◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (27)
今回と次回辺りが、
このテーマ記事のクライマックスとなるでしょうか。
既にいつまでも続くこのテーマが論文染みたものとなっており(ほぼ引用に頼り、自らはほとんど論じてはいませんが)、
読んで頂いている方は皆無に近いということは承知しています。
この上にさらに詳細な系図を載せようと企んでいます(笑)
…載せねばならないので。
ごく僅かなついてきて頂いている方だけに
通じればそれでいいかと思っています。
そういう方には
話があっちこっちに飛んでしまっていることを大変申し訳なく思いますが…ご勘弁頂けますとさいわいです。
今回は2~3本分ほどのボリュームとなりました。重ね重ねご了承下さいませ。
「過去記事一覧」を作成しました。
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■ 「古屋家家譜」に掲載される系譜
大伴氏の系譜については「古屋家家譜」のものが信憑性が高いとしてきました。「古代氏族の系譜」(溝口睦子著)より引用します。
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*「甲斐国一ノ宮 浅間神社誌」(鎌田純一編)掲載の系譜を溝口氏が「古代氏族の系譜」に引用したものを孫引用。
*原文のままですが、一部に分かりやすくするため半角スペースを施しました。
*漢文の「一二点」や「レ点」、「上中下点」などの返り点は(一二)(レ)(上中下)で表記しました。
*煩雑となっていますが、敢えて註釈付きの元資料を引用しました。無断転載できないため、分かりづらいですが御容赦下さいませ
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高皇産霊尊
(武蔵国都築郡杉山神社)
(大和国添上郡宇奈太理坐高御魂神社等是也)
↓
安牟須比命
↓
香都知命
(紀伊国名草郡香都知神社是也)
↓
天雷命
(紀伊国名草郡鳴神社是也)
↓
(一名 大国栖玉命)
(一名 大刀辛雄命)
天石門別安国玉主命
(妻神 八倉比売命)
↓
(一名 神狭日命 又云 天忍日命)
天押日命
(天津彦国光火瓊々杵尊排(二)開天磐戸(一)押(二)分天八重雲(一)以奉降之于時帥(二)天津大来目(一)背負(二)天磐靫(一)臂著(二)稜威高鞆(一)手捉(二)天栀弓矢天羽羽矢(一)及副(二)持八目鳴鏑(一)又帯(二)雙槌剣(一)而立(二)天孫之前(一)遊行降来)
(山城国葛野郡伴氏神社是也
子孫累葉奉(二)祖先之遺業(一)供(二)奉于●葉皇孫(一)者不(レ)伝(二)個個之名(一)以職名(一)名換(二)其名(一)焉)
●は「亦」の下に「火」
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天押人命
↓
天日咋命
↓
(又名 大脊脛命)
刺田比古命
(紀伊国名草郡刺田比古神社是也)
↓
(本名 日臣命)
道臣命
(生(二)紀伊国名草郡片岡之地(一)聞(二)皇孫之来征(一)赴而供奉以承(二)祖先之遺業(一)神日本磐余日子尊自(二)熊野神邑(一)将(レ)赴(二)中洲(一)然山中嶮絶無(二)復可(レ)行之路(一)此時日臣命擬(下)家祖天押日命供(中)奉天孫降臨(上)帥(二)大来目(一)督(二)将元戎(一)蹈(レ)啓行遂到(二)菟田穿邑(一)尊大得(レ)利於此勅曰汝忠而且勇剛有(二)能導之功(一)是以改(二)汝名(一)為(二)道臣(一))
↓
味日命
↓
大日命
(掖上池心大宮朝供奉)
↓
角日命
(室秋津島大宮朝供奉)
↓
豊日命
(母紀直智名曾女乎束媛命)
(黒田廬戸朝及春日率川大宮朝供奉)
↓
↓
武日命
(磯城瑞籬大宮朝為(二)大夫(一)供奉)
(纏向日代大宮朝庚戌年秋東夷叛于時従(二)日本武尊(一)為(二)将軍(一)於(二)甲斐国酒折宮(一)賜(二)靫部(一)故屓(二)靫大伴連之姓(一)参河国賀茂郡狭投神社是也)
