最近のシン王太子は、機嫌がいいと誰もが気づいていた。
機嫌が良いと言う控えめな表現よりはむしろ、舞い上がっているといった少々大袈裟な表現でも構わないぐらいだろう。

実際、シンは浮かれていた。そう、どうしようもなく。
自分でもやや調子に乗りすぎだと分かっているものの、ついつい鼻歌が出てしまうのは止められなかった。側近である侍従長ハモンドはそんな自分を嬉しそうに見ているのだから、敢えてしかめ面を作ることもないだろうと、シンは自分に都合のよいように結論付けた。

その理由?

決まっている。
妻であるチェギョンと想いが通じ合ったのだから。

今やチェギョンは、シン・セント・ジョージの『妻』であると同時に『恋人』でもあるのだ。そしてそれは、これから先も変わる事のない事実なのだから。
チェギョンを愛していると自覚したときから、彼女に対して強い独占欲を感じた。いや、実際のところは、自覚する前からそうであったけれども、彼自身は気づいてない。周りから見るとそれは明らかな事で、パーマー夫人など「私の申した通りになりました」と得意げに言いふらしている。
チェギョンにとって自分は、『最初の男であり、最後の男である』という信じられない幸運にシンは恵まれた。

これが浮かれずにいられようか?


かくして、今日もまた、母である王妃に呼ばれて宮殿の中央に居る妻をソワソワと落ち着きなく待っているわけだ。
それも、チェギョンを待ち望んでいる自分の姿を偽ることもなく、隠すこともなく、王太子専用の翼棟の長い廊下を行ったり来たりして、―――時々、妻が歩いてくるであろう方向をじっと見つめ―――シンは無駄に時間をつぶしていた。

ハモンド侍従長は、時計を気にしつつも―――本日こなしてもらう予定の仕事は、全く進んでいない―――可憐な王太子妃がここへお戻りになれば、あっという間に王子が予定の仕事を終えるだろうと考え、余裕な顔つきで傍に控えていた。
そして概ねハモンドの予想は当たった。


と突然、王太子が長い脚を生かして大股で真っ直ぐ歩きだした。それも、大層な早足で。走りたくなる気持ちを必死に抑えているのが丸わかりだ。あんな不格好な“歩き方”をするならば、走った方が良いのではないだろうか。
何はともあれ、シンは彼の妻に夢中であり、それ以外の事は後回しになっている。
 
彼の視線の先には、ラベンダー色のワンピースを着た王太子妃が豆粒ほどの大きさで見えてきた。


「チェギョン!」
長い廊下の先に最愛の夫が手を挙げて自分の名前を叫んでいる。
彼女は頬を染め―――夫のやや過剰すぎる愛情表現は二人きりの時はともかく、そうでないときには気恥ずかしい―――それでも足の運びは素直に速くなった。
「チェギョン、遅かったな」
王妃のもとへ出かけてから1時間ほどしかたっていないというのに、シンときたら何日も会っていないかのように彼女をギュッと強く抱きしめた。
小さな彼女は、シンの首の下に頭がある。彼はもうすっかり馴染んだ妻の甘い香りを堪能してるのか、目を閉じて鼻の頭を妻の頭のてっぺんにつけた。
「ごめんなさい。お義母様にお聞きしたいことが合って、少し長くなってしまったの」
彼女の言った事は半分真実で、半分は夫を気遣っただけだ。
チェギョンが王妃にいくつか質問をしたのは事実だが、王妃の説明が必要以上に長かったのだから。そこまで細かく教えてもらわなくても、多分ことは足りたはず。
但しチェギョンは知らなかった。義理の母が息子のシンをからかうつもりで、わざと時間を引き延ばしていたことを。彼がイライラする姿を聞き及び、国王夫妻は楽しんでいるらしい。


「母上には僕からそれとなく忠告しておこう。チェギョンが分からないことは、“僕が”教えるからいい、と」
冗談で言ってるわけでもなく、シンは本気でそう言った。そうでなければ、彼の苛々した口調の説明がつかないではないか。
「そんな…。お義母さまは、丁寧に教えてくださっているのよ。―――私、お姉さまみたいに出来のいい王太子妃じゃないから…」
チェギョンはポツンと答えた。

「チェギョン?」
シンが妻の小さな顔を覗きこもうとした時、彼女が顔を上げ夫を見つめた。それだけでシンの思考は切れ、彼の全身が妻だけになった。
薄茶色の瞳だけをしばらく無言で見つめていた。

「―――疲れただろう?少し休憩してから、仕事しよう」
1時間ばかり王妃と打ち合わせをしたところで、大して疲れもしないと思われるが、チェギョンは夫の提案を受け入れた。
どうやら、妻のほうも夫に骨抜きのようだ。

チェギョンのほっそりとした手を握り、シンは二人の執務室へ向かった。
彼女の先ほどの言葉の中に何か引っかかるものを感じたような気がしたが、それは自分の気のせいだったのだろうか。なんとなく、小さな棘が刺さったような落ち着かない気分のまま、シンは長い廊下を歩いた。



