神功皇后:海を越える巫女王

第14話|豊浦の如意珠、凪の約束

 
【あらすじ】

豊浦津に到着した帯姫は、天皇とすぐには会えぬまま、不吉な予感に心を揺らしていた。
海に潜って得た不思議な珠は、「今すぐではない」というわずかな猶予だけを彼女に伝える。
やがて再会を果たす二人――穏やかなひとときの裏で、避けられぬ運命が静かに近づいていた。

――――――

【本文】

足仲彦天皇より、ひと月あまり遅れた七月五日。息長帯姫は、ようやく豊浦津へと至りました。

しかし、天皇はすでにこの港を発ち、さらに先へと進まれているとのこと。すぐに合流することは叶わず、一行はやむなく豊浦津に逗留することとなったのです。

潮の香り満ちる夕刻、帯姫は静かな浜辺に立っていました。

胸の内には、二つの思いが渦巻いています。

――一刻も早く、お会いしたい。

けれど同時に、

――お会いすれば、また“あれ”を見てしまうのではないか。

その不安の方が、今はなお強く心を占めていました。

「でも、先日のことは回避できたではありませんか」

隣より、穏やかな声がかけられます。豊姫です。

「徳勒津宮にてご覧になった、吉備の浦のこと……あれはもう、起こらなかったのでしょう?」

「それは……そうなのですが……」

帯姫は、言葉を濁しました。確かにあのときの幻視は現実とはなりませんでした。けれど、それが本当に“終わった”のか、それとも“別の形で訪れる”のか――その確信を持つことができずにいたのです。

「それほど恐ろしいのであれば」

今度は長媛が、わずかにいたずらめいた眼差しを向けて言いました。

「お会いになる前に、占ってみてはいかがですか」

「占う……?」

「ええ。誓約にございます。海に潜り、珠を得られれば吉。しかも、美しき珠であれば――一生安泰、という趣向にて」

帯姫は一瞬ためらいました。けれど、ただ恐れているばかりでは、前へは進めません。

「……分かりました。やってみましょう」

その決意は、静かに固まっていきました。

帯姫は衣を整え、ゆるやかに海へと足を踏み入れます。水は思いのほか冷たく、それでいて不思議と心を澄ませるものでした。

深く、さらに深く。

光の届くぎりぎりのところにて、帯姫は海底を見渡します。

真珠を含む貝を探す――はずでした。けれど、視界の片隅に、異なる光が揺らぎました。

それは、砂の中に半ば埋もれた、小さな玉。

帯姫は手を伸ばし、それを拾い上げます。

水面へと戻り、息を整えてから、手の内を見つめました。

「……これは……」

それは真珠ではありませんでした。

透き通るような輝きを宿しながら、どこか整いすぎている。自然に生まれたものとは思えぬ、滑らかな球体。

――まるで、人の手によって磨かれたかのように見えました。

「これで……よいのでしょうか……」

帯姫は、戸惑いを隠せません。

そのとき、葉山媛が一歩進み出て、帯姫の手に重ねるようにして玉を包み、静かに微笑みました。

「それでよろしいのです」

「え……?」

「それはきっと、平和を願われるあなた様の御心に応えた珠にございます。海が、あなた様に託したのでございましょう」

その言葉は、不思議と胸にすっと落ちました。

「……そうですね」

帯姫は、小さく頷きます。

不安が消えたわけではありません。けれど、それを否むよりも、受け入れる方が、今は正しいように思えたのです。

やがて四人は顔を見合わせ、ふっと笑みを交わしました。

そのとき――

「姫様方、そろそろお戻りくだされ」

襲津彦の声が、少し離れたところより届きます。

「屋敷の支度が整いましたゆえ」

「分かりました。すぐ参ります」

豊姫が応じ、三人はくるりと背を向けて歩き出しました。

帯姫もまた、それに続こうといたしました――が、その一瞬。

手の中の珠が、かすかに脈打つように感じられたのです。

言葉ではない、けれど確かに伝わる感覚。

――まだ、時はある。

帯姫は息をのみました。

それがどれほどの長さなのかは分かりません。
けれど、今すぐではない。

限られた時が、静かに差し出されている。

(……まだ、大丈夫)