↓(豊日命から分岐)
→↓
乎多氐命
(従(二)日本武尊東征之軍(一)駐(二)陸奥国小田郡島田邑(一)鎮(二)東夷(一)焉)
(是靫大伴部大伴行方連 大伴白河連等祖也)
↓(武日命から)
↓
建持連公
(足仲彦天皇朝為(二)靫大伴連(一)供奉)
(息長足姫皇后征韓供奉)
↓(武日命から分岐)
→↓
蚊手連公
(是五百木部 大伴亘理事等祖也)
↓(武日命から分岐)
→→↓
阿古連公
(是丸子部 道島宿禰 大伴安積連等祖也)
↓(建持連公から)
↓
室屋大連公
(自(二)遠明日香大宮(一)至(二)飛鳥八釣大宮(一)五朝供奉長谷朝倉大宮朝丁酉年十一月朔為(二)大連(一))
↓(建持連公から分岐)
→↓
談連公
(朝倉大宮朝征新羅之戦役於彼地戦死)
↓(建持連公から分岐)
→→↓
長目連公
(是大田部 白髪部祖也)
↓(室屋大連公から)
↓
金村大連公
(石上広高大宮天皇晏駕之後誅(二)平群真鳥臣(一))
(泊瀬列樹大宮天皇朝己卯年十二月為(二)大連(一)供奉)
(山背樟葉大宮天皇朝丁亥年為(二)大臣(一)供奉)
(磯城島金刺大宮天皇朝庚申年九月称(レ)老帰(二)于家(一))
↓(室屋大連公から分岐)
→↓
御物宿禰連公
(屓伯連姓)
↓
(内臣)
戸難目連公
(訳語田幸玉大宮朝為内臣供奉)
↓(室屋大連公から分岐)
→→↓
若古連公
(是佐高志連 高志壬生連等祖也)
↓(金村大連公から)
↓
磐連公
(磐余玉穂大宮朝遷(二)居甲斐国山梨評山前之邑(一)小)
(治田豊浦大宮朝丁己年八月卒)
↓
↓
長峡連公
↓(磐連公から分岐)
→↓
弟古連公
↓
(後略)
↓(金村大連公から分岐)
→↓
狭手彦連公
(敷島金刺大宮朝壬午年八月奉勅率(二)大兵(一)伐(二)高麗(一)平定之)
(是大伴連 大田部連 榎本連等祖也)
↓(金村大連公から分岐)
→→↓
糠手古連公
↓
↓
小手子比咩連公
(倉梯宮天皇妃)
↓(糠手古連公から分岐)
→↓
頬垂連公
(掌上総之伊甚屯倉)
(是丸子連祖也)
↓(糠手古連公から分岐)
→→↓
加爾古連公
(掌木国那賀屯倉)
(是仲丸子連祖也)
↓(金村大連公から分岐)
→→→↓
阿被布子連公
↓
↓
咋子連公
(是大伴宿禰祖也)
↓(阿被布子連公から分岐)
→↓
奈羅古連公
(是大伴良田連祖也)
↓(金村大連公から分岐)
→→→→↓
宇遅古連公
(是宇治大伴連 神私連 大伴櫟津連等祖也)
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◎「古屋家家譜」の補足と補正
以上の系譜に宝賀寿男氏の考察等を元に、簡単な補足と補正を施していきます。
宝賀寿男氏は「古屋家家譜」は非常に信憑性の高いものであるとしながらも、一部に補正を行う必要があるとしています。
*高皇産霊尊
天孫族の祖神である高皇産霊神を始祖とするのは理にかなわず、後世の伝承であろうとしています。従ってこれは省かねばならないということになります。
*安牟須比命
大伴氏の真の始祖。彼らは日本列島で原始的な「焼畑農業」を営んだ「山祇族」系統であり、本来の「ムスビ(産霊)」は安牟須比命、その実体はカグツチ神(=火産霊神)であったとしています。
安牟須比命を真の始祖とするなら、「安」が原始の居住地に関わるのではないかと。
既に大伴氏と久米氏は、かつて同族であったと記しています。久米氏は前回の記事において、「球磨国」(火国の球磨郡)から拠点を「阿蘇国」、そして「筑後川」中流域へと広げていったと記しました。これは「免田式土器」から推察されると。
そして「安」から推し量るに…
・筑前国「夜須郡」(福岡県朝倉郡筑前町辺り) … 「筑後川」中流域の北側
さらに「紀伊国造」(大伴氏と同族、後述予定)から推し量るに…
・肥前国「基肆郡(きいのこおり)」(佐賀県三養基郡基山町)辺り … こちらも「筑後川」中流域の北側
