いだったのだろうか。
上品に返事を返したチェギョンは、一瞬で妃殿下らしい風格を漂わせ、優雅にシンの差し出した肘に指を掛けているではないか。

自分はどうかしている。

妻の瞳にこの姿が映っているか、どうにも確かめたくなったなんて。


二人がバルコニーに近づくと、大きな窓が開け放たれた。
途端に、大波のような国民の歓声の声が雪崩れ込んでくる。


二人して、にこやかに手を振り、見つめあい、体を寄せいあい、国民が望む“理想の王太子夫婦”を演じた。

そうだ、これが終わりではなく、これが始まりなのだ。

少なくとも自分たちは、『己で選んだ道』なのだから。



****



半年前、まさか自分がここにこうして座っているなど、考えてもみなかった。

チェギョンは大きな鏡台の前で“初夜を迎える花嫁らしい装い”へと変化していく自分の姿を、ボンヤリと眺めていた。


チェギョンの姉ヒョリンは、シンの兄ユルの妻だった。
そう、二人こそ『理想の相思相愛の王太子夫妻』だったのだ。誰もが思ってもみなかった不慮の事故で、前途明るい王太子夫妻が天に召され、残ったのは大きな悲しみの渦だけだった。


国王夫妻とチェギョンの両親の哀しみは計り知れないほど大きく、このままではこの不幸を乗り越えられないのではないだろうかと誰もが不安になった時、次男のシンがある提案をした。

それは、国王夫妻と公爵夫妻、そして、国民にとっては大層喜ばしいことであった。

その一方でシンとチェギョンにとっては、大きな犠牲でもあった。

『シン王子とレディ・チェギョン、ご結婚』のニュースは、瞬く間に広がり、あれほどまでにこの国に漂っていた暗い悲しみは、霧のように消えて行った。


カチャリ


夫と妻の寝室を繋ぐドアが開く。

それを合図に、女官たちが音もなく下がって行くのを、チェギョンは見なくとも背中に感じる気配で理解した。

―――-もう仮面を脱いでもいいってことね。

ゆっくりと振り返り戸口を見ると、シンがドアにもたれて立っていた。

亡くなった彼の兄も背の高い美男子だったが、シンは更に背が高く、そして、危険なまでのハンサムだ。ユルが優しげな誰にでも愛される微笑みを湛えた王子ならば、シンはクールで人を寄せ付けない鎧をかぶった氷の王子。

その彼が、霜降りのパーカーに紺色のジャージ生地のラフなパンツ姿で、腕を組んで観察するように自分を見つめている。
チェギョンはぶるっと体を震わせた。


まさかこれほど心惹かれるとは思ってもみなかった。ユルが亡くなってから、王太子らしい完璧な服装をしている彼は、誰から見ても見とれてしまう。そんな彼に見慣れている自分が、ラフな彼を見て、ドキドキとするなんて予想外だ。

兄のユルはどこまでも王太子で、いつも隙のない装いをしていた。きっとヒョリンとの初夜にはナイトガウンを羽織り、花嫁を優しく抱いたのだろう。

 

―――私たちはお姉さまたちとは違うわ。
 
チェギョンはぎゅっと唇を噛み、手を握った。愛し合って初夜を迎えた姉夫婦とは異なり、自分たちはどこまでも心が離れている。公爵家の彼女と王子の彼は昔から声を交わす程度の仲ではあった。けれども、シンは年恰好や、家柄が“釣り合う”チェギョンには警戒心を抱いていたのか、マナー違反にならない程度の他人行儀な態度で接してきた。
互いの姉と兄が夫婦になってからも。
 
そんなシンと結婚をしてしまった。これがどういう意味をなすのか、チェギョンは今のこの瞬間にようやく実感した。
 
 
シンは自分の妻となったチェギョンを見つめた。
彼女の姉のヒョリンとは違い、チェギョンは大人しく控えめな令嬢だと言う印象しかない。兄夫婦の喪服期間は彼女との婚約期間と重なる。その間、彼は積極的に二人の距離を縮める努力などしなかった。
 
なぜなら、自分と彼女はある意味『同志』だと考えてきたからだ。
 
 

敬愛していた兄を突然の事故で亡くし、哀しみに十分浸る暇もなく、王太子としての務めを果たさなければならなくなった。
祖父が、父が、そして兄が見事にやってのけたこの“王太子”という役を、自分もまたセント・ジョージの血に恥じることなく、見事に演じるのだ。

