突然夫に抱きしめられ、チェギョンは息をのんだ。
でもシンの抱擁はとても温かく、そして大きかった。チェギョンの深く閉ざした心の中までシンの優しさが染み込んでくるようだ。どうしてだろうか。憎んでいると言ってもいいほどの相手なのに。
「泣かないで」
シンの大きな指がチェギョンの下瞼を撫でてきた。その指もとても温かい。
「チェギョン…」
夫に言われてチェギョンは自分が泣いていることに初めて気づいた。我に返った彼女は、彼の腕の中からするりと抜け出した。
「殿下、失礼します」
目を伏せたまま足早に部屋を横切り、急いでドアを開けた。
――――どうかしている。シン王子の腕の中で涙を流すなんて。
彼との結婚を決めたのは、こうすることが一番いいと思ったからだ。
自分の両親、国王夫妻、そして、国民の感情。
見えない真綿でゆっくりと締め付けられる様にチェギョンは包囲されてきた。
「どうしろと言うの?」
あの時自分にどんな選択肢があったというのだろう。だから、彼女はシンの事務的な求婚の言葉に、「はい」と答えたのだ。
今 思い出しても、ひどいプロポーズだった。
「僕たちは結婚しなければならないだろう」
世界中の女性たちがチェギョンのことを「シン王子の妻」という事で憧れを持って見つめているのを知っている。憧れの王子はいとも簡単に未来の妻を傷付けたというのに。
あの時、チェギョンは心に誓った。
例え、彼にこの体を捧げることになろうとも、決して心は捧げないと。
少しだけ妻の心に近づいたと思った刹那、彼女は腕の中から抜け出してしまった。
チェギョンはいつもそうだ。
近づいては離れ、二人の距離は平行線をたどっているように感じる。自分が少し近づくと、それと同じだけの距離、彼女が離れて行く。
この1か月間、自分は明らかに妻に興味を抱いている。1か月前がゼロだとしたら、シンは少なくとも30歩はチェギョンに近づいただろう。それだと言うのに、肝心の妻は30歩分、離れて行く。
「もうたくさんだ」
これまで自分は、ある程度の節度を保ちチェギョンに接してきた。
でも、もうそれはやめよう。何がいけないというのだ?自分とチェギョンは、世間に認められた―――それも世界中に―――夫婦なのだから。
妻の姿が消えて行ったドアを睨みつけながら、シンは呟いた。
****
「え?」
夕食の席に着こうと夫の腕に手を掛け、大きなテーブルに向かって歩いていたチェギョンの足がとまった。
「どうした?」
シンが何気なさを装い妻に声を掛けてきた。彼女がどこを見ているか、正確に分かっていながら。普段なら給仕をするために何人かの侍従が使えているはずだ。それなのに、妙に人が少ない。
そもそも今夜は始まりから普段と違った。大抵は、国王夫妻と共に食事をするというのに、今日に限って夫が「ふたりきりで」と言いだしたのだ。
それも、国王夫妻は宮殿に居るというのに。
「たまには、夫婦水入らずもいいだろう?」
それがどうした?と言わんばかりに平然と言われると、チェギョンはそれ以上何も言えなかった。
実際のところ、夫と二人きりの食事が苦手だ。あのグリーンの瞳が、ひどく心を乱すから。チェギョンの一挙一動を絶え間なく観察されているように感じる。
それでも、こうした夫の視線に馴れなければ、ここでこれから気が遠くなるほど長く続く生活に支障が出てくるだろう。チェギョンは自分を納得させ、
「はい」
と従順な妻らしく答えたのだ。
明らかに面白がっているシンの視線をまっすぐに見つめ返し、チェギョンは気丈にもツンと顎を上げて答えることにした。
「お仕事の話なら、もうしております。私と殿下に、仕事以外の共通項があるなど、知りません」
チェギョンのきつい言葉に、シンは顔をしかめた。
次男である自分は、生まれながらにして王太子だった兄を表立って抜かすことはできなかった。だから絶妙な個所で力を抜くように生きてきた。
常に『兄が一番であり、シンはそれに劣る』と周りに思わせるように。
そうやって自分の能力を抑えて生きてきたが、今はもうその必要がない。
だったら、実力を発揮してもいいだろう。
本当の自分は、ひどく利己的だ。その点では兄のユルに引けを取らない。
誰にも遠慮せず思うがままに振る舞ったところで、自分はこの国の王太子なのだ。
「料理をすべて、一度に出してくれ。それを出したら、給仕する必要はない」
シンの一声に彼女が喉の奥で小さな悲鳴を鳴らした。
「さあ、“有意義な”夕食にしよう」
全部の料理が広いテーブルに並べられ、大きな部屋にシンとチェギョンだけが取り残された。
「ええ」
哀れっぽい声が、彼女の口から出てしまった。ここに誰もいなくて良かったのかもしれない。王太子妃である自分が夫と二人きりの夕食にしり込みをしているなど、女官や侍従たちに知られずに済んだのだから。
夫が彼女の椅子を引く。おずおずと座った妻に、彼は満足そうに笑った。その嫌味な笑みさえも、とびきりのハンサムに見えるなんて苛立たしい限りだ。
会話の無い食事ほど苦痛なものはない。
チェギョンはただひたすら皿の上を見つめ咀嚼する行為に専念することにした。広く静かな部屋にナイフと皿の擦れる音が響く。
「美味しいかな?」
ワイングラスを手に持ったシンが、不意に口を開いた。
顔を上げて夫を見たチェギョンは、彼がこの“沈黙の夕食”をそれほど嫌がっていないことに気づいた。いや、それどころか、どこか楽しんでいるようにさえ見える。
「そうかな?それにしては、食が進んでないように見えるね」
クルリと彼が手首を回すと、真紅の薔薇のような液体が揺れる。余裕めいた彼の態度が癇に障った。だから彼女はグラスの柄を掴み、少々行儀悪くグイっとワインを飲みほした。
「チェギョン」
グラスの端を唇に触れさせる寸前で、シンは言った。
「今夜、僕たちは“本当の意味で”夫婦になるんだ」
「チェギョン、いいね」
「では寝室に下がって支度をいたします。失礼します」
「また、置いてきぼりか」
昼間に続いて二度も妻に出て行かれれた夫だと、シンは自嘲気味に笑った。
チェギョンの悲痛な表情を思い浮かべる。
妻にあんな顔をされるほど、自分は嫌われているのだろうか。自慢ではないが、人からはハンサムだと言われる。おまけに、これまでベッドを共にした女性たちからは、賞賛の言葉を嫌と言うほど言われてきたのだ。
その自分が、『妻』に拒絶の態度を示されるとはなんとも滑稽だ。
そうだ。このシン・セント・ジョージとベッドに入った暁には、チェギョンに二度とあんな表情をさせるものか。
シンはグラスにたっぷりと注がれたままのワインを、一気に喉に流し込んだ。