「ここは…どこ…?」
やみくもに走ったチェギョンは、見覚えが無い場所に自分が立っていることに気づいた。この広い宮殿を一人で歩くことなどないに等しい。けして方向音痴だと思わないが、かといって特別方向感覚に優れているわけでもない。

「でも、宮殿の中ってことは確実ね」
その証拠に、自分は長い回廊に佇んでいるのだから。体の向きからして、自分の後ろから来たのだろう。振り返ってみたものの、やはり見覚えがない。
「しかたないわね」
夕方になると急に気温が下がってくる。薄手のカーディガンを着ているとはいえ、ブラウスと薄いスカートでこの回廊に居るのは、賢明だとは言えない。
自分が体調を崩したら、どれほどの人間に手間をかけるのだろうか。

以前姉のヒョリンが風邪を引いて、お見舞いに宮殿を訪れたことがある。
「こんな風邪でも大騒ぎよ」
とベッドに縛り付けられて暇だと、姉が女官たちに八つ当たりをしている姿を思い出した。
「お姉さまのお仕事はどうなったの?」
確か、ある式典に出る、と姉が話していた。チェギョンが聞くと、ヒョリンは肩をすぼめて、
「代わりにユルの従妹が出たわ。それだけが、ラッキーな出来事よ」
やれやれと笑っていた。

王太子妃の自分が出られなくなると、きっと別の誰かがそれの代役に駆り出されるのだ。
「建物の中に入らなきゃ」
シンの事はともかくも、自分が王太子妃であることは揺るぎない事実だ。どんなに理不尽なプロポーズだったとしても、それを受け入れると決めたのだから。チェギョンは急いで帰り道を探すことにした。
 
きょろきょろと振り返ってみたけれど、壁のある建物は見当たらない。前を向いてみると、回廊の終わりが見えた。あの先がどうなっているのか知らないが、ここに立ったままでいるよりはいいだろう。
チェギョンは、そのまま進んだ。

 
「こんなところに、こんなものが」
彼女はためらいがちに見つけた建物に近づいた。
ギギギと古めかしい音を立てて、ドアが開いたのは幸運だった。もしここに鍵がかかっていたら、長い回廊を戻らなくてはならない。

「こんにちは」
誰もいないことは分かっていたが、無言で中に入るのはマナー違反のような気がして、チェギョンは挨拶をした。

そこは小さなサンルームだった。
有難いことに、壁に沿って腰かけられるようにベンチがしつらえてある。
「ここに座って中庭を見るってことね」
中庭と言っても、特に整備された庭園と言う訳でもなく、ただ原っぱが広がっているような空間だったが、チェギョンは何故かホッとした。

この大きな宮殿では、絶えず誰かの視線を感じる。実家の公爵家も使用人が居たが、この宮殿とは比較にならない。
自室でさえも、実際のところ誰かしらに見られているような落ち着かない気分。
多分それは、部屋の内側の扉で、夫の部屋と繋がっているからだろう。
あの扉の向こうに彼がいると思うと、シンのことを頭からも心からも追い出したいと願うのにできないのだ。


何もかもが、息苦しい。


自分で決めたことなのに、この先の長い人生をこうしてやり過ごしていくのかと思うとやりきれない。せめて、今ぐらいは心置きなく泣いてもいいでしょう?
チェギョンはベンチに座り、膝を抱えて頬をのせた。ぼやけた視界のまま、夕焼けに染まる窓の外を眺めた。



****




「早く探すんだ!」
チェギョンが部屋を出て行った後、すぐに追いかけなかった自分をシンは悔やんだ。彼女の気持ちが落ち着くまで、そっとしてやろと思ったことが裏目に出た。

いらいらと部屋の中を歩き回り、妻が見つかったとの報告を待ち続けている。

「僕が行く」
シンは側近たちが押しとどめるのを振り切り、部屋を出た。
「チェギョン様の姿が見えません」と真っ青な顔をした女官長の言葉に、シンは自分たちが住むこの翼棟を自らの目で、それこそ隅から隅まで確かめた。何十年も、いや、何百年も使われていないと思われる、埃と蜘蛛の巣だらけの食糧庫も中に入った。

そのあと、両親の住む国王夫妻の居住区と公式な場面で使う空間も全て歩き回り、チェギョンの姿を探したものの、あの美しい妻は魔法で消えてしまったかのようだ。

―――チェギョンが消える…?

