◆ 「大神神社史」より 
~5【神体山信仰の考古学的背景 4】






大神神社の「春の大祭」に参列予定でした。


ところが体調不良で断念。



翌日の誕生日御祈祷のみと相成りました。


例年は誕生日の一日前に

「春の大祭」参列と誕生日御祈祷を兼ねていたのですが。



代わりに久しぶりに山ノ神遺跡を拝し

「三輪山信仰」に太古の思いを馳せました。



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■過去記事
~1 … 【序】

~2 … 神体山信仰の考古学的背景 1
~3 … 神体山信仰の考古学的背景 2
~4 … 神体山信仰の考古学的背景 3

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第一章 神体山信仰の考古学的背景
(執筆/樋口清之氏)


 神体山を中心とする磐座類

「三輪山信仰」についての考古学的資料は、「祭祀」遺物に続き、「磐座類」があります。



◎「三輪山」麓の「磐座類」

ここで言う「磐座類」とは、磐座、磐境(いわさか)、磐群などをも含むもの。つまり人為構築の磐座や磐境に限らず、自然石を崇拝するものも含めています。

「三輪山」はこの「磐座類」が顕著に認められる史跡の一つ。先ず事例を挙げています(本書通りに表記します)

①金屋、磯城県主神社内霊石(五個、立位と伏位)
②薬師堂、祇園社内霊石(二個、伏位)
大神神社磐座神社霊石(一個、立位)
⑤馬場、若宮社霊石(一個、立位)
⑥芝、九日社霊石(二個、立位)

いずれも発掘調査はできないので、祭祀遺物の有無は不明。しかし神霊憑依の対象として崇拝されていたのは事実であると。

③④は古代のまま存在するが、他は社殿の造営などでその位置が動かされている可能性はあると。


志貴御縣坐神社(磯城県主神社)の神籬。ご本殿背後に御神体らしき磐、ご本殿脇にも磐座らしきもの有り。


素戔嗚神社の磐座(薬師堂の磐座を)


大神神社末社 磐座神社


大神神社摂社 大直禰子神社(若宮社)の「食饌石」。他に境内の御誕生所社の御神体も磐座。





他にも磐座類がいくつか存在します。特に国津神社(九日社)まで範囲を広げるのならなおさら。

末社 貴船神社の磐座、摂社 檜原神社の御神体の磐座、神宮寺である平等寺境内の磐座…その他。


大神神社の神宮寺 平等寺境内の磐座




当ブログでもかなり昔に記事にしました。




◎「三輪山」山中の「磐座類」

神体山内には「三磐座」(奥津磐座・中津磐座・辺津磐座)があると言われています。

この「三磐座」がどれを指すのかは、正確には不明。高宮神社の案内パンフは以下のようにあります。ここでは「中津磐座」「奥津磐座」が示されています。





夫婦石磐座神社の岩質は「斑糲岩」。これは「三輪山」が生成される際に残ったという硬質の花崗岩の中に存在した「斑糲岩」(→ 詳細は第2回目の記事にて)。


この2社の磐座類が「斑糲岩」であることから、

樋口清之氏は「三磐座」も「斑糲岩」であろうと推測。そしてすべて「石群」であろうとしています。


高宮神社が示す「三磐座」のうち「奥津磐座」「中津磐座」は「石群」に該当。


「奥津磐座」は樋口清之氏が示すものと、高宮神社が示すものと、合致していると思われます。


「中津磐座」は樋口清之氏が標高300~400mの間の中腹「石群」としており、高宮神社が示すものも私自身が登拝し確認した経験から、おそらく合致していると思われます。ただし氏はそれが1ヶ所とはしていません。


「辺津磐座」は高宮神社の表記は無し。


樋口清之氏は既に記したように、学生時代に「三輪山」に潜入し磐座等の調査を独自で行い、学界に発表したという経緯を持ちます。史上唯一、山中「磐座類」を調査した人物とされます。


━━中津、辺津は円錐形の山腹を半円形に取り巻いて点々と存在する石群なので、元来この三磐はいずれも複数の磐座群を指す一般名であって、単独でそのように呼ばれる特定の磐座は存在しないのではなかろうかと思うに至った━━


このように結論付けています。もちろん「奥津磐座」は1ヶ所しか存在しませんが。


現在、許可されている「三輪山」山頂までの登拝道は一本道。禁足地内には多くの石群が存在するようです。



狹井坐大神荒魂神社境内からの「三輪山」登拝道入り口。





今回はここまで。

次回は樋口清之氏が学生時代に実際に調査を行った、「オーカミ谷」等を。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。