結婚して1か月がたち、様々な儀式もやっと落ち着いた。
初夏の日差しを浴びる木々を、チェギョンは王太子夫妻専用のリビングの大きな窓から、ぼんやりと見ていた。

「お疲れですか?」
ふいに声を掛けられて、チェギョンは振り返った。
背の低い、お世辞にも『痩せている』とは言えないふくよかな女性が、優しく微笑んでいる。
「…そうね。少し、疲れたかもしれないわ」
女官長のパーマー夫人は、
「それでは、お茶にいたしましょうか。少し予定の時間より早いですけれど」
部屋の隅に控えてい女官に目くばせをした。
「ありがとう」
チェギョンの言葉に、パーマー夫人は驚いたような表情を一瞬だけ見せた。その顔を見逃さなかったチェギョンは、
「…ごめんなさい。王太子妃がむやみに女官たちにお礼を言うべきではないと、言いたいのでしょう?でも、私、それはどうしても居心地が悪いのよ」
言い訳をした。ピンクのワンピース―――袖はパフスリーブになっていて、スクエアカットの襟ぐりから、可憐な鎖骨が見えている。ふわりと広がるスカートからは長い脚が見え、彼女の美しい膝を強調するかのようだ―――を翻し、チェギョンはスタスタと部屋を横切った。

彼女のたっての希望で結婚の際に新装された家具の中で、とりわけチェギョンが気に入っている若草色のソファに、腰を下ろした。

「実家のリンフォード公爵家は、みんながそうなの」
パーマー夫人が頷いた。その顔を見て、チェギョンは気が付いたように小さく口を開け、それから寂しげに微笑んだ。
「…そんなこと、ここに居る人はみんな知ってるわね。姉が、前の王太子妃だったんだもの」

姉のヒョリンは、10代の頃からユルと婚約をしていた。実家の母は、姉を将来の『妃』として扱い、同じ姉妹でもチェギョンとは扱いが微妙に違っていた。
そのことについて、チェギョンは不満があったわけではない。自分は『妃』など少しも興味がなかった。
むしろ、宮中のマナーや様々な知識を覚えなければならない姉のことを、気の毒に思っていたのだ。

チェギョンは顔を上げ、パーマー夫人に尋ねた。
「姉は、ヒョリンお姉さまは、どんな王太子妃だったのかしら」
この宮殿にもよく遊びに来たが、自分の前では『姉』であったヒョリンが、実際王太子妃としてどのような人物だったのか、チェギョンは初めて考えた。

ワゴンに載せられた運ばれたティーセットをソファの前のテーブルに並べながら、パーマー夫人は話し始めた。チェギョンとは視線を合わせず、作業に没頭している様子だ。夫人のその慣れた仕草の中に、何故だかある種の戸惑いがあることにチェギョンは気づいた。何か話しづらい事でも聞いてしまったのだろうか。

「大変目ざといお方でした」
王太子妃を表する言葉としては、やや不自然に感じる。

「そう…」
チェギョンはそれ以上追求しないように答えた。夫人が先を続けようかと悩んでいるように見えた。ふっと顔を上げたパーマー夫人の表情で、チェギョンは悟った。

姉は宮殿に仕える人々から、好意的な印象を与える努力と態度は見せなかったことを。
「仕えている人の失敗を許さなかったのね。…お姉さまらしいわ」
夫人が目を伏せたのが、その答えだろう。

 

思い出して見れば、結婚する前での姉は公爵家の使用人にねぎらいの言葉を掛けることはなかったように感じる。公爵である父や、次期公爵になる弟でさえも、使用人に気軽に声を掛けるざっくばらんな家庭で育った中で、姉は特別だった。
躾けに厳しかった両親だけれども、ヒョリンだけは気位がとても高い人間に育てていたようだった。


「ヒョリンお姉さまは、将来の妃として育てられたから、ちょっと特別だったの」

姉をかばうような言葉が口につく。パーマー夫人が頷いた。
内心チェギョンは姉の態度を妹として恥ずかしく思いながら、それでもそうなってしまったことは、ヒョリン本人だけのせいだとは言い切れないと感じていたから。
家族があんなにも姉に気を使っていなければ、もう少し親しみ易い人柄になっていたのではないだろうか。
ヒョリンとの想い出の中には、ごくまれに見せる姉の優しさだってあるのだから。
「それに比べて、私は、全然よ」