胸の奥に、わずかな安堵が広がりました。

「姉上?」

振り返った豊姫の声に、帯姫ははっと我に返ります。

「ええ、すぐ参ります」

そう答え、帯姫は珠をそっと握りしめました。

その光は、夕闇の中にあっても、やわらかく確かに輝いています。

   *

翌朝。

海は穏やかに凪ぎ、まるで何事もなかったかのように静まり返っていました。

帯姫は屋敷の庭先に立ち、遠くの道を見つめています。

――本日こそ、お会いできる。

そう聞いてはおりましたが、胸の奥は不思議なほど落ち着かず、わずかに指先の冷えを感じていました。

やがて、従者の一人が駆け寄ってきます。

「大王がお見えになります」

その一言に、胸が大きく打ちました。

帯姫は思わず姿勢を正し、深く息を整えます。

ほどなくして、数名の家臣を伴い、足仲彦天皇が庭へと入ってきました。

そのお姿を目にした瞬間――帯姫の胸にあった不安は、ふっとほどけていきます。

言葉が、すぐには出てきません。

天皇もまた、足を止め、帯姫を見つめます。

ほんのわずかな沈黙。

けれどそれは気まずさではなく、どこかくすぐったく、照れを含んだものでした。

「……無事であったか」

先に口を開かれたのは、天皇でした。

「はい。大王も、ご息災にて」

帯姫はようやく言葉を返します。

互いに、ほんの少しだけ微笑みました。

それだけで、長く離れていた時が、静かに埋まっていくようでした。

「道中、難儀はなかったか」

「皆に助けられましたゆえ、つつがなく参ることができました」

「そうか……それは良かった」

会話は短く、どこかぎこちないながらも、不思議と温もりに満ちています。

あの不吉な気配も、胸を締めつけるような影も、何一つ感じられません。

ただ、穏やかな空気だけが、そこにありました。

(……まだ、時はある)

昨夜の感覚が、ふと胸をよぎります。

帯姫は、そっと息をつきました。

「これよりは、同じところにて過ごせよう」

天皇が、やや照れたように言われます。

「はい……」

帯姫もまた、わずかに視線を伏せながら頷きました。

その頬には、ほのかな紅が差しております。

再び顔を上げたとき、二人の視線が重なりました。

今度は先ほどよりも自然に、柔らかな笑みがこぼれます。

ようやく――同じ時を、同じ場所にて過ごすことができる。

そのささやかな喜びが、言葉にせずとも、確かにそこにありました。

帯姫の手の中にある珠は、静かに光を宿しております。

まるで、このひとときが限られたものであることを、
そっと知っているかのように。

――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第15話「神夏磯媛の裔」では

神夏磯媛の血を継ぐ兄妹と対面した足仲彦天皇は、豊前の地に受け継がれる力と野心の気配に触れます。
 
5月12日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。
神功皇后は、どの海を渡ったのでしょうか。
日本海?それとも瀬戸内海?
 
日本書紀には、次のような記述があります。
 

皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。

【現代語訳】皇后は、角鹿から出発して、渟田門に到着し、船の上で食事をしました。
 
 
この「渟田門(ぬたのと)」、大きく二つの説があります。
 
ひとつは、現在の福井県若狭湾周辺とする日本海側とする説。
もうひとつは、広島県三原市付近の瀬戸内海側とする説です。  
 
 
 
角鹿(敦賀)を発ってすぐなので、若狭湾周辺のこととも考えられます。
神功皇后は、日本海を渡ったのでしょうか。
 
 
 
しかし、実際に各地を歩いてみると、ひとつの違和感が浮かび上がります。
 
それは、伝承の分布です。
 
日本海側ではほとんど見られない一方で、瀬戸内海沿岸には、神功皇后にまつわる伝承が数多く残されています。
 
もし本当に通った道であるなら、
そこに何も残らないということがあるのでしょうか。
 
 
 
