乗馬服を脱ぎシャワーを浴びてからシンはラフな洋服に着替え、妻の待つリビングへ向かった。
ピンクのワンピース姿の妻を思い出し、自分は水色のシャツと白いパンツを選んだ。二人で並んだら、春の野原のような爽やかさだろう。

どうして、こうもチェギョンに興味を抱くのか、自分でも分からない。
ただ、彼女の存在を無いものとして扱うことは不可能だ。彼女が自分の妻だからだと自分自身を納得さて見るものの、ここ最近はそれがどうもうまくいかない。もっと違う理由が存在するような気がして。





「そろそろ国民の前に二人そろって姿を見せる必要があるな」
シンはティーカップの端に口をつけた。カップの端からチェギョンを盗み見ると、相変わらずのポーカーフェイスだ。
妻はなかなかの“女優”だろう。

「チェギョン、どの仕事にしたい?君が選べばいい」
カップを机に戻しながらシンが聞くと、
「殿下の仰せの通りにしたします」
つれない返事が返ってきた。どこまでも優等生な妃を演じている。シンは反発心からくる悪戯心を抱いた。
「ふん、それじゃあ、チェギョンが好きそうなファッションショーでも観に行くか」
「え?」
意外な選択だったのだろう。チェギョンが驚いた顔をした。僅かだが、嬉しそうに目が輝いたようにも見えた。そのくせすぐにその表情を仮面の下に隠してしまうのだ。
それならば、もう少しからかってみようか。

シンは長い脚を組み直し、膝の上で手を組んだ。

「今度下着のショーがあるそうだ。どうだろう?新婚の僕たちには、ピッタリだと思わないか?」
「殿下っ」
チェギョンは真っ白な肌をピンク色に染めて、それでも咎めるような視線をシンに送ってきた。こんな表情を見せてくれるなら、悪戯を続けてもいいだろう。
「なかなか素敵なのがあるみたいだぞ。いいのがあったら、注文するといい。きっとメディアに恰好の話題を提供することになるな」

声を上げて笑うシンに彼女が非難の視線を向けてきた。澄ました顔以外を見せてくれるのなら、この際怒った顔でもいいだろう。
 



なんて失礼で破廉恥な人なんだろう。これで一国の王太子なのだから驚く。
彼のことを学者たちも政治家も声を揃えて「優秀な王太子だ」と褒め称えているけれど、素の彼はこんな人間。
誰かに大きな声で教えてあげたい気分だと、チェギョンは『王様の耳はロバの耳』と穴に向かって叫んだ少年の気持ちが手に取るほど分かった。


チェギョンは怒りをどうにか抑えようと、胸に手を置いて大きく深呼吸した。
そうでなければ、手に持ったティーカップの中身を盛大に夫にぶちまけてしまいそうだったから。それだというのに無遠慮な態度は続いていた。

 
「胸が痛いのか?僕が見てあげようか?」

彼女が気づいた時には、夫は猫のように音も立てず動き、はす向かいに座っていたはずなのに、彼女のすぐ隣に腰を下ろしていた。

「だ、大丈夫です」
僅かに身を反らせて答えているというのに、
「遠慮することはない。何しろ僕たちは世間に認められた“夫婦”なんだからね」
益々顔を寄せて来て、今にもチェギョンの黄色いワンピースの前ボタンを外しかねない。

 
「やめてっ」

ドンと夫を突き飛ばし反射的に立ち上がったチェギョンは、不規則に激しく動く心臓の音が、自分の耳の中で大きく反響していることを無視しようとした。

「で、殿下にはさぞかし楽しいお遊び、なのでしょうね。でも、私はそんな趣味はありません」
両手を体の横で握りしめ、彼女は叫んだ。
きっと部屋の外に居る女官たちにも自分の声が、聞こえただろう。そう思うと急に冷静になった。シンの挑発になど乗るのではなかった。そもそも彼とは一定の距離を置き、親しくならないようにしてたつもりなのに。今のこの感情的な自分の態度は、明らかに一線を越えている。
「…失礼します」
くるりと身を翻し、夫の返事も待たずに部屋を後にしようとした。


