シンは走った。
良く磨かれ、ツルツルと滑る回廊も長い脚で一気に駆け抜ける。後ろからついてくる侍従長のハモンドに走りながら振り返り、
「ハモンド!歩いて付いて来い。お前が怪我したら、宮殿中が困るんだ」
一言叫ぶと、前を向いて一直線に走って行った。

10分前にチェギョンが階段でつまずき、足首をひねったと報告が入った。幸い骨折ではなく、しばらく足が腫れるだろうがそれが治まれば大丈夫だと医師の判断も添えられていたが、シンは報告を聞くなり部屋を飛び出した。

今日に限って広い敷地の端にある王室附属の美術館で仕事をしていたシンは、車をこちらに回すという侍従長の言葉を振り切り、宮殿へ向かった。
宮殿内の道はクネクネと曲がりくねり、速度を上げることも出来ない。苛々とするよりは、自分の脚で走った方がずっといい。
「だから、床をピカピカに磨かなくともよいと言ったんだ」
女官長が聞いたら眉を思い切り上げて抗議されそうだ。
ピント外れな文句を口にしながら、彼は一心に進む。妻があの薄茶色の魅力的な瞳を―――彼はそう思っているけれども、彼女の見解は違うらしい。いつも「平凡な瞳の色です。シンのグリーンとは違うわ」と素っ気なく言われてしまう。けれども、薄茶色と言っても、その辺にゴロゴロ転がっている平凡な薄茶色とは違う。チェギョンの瞳なのだ。唯一の薄茶色に決まっているのではないか。――――潤ませているのではないか思うと、彼のスピードはどんどん速くなっていった。
カーブするときには、あと数センチで肩が大きな柱に激突しそうだった。
 
 
 
 
 
 
「妃殿下、大丈夫ですか」
女官長の心配そうな声に、チェギョンは顔を上げて小さく頷いた。口では「大丈夫」と答えたいけれども、実際はズキズキと痛みが増してきた。
「起きてしまったことだもの。しかたのないことよ」
力なく答え足元を見つめていた。今夜は鎮痛剤を飲まないと眠れないかもしれない。
新しいパンプスを履いた時は、大理石の床を歩く時注意が必要だと言うことを分かっていたはずなのに、考え事をしていたせいで、うっかり注意が散漫になっていた。
 
バンっ
 
突然大きな音がした。
「チェギョンっ」
リビングのソファに座っていた彼女は、夫の声がすると同時に大きく開け放たれたドアに目を向けた。
「シン。走ってきたの?」
目をますます見ひらいて、チェギョンは夫を見つめた。ネクタイは外され、ジャケットのポケットに突っ込んだまま―――ー細長い生地の先がポケットから顔を出していることから考えると、彼は走りながらネクタイを取り無造作にポケットに突っ込んだのだろう。王太子とあろうものが、随分とマナー違反なことをしている―――、シャツのボタンは4つほど外され、小麦色の肌が見えている。なにより、薄らとかいた汗で、前髪が濡れクルンとカールしていた。


「チェギョン、大丈夫なのか?」
大股で部屋を横切ったシンは彼女の座るソファに近寄ってきた。そして床に膝をついた。こんな時に見とれるなんて自分はどうかしてるのかもしれない。けれどもとびきりハンサムな夫から目を反らすことができなかった。
彼は眉間にしわを寄せ、チェギョンの足元を見ている。

「可哀想に」
チェギョンのほっそりとした右足首は既にパンパンに腫れている。シンが触れたか触れないかぐらい軽く触れたのだろう、チクリとする痛みが響いた。
「痛いんだな」
顔をしかめてしまった。だから彼が心配そうに彼女の顔を覗き込んできた。
「床を磨きすぎだと僕は常々思っていたんだ」
「まあ…そんなことないと思うけど…」
「あんなにピカピカにする必要などないんだ」
 
ゴホン。控えめな抗議の音が部屋の隅からした。女官長が喉を鳴らしたのだろう。チェギョンは小さく笑った。けれどもシンは本気のようだ。
 
医師は、「骨折はしていないが、ねん挫としては重いほうだ」との診断をくだした。
「私がうっかりしてたの。あと3段あるのに、もう階段がないと勘違いして歩き出そうとしたから」
彼女は夫にそう告げた。
 