本記事では、牛窓や浮鯛の伝承、そして瀬戸内海という海の性質から、
 
この「渟田門」がどこか、
 
神功皇后の航路は、
瀬戸内海か、日本海か――
 
その問いの答えを探ります。

シーカヤックが砂浜と水辺にある

 

【第一章】潮の海 ― 瀬戸内海という航路


神功皇后は、どのように海を進んだのか。
 
その手がかりを求めて、私は瀬戸内海に出ました。
 
一見すると穏やかな内海。
波も静かで、外洋に比べればはるかに航海しやすいように見えます。
 
けれど実際には、この海は決して単純ではありません。
 
瀬戸内海では、およそ六時間ごとに潮の流れが変わるといいます。
同じ場所でも、時間によって海の様子が大きく変わるのです。
 
この話を聞いたのは、岡山の海の上でした。
 
シーカヤックで瀬戸内海を漕ぐ
 
神功皇后たちの航海を少しでも体感したくて、
私はシーカヤックを漕ぐことにしました。
 
二人乗りのカヤックに乗り、ガイドとともに海へ出る。
潮の流れを読みながら、小島から小島へと進んでいきます。
 
その動きは、思っていたよりもずっと滑らかでした。
 
潮に逆らえば進まない。
けれど、流れに乗れば自然と前へ進んでいく。
 
 
 
私は初心者でしたが、ガイドの導きによって、
無理なく島から島へと渡ることができました。
 
この海では、力よりも「流れを読むこと」が重要なのだと実感します。
 
 
 
古代の人々は、こんな小さな手漕ぎの舟で近畿から九州まで進んだわけではないでしょう。
もう少し、大きな船。
 
それならば、潮を読み、時間をかければ――
瀬戸内海は確かに「渡ることのできる海」なのです。
 
  
 

【第二章】牛窓 ― 潮待ちの港と死の伝承

 
岡山県瀬戸内市牛窓。
 
ここはかつて、「潮待ちの港」として栄えた場所でした。
潮の向きが変わるのを待ち、船はここで足を止めます。
瀬戸内海を進むうえで、避けては通れない拠点のひとつです。
 
私がシーカヤックを漕いだのも、この牛窓の海でした。
 
潮の流れに合わせて進むと、驚くほど自然に、小島から小島へと渡っていくことができます。
 
近畿から九州までを一気に進むのではなく、
潮を見ながら、区切りごとに進む。
 
牛窓のような場所は、そうした航海の節目だったのです。
 
青いシーカヤックと遠くの島々

 

そしてこの地には、気になる伝承が残されています。
 
仲哀天皇と神功皇后がこの地を訪れ、
そして、仲哀天皇が命を落としたというものです。
 
伝承によれば、熊襲に加担した新羅が、塵輪鬼という怪物を放ち、
天皇はこれを矢で討つものの、自らも傷を負い、やがて崩御したといいます。
 
この話は『古事記』『日本書紀』には見えません。
いわば、正史には残らなかった物語です。
 
 
 
それでも、この場所にこうした伝承が残っているという事実は重い。
 
私はこの話を、小説の中で「あり得たかもしれない出来事」として描きました。
 
 

 

牛窓神社

岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2147

 

【第三章】浮鯛 ― 海が導いた道


ここで改めて、日本書紀の記述を見てみましょう。


皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。時、海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚卽醉而浮之。

【現代語訳】皇后は、角鹿から出発して、渟田門に到着し、船の上で食事をしました。
その時、多くの鯛(鯽魚)が船の傍に集まりました。皇后は酒を鯛に注ぎました。鯛はすぐに酔って浮かびました。
 