「チェギョン、悪かったよ」
大きな手が、チェギョンの折れそうなほど細い手首を掴んだ。けれども彼女は振り向かなかった。

 

シンのことを軽蔑しているはずなのに、どうしてだか、彼が握っている手首が熱い。それも、もっと触れてほしいと心が叫んでいるような気がする。
 

――――彼はきっと私の脈が速いことに気づくでしょうね。どうか、それは“怒りから”だと思ってくれたらいいのに。



少しだけからかうつもりが、思った以上に妻を怒らせてしまったようだ。
怒った時、少し吊り上がった眉と震える唇が魅力的だと感じたのは何故だろう。
あのわななきのような表情が、ベッドで自分に組み敷かれ満足している姿を彷彿させるからだろうか。

手首を掴む手で彼女を手繰り寄せながらシンは立ち上がり、チェギョンの肩を両手で掴んだ。妻は下を向いて夫と視線を合わせることを拒んでいる。

「チェギョン」
小さな顎を掴んで上げさせようとすると、彼女が僅かに首を振る。妻のそんな仕草を見なかったことにした彼は、今度はぐっと有無も言わせない強い態度で顔を上げさせ視線を合わせた。

「怒らせるつもりはなかったんだ」
「それにしては、ずいぶんなお言葉でしたわね」
冷たく平たい口調に、シンはたじろいだ。本当に怒らせてしまったようだ。からかいすぎた本当の理由を告げたほうがいいだろうか。
「君の…その美しい仮面を少しだけ外したかった」

「え?」
思いがけない言葉だったのだろう。彼女が言葉を失っていた。ポカンと口を小さく開けてシンを見つめてきた。
「君は僕の妻だ。……世の夫たちは妻の本当の姿を見たいと願うものではないかな」
薄茶色の瞳が、じっとシンを見つめる。
 
―――チェギョンはいつもこうだ。
 
慎ましやかな雰囲気をまとっているくせに、その瞳だけは本来の彼女を隠しきれていない。
きっと、自分の本音の言葉を待っているのだろう。うやむやに誤魔化したところで、彼女は納得しないと、シンは思った。
 



少し眩しそうにチェギョンを見たシンは、下ろしたままの彼女の髪をそっと撫でた。夫の思いがけない優しげな仕草に、チェギョンの胸は大きく高鳴った。今の今まで彼のことを最低な人だと思っていたのに、どうしてしまったのだろうか。
「…君は、いつも“完璧な妃”だ」
褒め言葉のくせに、どこか屈折したような口ぶりにチェギョンの顔が歪んだ。夫は自分を褒めてなどいない。むしろ批判してるのだ。

「ご不満みたいですね」
完璧な妃のどこが悪いというのか。誰だって、それを目指しているというのに。

チェギョンはツンと顎を上げた。夫であると同時にシンは王太子だ。チェギョンが所属している世界とその世界のマナーでは、王太子の彼に口ごたえをする事は“よろしくない態度”だろう。
彼女の目指す“完璧な妃”なら、こんな時だって目を伏せて黙っているのかもしれない。
 
 



妻の子憎たらしい態度に、シンは目を細めて満足そうに笑った。妻の髪の色が、いつの間にか当たり前になっている。かつて傍にいて欲しいと願ったひととは、明らかに違う色だ。

シンは、たった1か月ですっかり自分の中で根を下ろし始めている『チェギョン・クライボーン』という存在を、まじまじと見つめた。
「ああ、不満だ。確かに」
シンの言葉に、彼女の目が吊り上がってきた。

 
――――いい傾向だ。
 
もう少し妻の本当の姿を見てみたい。

「僕は君に完璧さを求めてはいない」

不思議そうに妻が少しだけ首を傾げた。その仕草がひどく無防備でシンは胸をつかれた。
 
―――これはルール違反だろう?
 
取り澄ました完璧な王太子妃という仮面の下に隠された、チェギョンという一人の人間がふっと顔を出した瞬間だった。
 
無意識だった。
 
シンは上を伸ばすと彼女を引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めた。小さく柔らかな妻は、たとえようもなく甘く優しい香りがした。