◆ 「大神神社史」より
~3【神体山信仰の考古学的背景 2】
子供の頃、初詣は氏神の宗我坐宗我都比古神社でした。
まだ当時は今のように「初詣」という習慣はさほどなく、特に祖父母にとっては「そんなけったいなもん(変わったこと)知らん!」だったので、
「初詣」は数年に一度のこと。
次に1/15日の「小正月」に大神神社の「とんど」に参列というのが慣わしでした。
関西ではこの日までが「松の内」であり、「鏡開き」もこの日というところが多いと思います。本来はそうだったと思います。
関東では徳川幕府があまりに正月が長いと、「鏡開き」を早めたようですが。
当時は大神神社も今ほども参列者は多くはなく、旧年中の墨書したものを「とんど」に投げ入れ、お餅を焼いたものです。
今よりもっと身近な「お宮さん」といった感じでした。
その後、例え何百回参拝しようとも、だんだんと大物主櫛甕玉大神との距離は離れていくばかり。
あまりに畏れ多くて、参拝するたびに一歩二歩と下がっているように思います(笑)
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■過去記事
~1 … 【序】
~2 … 神体山信仰の考古学的背景 1
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第一章 神体山信仰の考古学的背景
(執筆/樋口清之氏)
■ 三輪山信仰発生の必然性
まだまだ信仰の起こり以前のお話となります。しかもさらに遡った時代のお話。面白いところはまだまだ先のようです。
◎人類発生以前の地史
新第三紀中新世(2300万年前~500万年前)には、瀬戸内海が伊勢湾から奈良平野(後の奈良盆地)、神戸、岡山、津山を経て古日本海に渡っていたとのこと。これを「第一瀬戸内海」と呼び、その祖形であると。
次いで鮮新世(500万年前~258万年前)になると、第二瀬戸内海が誕生。次第に現代に近い形に成りつつあったようです。
そして最新世(258万8000年前~現在)になると、第二瀬戸内海は後退。
「三輪山」及び山麓の地形は現在とほぼ同じに。奈良盆地底には各地に小水域が消長して、「朝和礫層」はそのときの淡水湖の存在を証明するものとして残った…と記しています。
「朝和礫層」については、ざっとネット情報をリサーチするも見当たらず、よく分かりません。「朝和」地区というのは大和神社周辺の地域。その辺りに淡水湖が残ったということなのでしょう。大和神社は原始は今より東方または南東の、もう少し標高の高い所に鎮座していたとされています。
◎先土器文化時代の人文活動
先土器文化時代とは、土器文化を伴う縄文時代や弥生時代よりその前の時代、つまり旧石器時代に分類される時代のこと。奈良県内でも多くの遺跡が発見されています。
本書ではまだ奈良県内の旧石器時代遺跡が確定していなかったようですが、既に「二上山」北麓で産出された「サヌカイト」の交流が盛んであったようで、多くの遺跡が発見されています。そもそも執筆者の樋口清之氏は、田尻遺跡などの発掘にも携わられました。
「二上山産サヌカイト」は近畿一円からさらに延長した地域にまで交流しています。また県内の人文活動の形跡も、例えば3万年前の法華寺南遺跡や、2万5千年前の勢野地区の遺跡が発見されるなどしています。
現在、桜井市に絞って言えば、旧石器時代の遺物は出土していますが(本書編纂時にはまだ発見されていなかった)、遺構を伴う遺跡は発見されていません。
「二上山」の「サヌカイト」採掘の様子(二上山博物館より)
◎縄文以降の様子
現在、縄文時代の始まりは1万6000年 ± 850年前とされています。本書の編纂当時は約1万年前とされていました。それを踏まえて…
その頃の大和は、奈良盆地西方は淡水の沼沢地でした。地下から草炭が発見されるようです。当時はその草炭地域を避けるように、その湖沼を囲むように発達したと考えられると。
香芝市の「磯壁」「下田」といった辺りが、縄文草創期からの遺跡とされ、盆地内の先進地帯だったようです。これが「奈良盆地西方」に該当するのだろうと思います。
◎瀬戸内海から淡水湖へ
かつて奈良盆地が瀬戸内海と繋がっていたとは先に記しました。当時は湾口を北、つまり京都方面に向けていたようです。
ところが次第に大和の北端、奈良山(平城山)に土壌が堆積。遂に湾口が埋まり孤立します。徐々に淡水湖へと変わったようです。そして比較的地盤の弱い「二上山」麓を破って西へと、つまり大阪方面へと流れ出したとのこと。これが「大和川」だそうです。
