◆ 「大神神社史」より 
~2【神体山信仰の考古学的背景 1】






昨年末より始めたこの企画物記事。

前回の記事では本書を購入した経緯や、概要、そして当時の宮司であった中山和敬氏の挨拶記事を掲げるところまでで終えました。

今回より第一章へと進んでいきます。



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第一章 神体山信仰の考古学的背景
(執筆/樋口清之氏)


■ はじめに

本書は多くの研究者たちの執筆により、多角的な視点から構成された書ですが…
トップバッターはこの方を差し置いて務められないでしょう。故 樋口清之氏。

大神神社のお膝元、奈良県桜井市出身の日本考古学の大家。大神神社を始め、登呂遺跡等、全国400箇所の発掘調査に携わったとのこと。著者も300冊以上。考古学界のスーパーレジェンドです。



◎樋口清之氏の「三輪山」

氏は中学生時代に「三輪山」に入り、発掘調査と称して「禁足地」に出入りしていたそうな…。
さすがレジェンドは違う(笑)

そんな氏が「三輪山」をどう形容するのか。本題とは異なるものの、これもまた一興。

━━国のまほろば、奈良平野の東南隅に、とこしなえに神さびて立つ「三輪山」の威厳は、原始古代以来、大和に生を享け、ここに育った人々には、まさに神秘に満ちた、人智の理解を越えた霊山として仰がれたであろうことは、想像に難くない━━

そうなのです。
標高はたかだか467m、決して高くはないのに常に「三輪山」を意識して生活しています。
奈良平野(大和盆地)南部は常に、「三輪山」に坐す大神に守られながら…という意識が強く、特に年配者になればなるほど、とかく「三輪の神さんが…」と常々、事あるごとに。

━━それは、古代日本の象徴大和の、さらにその大和の象徴として、「三輪山を、しかも隠すか、雲だにも」と額田女王が詠じたような感慨で仰がれた、と同時に、蒼生の生きつづける命のもとたる稲を育てる水田の必須条件としての水、その水を生む雲の出で来る八雲立つ神の山としても仰がれたと思われる━━

大和盆地では、毎日「三輪山」方面から朝日が昇るのです。多くの料理人は口を揃えて言います。「三輪山の御神水」で料理を作ると美味しくなる。グルメライターの仕事をしていた時、本当にそうなのか料理人と共に試してみたこともあったな…。
大和は古代から深刻な水不足に悩まされ続けました。当然のことながら「三輪山」に坐す大神に対しての「雨乞い」が、もっとも多かったのではないかと思われます。

━━この三輪山は、大和にも数ある神奈備の中でも、ことさらに重い意味を持つ神奈備であり、神の御室であった。それは形と大きさの故のみではなく奈良平野の古代文化が、先ずこの地に根を下し、山麓一帯を中心に原始日本の組織ができたところであり、かつ初瀬川(三輪山、大和川本流)を軸として農耕文化の花が咲いたところであった、という歴史的必然性からも起こったと考えるべきだ。そうだから、三輪川自体が「神の帯ばせる川」であり、飛鳥古京以前からの禊の川、生産の川として重視せられていた━━

ん…冒頭からの引用が止まらない…
ここまでまるまる全文載っけてるし(笑)

一旦はここまでで区切ります。そして以下は割愛します。


「三輪山」全景。手前の中央やや右にあるのが箸墓古墳



◎神体山三輪山

浪漫あふれる文調から、一気に小難しい学術的な内容となります。

「山容の成立」と神霊憑依の表徴「磐座を成す基岩」とについて。

*標高467.1m
*美しい円錐形
*奈良平野の東を限る「笠置山脈」の南端に位置する浸蝕残丘
*岩石は「角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)

「浸蝕残丘」とは、河川などにより地表の岩石や土壌を削り取られていく中で、孤立して残った丘のこと。周囲よりも硬いためにそこだけが残ったもの。

樋口清之氏の記述は難しく、Wiki等の複数サイトより調べました。

樋口清之氏は以下のように述べています。
━━三輪山は頂上を中心として表面に極めて堅硬な角閃斑糲岩が露出しているので、浸蝕はこれを頂点に円錐形に進んだので、火山状の山容を呈するようになった━━

なるほど!
そういうことでしたか!
これは使えるかも。知ったかぶりできるかも。

その「極めて堅硬な角閃斑糲岩」の構成岩石である「粗粒閃雲花崗岩(そりゅうせんうんかこうがん)」は、風化しやすく、風化して淡褐色の「雲母」を多く含む土壌となって、山麓丘陵または扇状地を構成するとのこと。

この三輪山麓の花崗岩風化土壌の上が、縄文土器文化以来、今日までの人文発達の基盤であったとしています。

平らに薄く容易に剥がすことができるという「雲母」。別名「きらら」。*画像はWikiより

「三輪山」の西側、北の檜原神社辺りから南の近鉄「大和朝倉駅」辺りまで、「扇状地」になっているのがよく分かります。


一方で「角閃斑糲岩」は、風化して表面は酸化鉄に覆われて黒灰色、または暗緑灰色を呈し、粗雑でしかも堅硬、比重も重いと。

これが風化の進展に伴い、角礫状(角ばって壊れた破片の状態)に破砕しやすく、多角柱状、多角塊状の巨石となって…
これが「三輪山信仰」の表徴である磐座、磐群、磐境の用材になっているとしています。

おそらく黒色で堅く、しかも重い石を神聖視する発想が存在したからであろうと。

特に「奥津磐座」(山頂の多量の岩が集積した磐座群)などは、まさにこの通りのもの(撮影不可)。
そういえば…「鍋倉溪」がそっくりこのような状態。


[大和国山邊郡] 「鍋倉溪」



さらに「角閃斑糲岩」中に含まれるチタン鉄鉱や磁鉄鉱の結晶体が、他の母岩の風化の中で独り残って黒色の粒状となり、山麓土壌中に散在し…

ときには流水に流されて、比重の重さから1ヶ所に集結して砂鉄状になって発見される…と。これを集めて「珪砂」と熔解すると、製鉄が可能であると述べています。

「珪砂」は「纏向川」「初瀬川」に堆積しているので採集は容易であると。

これが「三輪山」麓で行われていた製鉄の実態のようです。

*「巻向川」の源流は、「三輪山」に接する「巻向山」であり、穴師坐兵主神社が鎮座する「穴師」。製鉄神である兵主神が祀られる製鉄地帯。
*「三輪山」を源流とし、西へ流れる「狭井川」上流には、神武天皇皇后の姫蹈鞴五十鈴媛命の居住地。神名には「踏鞴(たたら)」を含む。
*「三輪山」南西麓の「初瀬川」との間の地は「金屋」であり、製鉄が行われていたことが窺える。




今回はここまで。

個人的な成果としては…

「奥津磐座」(「三輪山」山頂の磐座群)の形成過程が分かったこと(もちろん人為の介在は不明であるが)。

「三輪山」の黎明期の信仰発生の一端が分かったこと。

わずかながらも収穫はあったかと思います。ボチボチと進めていきます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。