****




文学に携わるとある学会の表彰式に出席したチェギョンは、王太子妃としての務めを果たし内心ほっとしていた。一人での公務は随分慣れてきたとはいえ、隣に頼もしい夫の姿がないと、なんとなく気もそぞろになってしまう。
そんな若い王太子妃を皆、微笑ましく感じていた。
なにしろ、あのシン王子が片時も離さないほど寵愛している妃なのだ。

シン王子と言えば、次男であることもあり、自由奔放な生活を謳歌していた。
さすがに、王室の一員であることを忘れたりはしない彼だったが、それでも彼と噂された女性は、一人や二人ではない。

一体どんな女性が王子の妃になるのかと、王室の人間も国民も内心戦々恐々としていたのだが、そんな心配も過去のものだ。
上品で可憐な笑顔を振りまくチェギョン妃がそろそろ退出する時間になったころ、ざわざわとしたざわめきが起こった。
「チェギョン。迎えに来たよ」
颯爽とシン王子が現れた。
他の視察先へでかけていたはずのシンは、ピンストライプの濃紺のスーツ姿で、妻以外は目に入らないとばかりの勢いでチェギョン妃に近づき、
「楽しめたかな?」
細い腰を抱き寄せ、彼女の額にキスをした。
「シ、シン」
真っ赤になった彼女がシンを睨むと、彼はそんな彼女の姿さえ愛しくて仕方ないとばかりに目を細めた。


「僕の妃はどうだったかな。チェギョンのことだ、何も心配するようなことはなかったと断言できるけどね」
周りの人に声を掛けた。
ベージュのIラインのノースリブワンピースの妻の腕をそっと撫で、妻を優しく見つめる。夫の熱い視線にチェギョンは絡めとられたかのように瞬きも忘れ、グリーンの目を見つめていた。


 
見つめあう王太子夫妻にフラシュが容赦なく降り注ぐ。早速見つめ合う王太子夫妻の姿は配信されるだろう。世の夫たちは妻にあんなふうに憧れと信頼の目で見つめられたいと願い、世の妻たちはあんなふうに守られていたいと感じるはずだ。
ここのところ連日、愛し合う二人の様子が配信され、にわかに「2世誕生はまだか」との声が高まっていた。


「ヒョリン前王太子妃殿下に負けず劣らず、文学に理解があり感心しましたよ」
関係者の一人が王太子に満更おべっかいでもなく声を掛けると、チェギョンがその言葉に反応した。
「そ、そんなことはありません。前王太子妃の足元にも及びません」
控えめながらきっぱりと言い切った。


何かと前王太子妃であった姉と比較されているが、最近は自分を高く評価する声が大きくなってきた。そのことがチェギョンを苦しめていた。
姉のヒョリンはいくつかの短所はあったらしいが、それでも、自分と比較したらずっと『出来た妃』であったことは間違いない。
何しろ、ごく幼い少女の時から『未来の王妃』となるために生きていたのだ。

気品も優雅さも、姉のようには一生なれないだろう。
自分のことを褒める言葉も裏には、『期待していなかったわりには』という含みあるのではないか。
そんな自分に心からの愛情を注いでくれるシンに申し訳ない。
彼も姉ヒョリンのような『パーフェクトな妃』を求めているのではないか。

チェギョンの物思いは日々深く大きくなっていた。


「いえいえ、チェギョン妃も素晴らしいですよ」
彼女のそんな思いなど知らぬ白髪の男性学者は、にこやかに口を開き、他の学者や関係者に同意を求めるようにぐるりと見渡した。
「その通りですよ」
口々にチェギョンを褒める声が上がり彼女はいたたまれなかったが、シンの方は機嫌がいい。

「僕の妻が一番好きな場所は、本がたくさんある場所ですからね。僕とのベッドよりも」
シンのくだけた言葉に皆が笑った。彼女だけがその言葉に微笑むことができなかった。誰からも認められる王太子妃になりたい。






「緊張した?」
帰りの車の中で、何時になく静かな妻にシンが心配そうに声を掛けた。
大人しい印象が強い彼女だけれども、実際はすこしばかり人見知りなだけで、けして無口なわけではない。仕事の帰り道では大抵その時の感想を彼に熱心に話す妻が、今日はほとんど口を開かない。
「本当は僕も一緒に行けたらよかったんだけどね。僕もどんな内容だったか知りたくて、資料を読んだよ」
水を差し向けてみたが、妻はうっすらと微笑むだけで何も言わない。
「チェギョンは、どうだった?」
自分の膝の上にある彼女の小さな手を握りしめ、その目を覗きこんだ。

「シン…私、お姉さまに近づけるように努力するわ」
「チェギョン?」
シンが妻の言葉の意図を測りかねていると、
「宮殿に帰ったら、一緒にお昼寝しない?」
チェギョンが恥ずかしそうに上目づかいで夫を見上げた。

ドキンと高鳴る心臓。

―――チェギョンに誘われているのか?

シンの瞳が深いグリーンになる。
「…そうだね。是非、そうしよう」
チェギョンの耳元で囁き、熱い吐息を吹きかける。彼女がびくっと体を震わせ、目を閉じるさまを満足そうに見つめながら。