 
「手すりを持っていなかったのか?」
二人でいる時は、必ず自分がチェギョンの手を引きながら宮殿の中を歩いている。今日に限って妻と一緒に居なかった自分をシンは責めた。
彼の表情から、それを読み取ったらしい妻が
「シンのせいじゃないわ。私、着信があったような気がして、バッグの中を引っ掻き回しながら、階段を下りていたから」
眉を下げて、情けない顔をした。
妻の青ざめた顔を見上げ、シンは手を伸ばして柔らかな頬に触れた。
「君に連絡を取ろうとした“誰か”を恨んでしまいそうだ」

それにしても珍しいこともあるものだ。
普段のチェギョンは、王太子妃という他人の目が必ず光っていることもあり、着信には無関心だ。大抵は、夜、決まった時間に一日の着信やメッセージなどを確かめ、返信をしている。また公の王太子妃としての彼女に、王室関係の連絡が直接来ることなど皆無だ。
そんな彼女が慌てて、バッグに中をひっかきわしてまで確かめたかった“相手”。
シンはその知らない“誰か”に嫉妬した。

シンが無意識に見せた独占欲たっぷりの言葉に、チェギョンは頬を染めつつ、ばつの悪そうな顔をしている。
「そんなに大事な相手だったのか?」
束縛をするような夫にはなりたくないと且つて考えていた自分は、何もわかっていなかった。こんな可憐なチェギョンを妻としている自分は、彼女のまつわる全てに目を光らせていたい。
どうしても、妻の相手が知りたい。
彼女の口から相手の名前を聞きだすまでは、仕事などどうでもいい。


シンのグリーンの目が、真剣に見つめてくる。
どうしたらいいのだろうか。
その相手が“シン”だと正直に話してしまおうか?

今朝、自分が目覚めた時、夫は既に朝食を食べるために部屋を出て行った後だった。地方での仕事をした後、宮殿隣接の美術館での仕事をして、ここへ戻ってくるスケジュールだったからだ。

シンは兄であるユル前王太子の何倍も、積極的に仕事をこなしている。それは『王太子として国民に認められたい』と言うパフォーマンスではなく、むしろ、『自分が王太子でいいのか』と言う彼の迷いと謙虚さがそうさせていると、チェギョンは感じていた。

常に『王太子でいいのか』と自らに問いかけている夫は、目標点が高い。
もう十分到達していると思われても、彼自身の目標点自体がどんどん高くなり、そこに到達することなど、一生無理に思われた。

シンと言う人を知れば知るほど、チェギョンは自分が蟻地獄に落ちているような気がした。
二度と、彼の魅力から逃れられない“蟻地獄”。


「おはよう」の挨拶一つ交わすことなく出て行った夫の顔をどうしても見たかったチェギョンは、急いで朝の支度を整え、朝食の部屋へ向かった。
ところが、一足先に彼は出かけた後だったのだ。慌てて玄関ホールへ向かうと、車寄せから門へ向かって走り去る黒塗りの車の後姿が見えただけだった。

それから、一日中落ち着かない気分だった。

シンから『たった一言』でいいから、自分に連絡が欲しい。一向に鳴らない端末を見つめ、チェギョンは深いため息を何度もついた。

あの時もそうだった。
バッグの中で着信があったように感じたのだ。


「チェギョン、誰だったか聞いていいか?」
怒りを抑えた夫の声に、チェギョンはごくりと唾をのみ込んだ。

「それは…」
「それは?」
「そ、それは…」
喉がぎゅっと絞めつけられたような、ひどくのどがカラカラになったような、苦しい感覚。チェギョンは瞳を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
夫の様子だと、例え今うまく誤魔化せたとしても自分が納得するまで追い詰めてくるだろう。
「それは…シ、シンだと思ったの。じ、実際は母からだったけれど」
 
 

チェギョンの言葉が最初理解できなかった。
シンの思考はストップしてしまったようだ。瞬きさえ忘れ、ポカンと口を開けただらしない顔で、妻の顔を凝視していた。傍らにいるパーマー夫人はそんな王太子殿下の表情を見て、くすりと忍び笑いをしていた。