おどけたように笑うチェギョンに、
「わたくしどもは、チェギョン妃にお仕えしております。ですから、妃殿下が『こうだ』と思った通りになさって下さればいいのです」

夫人がにこやかに言った。
 
 
夫人はその言外にチェギョンへの信愛を込めたつもりだ。


新しい妃殿下は、前の妃殿下と姉妹だと言うのに、随分と性格も人あたりも違う。
ヒョリン妃は確かに『気品あふれる気位の高い』妃だった。しかし権高なところが多々あり、仕えする方としては、気の休まらない人でもあった。
女官たちのちょっとしたミスをけして見逃してはくれなかったばかりか、時に厳しい叱咤もあった。いつもびくびくとして妃殿下の顔色をうかがうような雰囲気が、ここにはあったのだ。

ところが、新しい妃殿下は違う。

春の日差しのような暖かさを身にまとい、慎ましやかな雰囲気の中に、時々、お転婆な少女のような姿を見せる。仕えている者たちには礼儀を持って接し、無理難題は言わない。むしろ、こちらに気を配りすぎ、ご自身が我慢をされているのではないだろかと心配になってしまうほどだ。

気が付けば、冬の寒さのような冷たい風が吹くこの宮殿が、柔らかな微笑みが溢れる場所へと変わってきている。
「前の妃殿下とチェギョン様が、実の姉妹だということが嘘みたいね」
静かに囁かれる噂話を夫人は聞かないふりをして聞いていた。自分自身も心の底でその言葉に納得してしまっていたからだ。
 
ヒョリン妃も王太子妃という将来が約束されていなかったのならば、チェギョン妃のような女性に育っていたのかもしれない。
 
―――お立場が人を育てると言うけれども…それが必ずしも良い結果を生むとは限らないということだわ。
 
パーマー夫人はチェギョン妃を見るたびにそう実感した。チェギョン妃の場合は王太子妃として育てられなかったことが逆に、『王太子妃』としてふさわしい人間になったということだ。運命の皮肉さを感じてしまう。
 

宮殿の雰囲気が変化したことは、仕えている人々だけではなく国王夫妻も感じているようだった。
「ずいぶんと優しい雰囲気になりましたね」と王妃が口にした。
チェギョン妃自身は、そのお言葉の本当の意味が分からなかったようだけれども、ここに仕える人々は心の中で大きく頷いはずだ。


そして、一番変わったのは、シン王子。

 

どこか人を寄せ付けない壁を作っていた王子が、チェギョン妃と一緒に居る時にふと見せるリラックスした表情に、女官長は気づいていた。
その一方で時々、チェギョン妃を警戒しているような態度を示すときもある。王子の心もまた、定まっていないのかもしれない。
 
―――わたしどもに出来ることは、お二人が仲良く幸せにしてくださること。
 
 
そのために自分たちはここに居るのだ。前王太子夫妻には抱くことができなかった、仕事へ対する義務感以上の何かを、女官長は感じている。




「ここに居たのか」
ドアが開くと同時に、シンが颯爽と部屋に入ってきた。
「着替えはなさらないの?」
乗馬服のままで居間に入ってきた夫に、チェギョンは怪訝な顔を見せた。乗馬服のままお茶を飲むなど、王太子として考えられないことだ。
「うん?その目は、僕のことを『マナー違反の王子』だと批判しているね」
「だとしたら、どうするつもりなのですか」

ツンと顎を上げた彼女を、彼は面白いものを見たように笑った。
あんなふうに屈託なく返されてしまうと、チェギョンは困ってしまった。もっと冷たくしてくれればいいのに、と思う。そうすれば、いとも簡単に彼を憎むことができたから。
 