一見すると神話的な出来事ですが、
 この現象は”浮き現象”と呼ばれ、現在では科学的に説明できるものだといいます。
 
魚が、産卵のために外海から瀬戸内に入ってきた際、海流の関係で速い潮の流れにもまれ、体内のうきぶくろの調節が間に合わなくなって浮き上がってしまうのだそうです。

かつては、兵庫県播磨市の鹿ノ瀬や、広島県三原市の能地堆などでよく見られたといいます。


さらに、能地は、かつで"家船”と呼ばれる、漁業と行商を生業としながら水上生活をしていた人々の出身地として知られます。

彼らは各地の近海で漁をし、陸に上がって行商をして生活必需品を得ていました。
そのような漂泊の民が通行手形のように持っていたのが”浮鯛抄”と呼ばれる書状です。
そこには、神功皇后にまつわる伝承が書かれています。
 
神功皇后が酒を注いで浮き上がった鯛を、地元の海士が獲り、それを皇后に献上しました。
喜んだ皇后は、「この浦の海士に永く日本の漁場を許し給う。それ故に、この地の海士はいずれの国で漁をすれど障りなく、また運上を出すことなし」というお墨付きを授けます。

それが、”浮鯛抄”です。

またその時、皇后は上陸してこの地をご覧になって、五穀豊穣なる土地と認めて”能地”の名を与えます。
さらに海に幣を流し、その幣が打ち上げられた場所を”浮幣”と称して、そこに「浮幣社」という祠を建てました。

それが、現在、能地にある浮鯛神社です。

 
瀬戸内海の船と波止場

 

【終章】どの海を渡ったのか

 
牛窓神社に残る伝承、
浮鯛神社に語られる物語。
 
それらは決して、無関係に散らばっているわけではありません。
 

 
瀬戸内海に、これらの伝承が残されているのは、
 
この海が単なる想像の舞台ではなく、
実際に神功皇后が通った「道」だったからではないでしょうか。
 
ヨットとボート、集落と山並み

 

神功皇后:海を越える巫女王
 

第13話|鯛、酔う海

 
【あらすじ】
 
濘田門に至った皇后一行は、船上で和やかな宴を開く。
皇后が海へ酒を注ぐと、群れ集まった鯛が酔って浮かび、漁師たちは「聖王の賜物」と歓喜する。
豊かな海と土地に祝されるなか、皇后は人々の笑顔を見つめながら、新たな縁と繁栄の兆しを胸に刻む。
 
――――――
 
【本文】
 
難波津から穴門へ向かうこの内つ海は、東西に長く伸びています。
東と西に潮の出入り口があり、およそ六時間ごとに潮の向きが変わるのです。
 
息長帯姫《おきながたらしひめ》たちは潮の流れに身を任せ、折々に港へ寄っては潮待ちをしながら進みました。
海は急がず、焦らず、ただ規則正しく息をしているようでした。
 
那波浦に着いたときのことです。
 
「大后《おおきさき》」
 
桟橋に立っていたのは、小千三並《おちみなみ》でした。
足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》に従っていた武人です。
 