「チェギョン?」
「ご、誤解しないでほしいの。わ、私はべつに…そう!待ってたわけじゃないの。ただ…ほ、ほら。妻だから。あなたの妻だから!…気になって当たり前だと思う。け、今朝、顔も会わせずに、夫が家を出て行ったら、だ、誰だって、気になると思うでしょ」
シンは小さな妻の頭を胸に抱き寄せ、その甘い香りのする髪の香りを嗅ぎながら、幸せが胸いっぱいに広がるのを感じた。
チェギョンは“自分を、シンを”待っていたのだ。

「忙しかったんだ。それを理由にするのは、卑怯な夫だと君に責められても仕方ない」
チェギョンの隣に腰かけ、シンは薄茶色の瞳を覗きこんだ。
「僕のせいだ」
「違います」
チェギョンは瞬時にシンの言葉を否定した。
「シンのことと、私が階段を踏み外したのは関係ないの」
小さな手がシンのジャケットの襟を掴み、必死に言い訳する。そんな妻を優しく見下ろし、
「君は頑固者だな。どうして素直に『僕のせいだ』と言わないんだ?」
「だって、本当に違うんですもの」
彼は妻の頬を両手で挟んだ。

「『僕のせいだ』と言ってくれたら、足が治るまで四六時中一緒に居られる理由になるだろう?うん?」
彼が顔が近づけると、妻はやがて眼を閉じてキスを待ってくれた。パタンと小さな音がして、パーマー夫人が部屋を出て行った。あとは二人きりだ。シンは柔らかな唇に自分のそれを重ねると、ゆったりと甘い味を楽しむことにした。

充分にキスを堪能した後、ゆっくりと唇が離し、
「さあ、言ってくれ。『シンのせいだ』と」
妻の顔を見て囁くと、彼女はまだ困った顔をしてる。シンは微笑むと、
「そうか。でも君が何と言おうと、これは“僕のせい”だ。いいね?」
有無も言わせない断固とした態度で、言い切った。







****


宮殿の中ならともかく、まさか外で彼がこんな行動に出るとは、チェギョンは思いもよらなかった。

「あの…大丈夫よ。だから、下ろしてください、殿下」
チェギョンが真っ赤な顔をしてシンに懇願しても、夫はそんな願いなどはなから聞く耳を持たないようだ。多くの関係者がいると言うのに、シンは車から降りるチェギョンを抱き上げ、そのまま歩き出したのだから。
コンサート会場に現れた王太子夫妻を一目見ようと、多くの国民たちが集まっていたが、シンはいつもと同じ柔らかな微笑みを振りまきつつ、会場に入っていく。
その間彼女は夫の首に細い腕を巻き付け可憐な笑みを見せ、ときどき、チラチラと夫の顔を盗み見ていた。そんな妻の視線を感じると、きまってシンは優しく微笑み返してくれ、そのたびに国民の間から歓声が上がった。


「ご存じの通り、まだ妻の脚は完全じゃないのでね」
関係者が口を開く前に開き直ったように宣言するシン。王太子の彼にこう言われて、反論できる人がいるだろうか。

「それは重々承知しております。早く妃殿下の脚が治ることをお祈りしています」
関係者たちが口々に言うと、
「…早く治る必要はない」
シンの小さな声がチェギョンの耳に届いた。呆れたように夫を見ると、彼は本気でそう思っているようだ。

「僕たちは夫婦ですからね。妻が困っているときは、僕が助けるのが道理ですよ。本当なら、妻の感じている不自由さと痛みを、僕が丸ごと代わってやりたいぐらいです」

シンの言葉に彼女は心底驚いた。
「チェギョン?どうしたんだ?」
「な、何でもないです、殿下」
夫は本心からそう思っていてくれてるのだろうか。
『自分が身代わりになりたい』

本気でそう感じているのだろうか。

結婚する前、あれほど残酷なプロポーズをしたシンだけれども、あの時と彼の気持ちは変化しているの?
チェギョンはここが人前あることも忘れ、ただ、一心に夫の横顔を見つめ続けた。