―――私は『王太子妃』。それ以上でもそれ以下でもない存在。
 
心がとても固く縮こまっているような気がする。カラカラに乾燥して固まってしまった心。それでいいと思っていたはずなのに。
どうしてだか、シンと一緒に居ると乾燥してしまった心に水が与えられたような、見ないようにしている心に注目させれるような、気づまりな気持ちになってしまう。
「さて、どうしようかな」
きらりと輝くグリーンの瞳にチェギョンは捉えられないように視線を外そうとした。でも一瞬手遅れだった。見てしまったのだから。とても魅力的なシンの瞳を。
 



居間に踏み入れたとき、若草色のソファに座る妻は、まるで小さなピンクの花園のようだった。彼女が座っている箇所だけ光り輝いているように、シンの目に映った。

妻のこんな顔が見たくて、わざと着替えもせずに彼女の前に姿を見せようと思ったと知ったら、彼女はどう感じるだろう。怒るだろうか、それとも、呆れるだろうか。
多分、後者だ。

チェギョンはシンがする『型破りな』ことを、いつも一瞬驚き、それから呆れるのだから。

彼女のことを全部知りたい。いろいろな表情が見たい。

シンは自分の心の言葉に驚いた。どうしてチェギョンのことを“知りたい”だの“見たい”だの考えたのだろう。
それは、多分、そうだ。チェギョンが自分の妻だからだ。
夫たるもの妻を完全に把握してこそ、夫婦の正しい姿なのだ。そうだ、そうに決まっている。そうでなければならない。チェギョンはヒョリンの妹なのだから。

シンはソファに座る妻の元へ近寄った。背もたれを掴み彼の顔をエレナの耳元に近づけると
「このまま、その美味しそうなケーキを一緒に食べようと思ったけれど」
いたずらそうに言った。
チラリとチェギョンを見ると、彼女は首をひねって夫を見つめ探るような目をしている。
「君の気分を害しそうだから、着替えてからにしよう」

体を元に戻すとき、シンはほんの少し妻の肩に触れた。柔らかくカーブを描く小さな肩。その肩にキスしたらどんな気持ちになるだろうか。
 
そのことを考えた途端、脚の付け根に血が集まったような気がする。ここは早めに撤収したほうがいいだろう。チェギョンに欲情したことを彼女に悟られる前に。



 

シンが身を屈めてきた時に、馬の匂いと干し草の香りと彼が愛用しているコロンの香りにまじり汗の匂いがした。彼の匂いはベッドの中で嗅いでいる。そのせいですっかり慣れ親しんだものになっていることに、彼女は戸惑った。
そして最後に自分の肩に夫の手がかすめた時、チェギョンはさざ波のような衝撃を受けていた。

彼がほんの少し触れただけなのに。たったそれだけのことで彼は自分を翻弄してしまう危険な存在。

結婚式の夜から、どういったわけか自分たちは『ベッドを共に』している。
勿論その言葉の通りで、それ以上の関係にはなっていない。

朝、目覚める時に、すぐそばにある夫の体から彼の匂いがする。それは、自分たち女性とちがった種類の香りで、一度シンに尋ねたことがある。
「シャワーのソープは、殿下と私のは違うのですか」
「どうだろう…気にしたことはなかったな」
そう言って夫は、彼のバスルームからソープを持ってきてくれた。その香りを嗅ぐと、確かに夜ベッドに入るときに彼から香る匂いだ。
でも、朝、このソープの香りに混じって、もっと違う何かが―――顔を埋めて、自分だけがその香りを独占したいと感じる何かが―――シンからするのだ。

今、夫が自分の近くに顔を寄せてきた時、あの匂いが彼の自身の匂いだと気づいた。

―――どうかしている。彼の匂いを、もっと嗅ぎたいと思うなんて。

チェギョンは軽く首を振った。

シンといると、自分はいつもおかしな思考に迷い込んでしまう。
彼の些細なことが気になり、それを知りたいと感じてしまうのだから。

きっと、彼が夫だからだ。
妻は夫の全てを知らなければならない。
―――そうでなければ、彼のネクタイの色にアドバイスすることが出来ないでしょう?

「きっとそうなのよ」

チェギョンの小さな声に、パーマー夫人が眉を上げ、それから女官長は気づかないふりをした。