ダメだ。そんなことは、このシン・セント・ジョージが許さない。

やつれ切っている王太子を側近たちが心配そうに見つめ、自分たちが探すからシンは休んでくれと言う。けれども今は自分など、どうでもいい。
妻を、チェギョンを見つけるのが先だ。この広い宮殿の敷地のどこかに、チェギョンはいるはずだ。
華奢な体が寒さに震えては、いないだろうか?
あの大きな瞳から、涙を流してはいないだろうか?
もしかして、大きなけがをして動けなくなってはいないだろうか?

「チェギョン」
彼女の傷ついた姿が浮かんできて、シンは走り出した。後ろから侍従や近衛兵たちが付いてきているのは分かっていたが、そんなことには構っていられない。

「殿下!お姿を見失いそうです。我々から離れないでください」
叫び声を無視して、彼は妻の名を呼びながら、走る速度を速めた。




****


「チェギョン、チェギョン…」
誰かが肩を揺すっている。
「チェギョン、風邪を引いてしまうよ」
優しく温かい息が頬にかかる。目を開けたいのに、瞼が重くて持ち上がらない。
「眠たいのかな?」
ふわりと温かいブランケットに包まれたようだ。チェギョンがふぅと安堵の息を漏らすと、満足そうな柔らかな視線が全身に浴びせられたような気がする。
ふわりと逞しい何かが自分の体を持ち上げ抱えてくれている。
頭を預けると、ほっとするような香りが漂い、彼女は身を寄せた。もっとこの香りに包まれたいと思ったから。





シンは、敷地の奥まったところに、昔の妃が作ったと言われている回廊と原っぱのような中庭があることを思い出した。
小さな頃、兄と二人で養育係の目を盗んで、迷い込んだ場所だ。兄はあれからすっかり忘れてしまったようだが、自分は時々そこへ出かけて行って、小さなサンルームで本を読んで過ごしている。

回廊を進み扉を開けた時、目に飛び込んできたのは妻がスヤスヤと眠る姿だった。ベンチの上で小さく丸まって頬に手を添えて眠る姿は、24歳の女性と言うよりは少女のようだった。

チェギョンはどんな人間なのだろう。

この1か月、傍で彼女を見てきたが、自分が考えていたよりも彼女は『自分』と言うものを持っている人間だった。慎ましやかで大人しそうな印象を人に与えるが、実は内に強い意志を隠している。きっと国民に人気の妃殿下になるだろう。

ヒョリンが華やかな外見とは裏腹に、人の目が少ないところではどこか冷たい態度をしていたことを思い出す。同じ姉妹とはいえ、チェギョンは全く違う。
きっと人が見ていようがそうでなかろうが、態度はいつも同じだ。
ヒョリンが次の王妃にならなかったのは、ある意味、この国にとって幸運だったのかもしれない。

自分の腕の中でぐっすり眠り込んでいる妻の顔を覗きこみ、シンは微笑んだ。

―――どうやら、僕はこの小さな妻の虜になってしまったようだ。




宮殿へ戻ると、皆がほっとした顔をしていた。
『王太子妃が行方知れずになったから』ではなく、『チェギョンが心配で』と顔に書いてある。シンは驚いた。たった1か月の間に妻は、宮殿内で慕われていたのだ。
とりたてて“明るく元気で”と言うわけでもない妻だが、誰にでも分け隔てなく接する姿勢と、思いやりのある性格が好かれているのかもしれない。