その思いだけで生きている。


自分がそうであるように、ヒョリンの妹のチェギョンも同じ思いでいるだろうと、考えていた。そんな自分をシンは恥じた。

振り返った彼女が、震える体を必死に抑えながら、公爵令嬢としての威厳を湛え澄ました顔で座っているのだ。あの華奢な体に、妻はどんな勇気と強い精神力を隠しているのだろう?
白い花嫁らしい可憐なナイトドレスを身にまとい、儚げな様子で鏡台の前にポツンと座るチェギョンは、ひどく心惹かれるものがある。

「チェギョン」
シンが一歩足を踏み出す。
「はい」

チェギョンは震える体を夫に気づかれないように、しっかりと答えた。その毅然とした態度と勇気に、彼は内心賞賛の拍手を送った。
 
 

 

――――この広い部屋は、いつの間にこんなに小さくなってしまったの?
 
シンが近づいてくるごとに、どんどん世界が狭くなり、やがて、彼とチェギョンしか存在しなくなった。彼女の心臓はドキドキとひっきりなしに動き、ナイトドレス越しにも彼に分かってしまうかもしれない。そのことがひどく屈辱的だと感じた。彼には「なんてことない」と考えているんだと思わせたい。
この茶番じみた結婚とそれに続く長い年月全てを、チェギョンが冷静にとらえていると思ってほしい。そして、彼女はそう言う態度で生きて行こうと思っている。


シンがチェギョンの正面に膝をついて彼女のほっそりとした指を掴み、真っ白な甲にキスをした。
夫のこんな仕草が、ひどくエロティックに感じるのは何故だろうか。

今までだって、何人もの紳士に同じ仕草をされてきた。彼の兄のユルにでさえ。そうだというのに、シンのキスは、他の誰とも明らかに違う。彼が自分の夫だからだろうか。
 
―――きっとそうよ。それ以外の答えなんてあるはずがない。
 
胸の奥に芽生えたぼんやりとした想いを彼女は打ち消した。
 
 
 


「チェギョン。君の意思を尊重したい」

シンからの突然の申し出に、彼女は驚いた。
チェギョンは目を見開き、そして、眉間にしわを寄せ怪訝な顔をした。彼は何を言い出すと言うのだろうか。

「この結婚は突然だった。いくら必然だと頭で分かっていても……若い君には相当の覚悟が必要だったはずだ。すまない」

誇り高きセント・ジョージ家の夫が、自分に謝っている。
チェギョンは、驚きと安堵と―――ーそしてその理由は分からないが少しの落胆―――を感じた。自分の夫となった目の前にいるハンサムな男性のことを、誤解していたのかもしれない。

だから。

チェギョンの小さな手がシンの黒に近い褐色の髪が額に掛かっている一束を、そっと後ろに払いのけた。
思いがけない妻からの親密な仕草に、今度はシンが驚く番のようだ。

「いいのです。殿下が国王陛下の哀しみを背負いたいとお感じなったのと同じように、私も両親の心を慰めたいのです」
「シンだ」
「え?」
まだ自分の髪に触れているチェギョンの手を掴み、シンは言った。
「二人きりの時は、シンと呼んでほしい」
「でも…」
夫の真剣な、それでいて、チェギョンが生まれて初めて見た彼の優しい眼差しに、
「はい…シン」
小さな声で答えた。


「今夜は、同じベッドで休もう。ただし“休む”だけだ」
シンの言葉が理解できないのか、チェギョンの瞳が不安そうに揺れる。

「そんなビクビクした妻に襲い掛かるほど、僕は怪物じゃないさ」
屈託なく笑う夫に、チェギョンは戸惑った。
「でも…私たち、結婚したわ」
左の薬指には、確かにリングが光っている。
「分かっている。でも、君の方の準備は?」
ブロンドに近い栗色の髪は、緩くリボンと一緒に編み込まれ、片方の薄い肩に流されている。白い頬を撫でると、驚いたのだろう、目を見開いた。

 

―――面白い。
 

妻は、慎ましやかで上品な表情の奥に、感情豊かな瞳を隠していたらしい。
これから、彼女の本音を推し量るときは、この薄茶色の瞳を覗きこむことにしよう。

「…いいの?」
消え入りそうなため息とともに、微かに戸惑いを含んだ言葉が返ってきた。

「もちろんだ。僕のベッドに喜んで入ってくれる女性しか抱きたくない」
冗談とも本気ともとれるシンの言葉に、チェギョンは曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。


今日のところは、最大の難を乗り越えたらしい。――――いや、一時的に回避したという方が正しい。
それはいつか“必ず”通らなければならない道なのだから。