帯姫は胸の奥が、ひときわ静かに張りつめるのを感じました。
 
小千三並は膝をつき、告げます。
 
吉備の浦には熊襲が入り込み、
小さき国のごとく勢を張っていたこと。
 
これを、将軍 鴨別《かもわけ》が討ち破ったこと。
 
さらに、天皇自らも戦陣に立たれ、
賊の頭目と見られる者を討ち取られたこと。
 
その威に服し、熊襲はついに観念し、
みな従う意を示したこと。
 
「大王《おおきみ》はご健勝にて、すでに先へ進まれております」
 
その言葉が、春の風のように届きました。
 
豊姫がほっと息をつきます。
 
「姉上の仰せの通りでしたね」
 
葉山媛も、長媛も、安堵の表情を浮かべました。
 
帯姫は静かに目を閉じます。
 
予知は、現実となりました。
けれど、未来は変えられたのです。
 
「……ご無事で、何よりです」
 
その声は静かでしたが、胸の奥の張りつめた糸が、ようやく緩みました。
 
「さすが大王でございます」
 
襲津彦が誇らしげに言います。
 
豊姫は笑って、
 
「姉上と大王、最強ですね」
 
と無邪気に言いました。
 
皇后はわずかに頬を染めます。
 
恐れていた未来は、避けられました。
 
春の海は、今日も穏やかです。
 
濘田門に至った頃には、日も高く、海は穏やかでした。
 
船上に卓が設けられ、簡素ながらも温かな食事が並びます。
 
「海の上でいただくご飯は、どうしてこんなに美味しいのでしょう」
 
長媛が目を輝かせます。
 
「潮の味がするからよ」
 
葉山媛が静かに言うと、豊姫がくすりと笑いました。
 
帯姫も珍しく肩の力を抜き、盃を手にします。
 
そのときでした。
 
「ご覧ください!」
 
襲津彦の声に、皆が身を乗り出します。
 
船べりの下、きらきらと赤い影が群れています。
 
「鯛です!」
 
しかも一匹や二匹ではありません。
まるで呼ばれたかのように、船の周りへ集まってきています。
 
豊姫が身を乗り出します。
 
「姉上、歓迎されていますよ!」
 
帯姫はふと、盃を見ました。
 
そして、いたずら心が芽生えます。
 
「では、少し振る舞いましょうか」
 
そう言って、海へと酒を注ぎました。
 
白い筋となって、酒が水面に落ちます。
 
次の瞬間。
 
鯛たちが、ふわりと浮かび上がりました。
 
「あっ……!」
 
長媛が声を上げます。
 
鯛は腹を見せ、ゆらりゆらりと揺れています。
 
「酔ったのですか?」
 
豊姫が目を丸くします。
 
漁師たちが慌てて網を投げました。
 
「これは、聖王がお与えくださった魚だ!」
 
歓声が上がります。
 
甲板の上は、たちまち笑い声で満ちました。
 
「姉上、海まで味方にしてしまうのですね」
 
豊姫がからかうように言います。
 
「そんなつもりはありません」
 
帯姫は笑いましたが、どこかくすぐったい気持ちです。
 
やがて、獲れた鯛は丁寧に調えられ、帯姫へと献上されました。
 
飯を入れる器に盛られ、それを若い海女が頭上に載せて進み出ます。
 
男ではなく、女。
 
その姿に、帯姫は目を細めました。
 
「美しいわ」
 
葉山媛も頷きます。
 
帯姫は上陸し、この土地を見渡しました。
 
山はなだらかで、海は豊か。
 
「ここは、五穀もよく実るでしょう」
 
そう告げると、人々は顔を見合わせて喜びます。
 
帯姫は海へ幣を流しました。
白い布は波に揺れ、やがて沖へ。
 
後にその幣が打ち上げられた浜は「浮幣」と呼ばれ、祠が建てられることになりますが、今はただ、春の海が静かに光っているだけでした。
 
献上された鯛を囲み、再び船上は賑やかになります。
 
「おいしい!」
 
豊姫が声を上げ、葉山媛もほころびます。
 
帯姫はその様子を見ながら、思いました。
 
この者たちの笑顔が、ずっと続けばよい。
 
戦も政も、遠い波の向こうにあるかのようです。
 
濘田門の海は、春の日差しを受けて、穏やかに輝いていました。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第14話「豊浦の如意珠、凪の約束」。
 
海に問う誓約で束の間の猶予を得た帯姫は、天皇との再会の中で限られた平穏を受け入れます。
 
 
5月5日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。
神功皇后:海を越える巫女王
 

第12話|山背にて集う縁

 
【あらすじ】
 
出立前、豊姫の願いで山背を訪れた帯姫は、父や祖父との別れを経て新たな縁を得る。
山背根子の娘、葉山媛と長媛が加わり、さらに難波では依網吾彦男垂見が大船を用意する。
賑やかな仲間を乗せた船が帆を上げるとき、帯姫はこの者たちを守り抜く決意を胸に刻む。
 