「本当にようございました。日が暮れてしまったら、一気に冷え込んできますからね」
女官長がシンの後を付いてきながら、何度も同じ言葉を繰り返している。
「パーマー夫人、どこまでついてくる気だ?」
自分の寝室のドアの前で、シンは女官長にいたずらそうに言った。
「もちろん、殿下が妃殿下を優しくベッドに寝かせるまで、ですわ」
「それは、ずいぶんな言われようだな。僕がチェギョンをぞんざいに扱うとでも?」
眉を上げて女官長を見ると、彼女はじっと探るような視線でシンを見つめ、それから大きく肩を上下させると、
「…分かりました。お邪魔虫、というわけですね。それでは、殿下を信じて下がることにしましょう」
「分かってくれて嬉しいよ」
「妃殿下の前でも、そんな風に素直なご自分をお見せください。いつも からかってばかりいらっしゃるから、妃殿下に殿下のお気持ちが伝わらないのですよ」
まったく世話が焼ける方だ、とこぼしながら、女官長は去って行った。


―――素直な自分?

シンは女官長のふっくらした体が長い廊下の角に消えるまで、立ちすくんでいた。

腕に抱えた重みは、他の誰のものでもない。そして、誰かに託そうなどと思わない。
自分だけだ。
チェギョンをこうして抱きしめ、慈しみ、守り抜くのは、このシン・セント・ジョージの“特権”だ。

大きなドアを肩で開けながら、シンは温かい室内に足を踏み入れた。巨大なベッドの真ん中に妻を横たえ、そっとシーツで包んでやると、チェギョンはもにゃもにゃと言葉にならない何を言いながら、幸せそうな笑みを浮かべる。

「…そんな笑顔、僕に見せてくれ、と願うのは贅沢か?」
チェギョンの横に寝ころびながら、肘をついて妻を見つめるシンの瞳は、どこまでも穏やかで優しかった。もしここに他の誰かが居て彼の顔を見たとしたら、「妻を愛する夫」だと断言しただろう。






豆のさやにくるまれているみたい。
チェギョンはもう少しこの快適な眠りに身を任せていたかった。ふかふかと柔らかく、そして温かい。

―――だれ?

「目が覚めた?」
チェギョンが薄茶色の目を大きく見開き、周りを見渡すとシンの声が聞こえてきた。

シーツをはねのけチェギョンが起き上がると、自分の寝ていたすぐとなりに、大きな体が横たわっている。
「で、殿下。あの、私…」
キョロキョロと落ち着かない様子で室内に視線を走らせている彼女を、シンはじっと見守っているのが分かった。妙に気恥ずかしい。

ふぅぅと大きなため息をつき、起き上がってきた夫の顔を一端見つめてから彼女は目を伏せた。
「私、あのサンルームで眠ってしまったのね」
「そうだ」
「言い訳がましいですけれど、わざと隠れていたわけではないのです。道に、迷ってしまって…」
「分ってる」
シンの手が、チェギョンのほっそりとした手を掴んだ。そのままゆっくりと彼は彼女を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。

「殿下…?」
「みんな、君のことを本心から心配していた」
シンの言葉に、チェギョンはチクリと胸が痛んだ。
「謝っておかなければ」
「君は、たった1か月でここで働く人たちの心を掴んでしまったようだな」
感心したような夫の口ぶりに、チェギョンは顔を上げた。
「それは、私が殿下の妻だからです。私が…私が、『王太子妃』だから…」
「違うな」
即座に否定されしまった。どういう意味だろうか。
シンのグリーンの目が優しく見つめて来て、チェギョンは居心地が悪くなった。なんだか自分でも気づいていない心の奥底を、彼に見透かされてしまう気がして。
夫はどうしたのだろう。いつも自分のことをからかってばかりいるのに、なんだかいつもと雰囲気が違う。

「みんな君が、『チェギョン・クライボーン』が好きなんだよ」
「え?」
「もし君が、王太子妃でなくとも、みんな君のことを本気で心配したさ」
大きな手が栗色の髪を滑っていく。

「それに、僕も、だ」