これによって盆地湖(大和湖)の水位は低下。今の海抜60m線辺りに、縄文文化前期の人たちが東の大和山中や宇陀高原、南の吉野地方から湖岸に下ってきて生活を始めたらしいと。
次第に湖面が下がり海抜55m、50mになると、湖底にあった扇状地や湖底の高い部分が水面上に姿を現し、その上に後期縄文文化から弥生文化の人々が住み始めたらしいとしています。
そのために奈良盆地内の前・中期弥生遺跡や、古式前方後円墳まではすべてこの50m線より高いところに残されているとしています。
なお古墳時代の終わり、6世紀頃には海抜40m付近、それ以下になるのは8世紀まで下るとのこと。8世紀になっても40m以下の場所は湿潤で耕作に堪えないところもあったとか。
◎情報の活用
さて…
この情報をどこまで活用できるのか。
本書の発行は昭和五十年のこと。今からおよそ50年も前のこと。樋口清之氏は当時の最先端で最大の情報等を有していたのでしょうが、以降のめざましい考古学成果により大幅に塗り替えられているのでしょう。
一つ一つ遺跡を追ってみたり、地形を推測するのは大変なので、代わりにこちらのサイトを。
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纏向遺跡 祭祀土坑群出土の土偶や石棒、擦り石東新堂遺跡の縄文土器など
(「桜井市立埋蔵文化財センター」展示物より)
◎奈良盆地最初の村落の人々の「三輪山」信仰
本書が発行された当時、盆地内では三輪付近の遺跡しか発見されていなかったようです。それが海抜55m線付近で、「太田」「大福」などの中後期弥生文化農村の雄大な遺跡を残す元となった…としています。
━━要するに、三輪山信仰は、奈良盆地最初の村落の人々によって始められる可能性があり、次いで農耕社会に入って、いよいよ農耕神としてその信仰内容が定って行く必然性があった━━
現在、盆地内の最古の遺跡は香芝市の磯壁遺跡や下田東遺跡になるのでしょうか。盆地の南西部。障害物さえ無ければ「三輪山」は遥拝できます。
この障害物について。
とある研究者が古代は樹叢に覆われていて視界は限られていたであろうという話を聞いたことがあります。
その人が言うには例えば、遅くとも弥生時代には「日祀り」の聖地とされていた多坐弥志理都比古神社。縄文草創期からの複合遺跡。
こちらは「三輪山」と「二上山」の谷間を結んだ線上にあり、少なくとも大和ではこの社から見て「三輪山」山頂から日が昇れば「春分の日」であり、「春の耕作」の合図になったと考えています。つまり「祈年祭」の契機となる社。「二上山」の谷間はその逆、谷間に日が沈めば「秋分の日」であり、「秋の収穫」の合図に。
これらが樹叢に覆われていて、この社から「三輪山」も「二上山」も見えなかったであろうというのです。
これに対して私は反対のことを考えているのです。葦などの低草は繁茂していたでしょうが、視界を遮るような高木はほとんどなかったのではないか。少なくとも稲作が始まった弥生時代なら、視界を遮るような高木は祭祀のために伐ったであろうと考えています。
もしそうだとするなら、少なくとも弥生時代以降は盆地の南半分からは、どこであろうと「三輪山」「二上山」を見渡すことができたと考えます。
「二上山」の谷間に日が沈む瞬間。
◎「三輪山信仰」の発展
このことについては、これからどんどんと記されていく内容。ですからここではその触りだけが述べられています。
━━奈良盆地東側山麓の谷口扇状地上に、平野部と山間部との交易市場がひらかれると、それを南北につなぐ山の辺の道が発達し、その南端に、この道と陸内港との拠点、海石榴市を発達させ、これが神体山の門前的性格を持つようになって行く必然性が考えられるのである。そして、その門前的市場集落が、物資交易の地として発達するに従って、神体山の神はまた商業神としての神格を確立することにもなって行ったと言って良い━━
かつて遣唐答礼使は難波から「大和川」を遡上し、この三輪の「海石榴市」まで舟出で送られてきていたと伝わります。現在からは想像もつかないほどの水量があったようです。
この「初瀬川(泊瀬川)」の畔に「海石榴市」が開かれました。
「海石榴市」からの「山の辺の道」
今回はここまで。
未だ「三輪山」信仰のぼんやりとした黎明期の辺りですが、次回より一気にどっぷりと足を突っ込む格好となります。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。