――――――
 
【本文】
 
葛城を発つ朝、豊姫はふと思い出したように言いました。
 
「姉上、出立の前に、お祖父様と父上にお別れを申したいのです」
 
息長帯姫《おきながたらしひめ》は少し驚きましたが、すぐにうなずきます。
 
「そうね。きちんとご挨拶をしておきましょう」
 
こうして一行は、迦邇米雷王《かにめいかずちのみこ》のいる山背国へと向かいました。
 
山背は水と山に恵まれた、どこか懐かしい気配のある土地です。ほどなくして祖父、迦邇米雷王が姿を現し、その傍らには父、息長宿禰王《おきながのすくねのみこ》の姿もありました。ちょうど山背で合流したのです。
 
「豊姫も行くのか」
 
祖父の低く響く声に、豊姫は胸を張りました。
 
「はい。姉上のお役に立ちとうございます」
 
息長宿禰王は、娘たちをしばし見つめ、静かに言いました。
 
「大后《おおきさき》を、頼みましたぞ」
 
その一言に、豊姫はいつになく真面目な顔でうなずきます。
 
そこへ、山背の有力者である山背根子《やましろのねこ》が現れました。
 
「大后のご一行とあらば、ぜひお力添えを」
 
そう言って差し出したのは、二人の娘――葉山媛と長媛でした。
 
葉山媛は落ち着いた眼差しの持ち主で、物静かに頭を下げます。
長媛はやや快活で、豊姫とすぐに打ち解けそうな雰囲気をまとっていました。
 
「どうか、お側近くにお仕えさせてくださいませ」
 
今までの道行きは、襲津彦をはじめ男たちばかりでした。そこへ若い姫たちが加わることで、空気がふっと柔らぎます。
 
帯姫は思わず微笑みました。
 
「心強いことです。ともに参りましょう」
 
豊姫は小さく拳を握り、どこか誇らしげです。自分が先導して仲間が増えていくことが、嬉しくてならない様子でした。
 
山背を後にし、一行は木津川へ出ます。
 
春の光を受けた川面はきらきらと輝き、舟は流れに乗って一気に下っていきました。山の気配が次第に開け、やがて水は広く、難波の気配が近づいてきます。
 
難波では、依網吾彦男垂見《よさみのあびこおたるみ》が出迎えました。
 
「お待ちしておりました。大きな船を用意いたしましたぞ」
 
湾に浮かぶ船は、堂々たる姿です。帆も新しく、船腹は陽光を受けて白く光っています。
 
豊姫は葉山媛と長媛の手を引きながら、はしゃぐように船を見上げました。
 
「姉上、にぎやかになりましたね」
 
襲津彦も加わり、男たちの笑い声が響きます。若い姫たちの明るい声も重なり、甲板は活気に満ちていました。
 
帯姫はその様子を見渡します。
 
戦や予知に縛られた日々とは違う、温かな人の輪。
それは偶然ではなく、豊姫が繋いだ縁でした。
 
「……ありがとう、豊姫」
 
そっと呟くと、妹は振り返ってにこりと笑います。
 
「これからもっと増えますよ。姉上の味方は、たくさん必要ですもの」
 
春の風が帆をはらみます。
 
こうして、賑やかな仲間を乗せた船は、難波津をゆっくりと離れました。
 
帯姫の旅は、いつしか一人のものではなくなっていました。
 
豊姫が笑い、葉山媛が穏やかに頷き、長媛が帆を見上げる。
襲津彦の声も混じり、甲板は春の光に満ちていました。
 
帯姫はその光景を、静かに見渡します。
 
この者たちを、必ず生きて帰す。
 
それは祈りではなく、決意でした。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第13話「鯛、酔う海」では――
 
濘田門での船上の宴にて、皇后が海へ注いだ酒に鯛が酔い、海は祝福のように賑わいます。
 
 
4月28日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。



神功皇后:海を越える巫女王

第11話|葛城の春

 
【あらすじ】

天皇の死を予知した恐怖から、すぐに出立できずにいた帯姫は、襲津彦の勧めで故郷・葛城を訪れる。
久しぶりに再会した妹、豊姫は明るく振る舞い、天皇や襲津彦の話で場を和ませる。
その屈託ない笑顔の奥にある気遣いを感じ取りながら、帯姫は再び歩み出す力を静かに取り戻していく。

――――――
 
【本文】

足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》が出立された後も、息長帯姫《おきながたらしひめ》はすぐに船を出す気にはなれませんでした。

穴門で会おう――
そう約束したばかりだというのに、胸の奥には重たい影が落ちています。

もし近づけば、またあの光景を見てしまうのではないか。
矢に射抜かれ、血に染まる背を。

その恐ろしさに、帯姫の足は鈍りました。

紀伊国にとどまり、出立の時を量りかねていると、護衛に付いていた襲津彦が静かに進み出ました。大臣、武内宿禰の子で、まだ若いながらも気骨のある男です。

「葛城へ向かわれては、いかがでしょう」

帯姫が顔を上げると、襲津彦は続けました。

「母君も、妹君もおられます。お心を休めるには、何よりの場所かと」

葛城――
そこは、母、高額媛《たかぬかひめ》の出身地。
帯姫は、父とともに父の出身地にいることが多かったのですが、妹は母とともに葛城にいました。

帯姫はしばし考え、うなずきました。

「……そういたしましょう」



葛城に着くと、真っ先に駆け寄ってきたのは妹の豊姫でした。

「姉上!」

九つ下の妹は、今年十五。あどけなさを残しながらも、どこか凛とした面差しになっています。

「よく来てくださいました。お会いしたかったのです」

無邪気な笑顔に、帯姫の心がわずかにほどけました。

「大王は、賊退治に向かわれたと聞きました。まるでヤマトタケルの西征のようですね」

屈託なくそう言う豊姫に、帯姫はかすかに微笑みます。

「……そうね」

それ以上、言葉は続きませんでした。

代わって襲津彦が、天皇の勇ましい様子を語ります。

「大王《おおきみ》は兵を鼓舞され、みずから賊を討つと仰せでした。実に頼もしい御姿でした」

「まあ、素敵」

豊姫の目が輝きます。

襲津彦もまた、少し照れたように笑いました。二人の間に、軽やかな空気が流れます。

帯姫はその様子を、少し離れたところから眺めていました。

楽しげに言葉を交わす若い二人。
自分もかつては、あのように屈託なく笑っていたのだろうかと、ぼんやり思います。

やがて、ひとしきり語り合った後、襲津彦は姿勢を正しました。

「また様子を見に参ります。それまで、どうかごゆるりと」

そう言って、一旦その場を辞しました。

豊姫はその背を見送りながら、ふと帯姫を振り返ります。

「姉上、次にご出立の際は、わたくしもお供いたします」

「どうして?」

帯姫が問うと、豊姫は少し首を傾げ、楽しげに笑いました。

「襲津彦様が、素敵だからです」

あまりにあっけらかんとした物言いに、帯姫は思わず目を見開きます。

豊姫はくすりと笑い、続けました。

「それに――」

少しだけ声を和らげます。

「姉上が、なんだかお寂しそうでしたので」

その言い方は、どこまでも軽やかでした。

深刻さを帯びることなく、
ただ、当たり前のことを口にしたように。

帯姫は、しばし妹を見つめました。
帯姫の口元に、やわらかな笑みが浮かびます。

「……そう」

そっと手を取ります。

「貴女が一緒なら、私も心強いわ」

豊姫の顔が、ぱっと明るくなりました。

「本当ですか?」

「ええ」

胸の奥に張りつめていたものが、
ほんの少しほどけていきます。

春の空気が、静かにやわらいでいました。

遠く離れた海の向こうで戦う天皇を思いながら、帯姫は新たな旅立ちの時を、静かに待ちます。

――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第12話「集う縁」では
 
豊姫の導きによって新たな仲間が加わり、帯姫の旅はひとりのものではなくなっていきます。

 
4月21日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。