宝賀寿男氏は天孫降臨の地を「筑後川」中下流域としていますが、紀には天押日命と天津久米が瓊瓊杵命の降臨の御先に立ち先導したとあるのが、地理的にも合致します。
*香都知命(カヅチノミコト)
紀伊国名草郡 逆松社(香都知神社の旧社地)
*天雷命
紀伊国名草郡の鳴神社にて祀られています。
*天石門別安国玉命
(アメノイワトワケヤスクニタマノミコト)
手力男命のこと。系譜上の註釈にも「大刀辛雄命(タヂカラオノミコト)」とあります。
「天岩戸」神話で、天石屋戸に隠る天照大御神の御手を取って引き出し、邇々芸命の降臨に随伴した神。謎の神とされますが、大伴氏(久米氏)の遠祖であるとすれば合点のいくことが多々見受けられます。
「大国栖玉命(九頭大明神)」とも称されています。道臣命の父である刺田比古命が紀伊国名草郡の刺田比古神社で祀られますが、かつて九頭大明神とも称されていたようです。また紀伊国名草郡を中心に「九頭」「国主」などを冠する社が多く鎮座しています。
・國主神社(海南市多田)など他多数有り
また「紀ノ川」(上流の大和国では「吉野川」)流域では、磐排別命(石押分、イワオシワク)が多く祀られています。九頭神社(福島九頭神社)においてもご祭神は磐排別命。おそらくは天石門別安国玉命(手力男命)と同神であろうと思われます。
この神は神武東征時、吉野の山中で出会った「土蜘蛛」的な書き方をされている人物(神)。井氷鹿・贄持之子(ニエモツノコ)と次々に出会っています。取って付けたが如く…。わざわざ遠回りしてまで…。
天石門別安国玉命(手力男命)については、到底一筋縄ではいかないので別項にて取り上げたいと思います。
紀伊国名草郡 朝椋神社
*天押日命・天押人命・天日咋命
天押日命については特に宝賀寿男氏の考察は無く、記紀神話の天孫降臨の段にて記される先導の大役を果たしたという「古屋家家譜」の註釈のみに。この時点でまだ大伴氏は九州にいたということになります。
ただし天押人命・天日咋命を天押日命と同神であるとしています。理由は書かれいないものの、神名が近似することが一つ。久米氏系図にこちらの2神らしき神名が見られず、同神とすることで久米氏との系図と整合性が取れることが二つ目。
*刺田比古命(サスタヒコノミコト)
道臣命の父神。溝口氏は大伴氏自体が、「紀伊国名草郡片岡里」を居住地としていたことそのものを否定しているため、架空の神ではないかとしています。ところが刺田比古神社が鎮座していることがその考えを否定できるものと思います。
別名として「大脊脛命」が挙げられています。何やら「土蜘蛛」を連想させるような神名。そもそもで言うと天石門別安国玉主命の別名、「大国栖玉命」もそうなのですが。これについては次回に触れていくこととなります。
紀伊国名草郡 刺田比古神社
*道臣命
註釈にも紀の記述が引用されています。これまでも触れて来たので省略します。
2点だけ記しておくと
・神武東征の大功により「道日命」から「道臣命」に改名した
・同じく東征の大功により「築坂邑」の宅地を賜った
*味日命・大日命・角日命・豊日命
いずれも「欠史八代」の時代に供奉したと註釈に記されています。
・大日命 … 「掖上池心大宮朝」→第5代孝昭天皇
・角日命 … 「室秋津島大宮朝」→第6代孝安天皇
・豊日命 … 「黒田廬戸大宮朝」→第7代孝霊天皇、「春日率川大宮朝」→第9代開化天皇
宝賀寿男氏は「欠史八代」を実在したとみており、これら3代も実在したものとしています。
なお註釈には、かつての同族から分岐した紀直(紀伊国造家)の娘と婚姻関係を結んでいることが記されています。
*武日命
「磯城瑞籬大宮朝」(崇神天皇)に「大夫」となり供奉したと註釈に記されます。
また日本武尊東征に従軍し、その帰路に甲斐国「酒折宮」で「靫部(ゆげひのとも)」を賜ったと紀にあります。同じことがこの「古屋家家譜」にも註釈にも記されます。
「靫部」とは「靫大伴部」の略。このとき初めて「大伴」を氏の名とすることになりました。
*乎多氐命(オタテノミコト)
武日命の弟として「古屋家家譜」に登場しています。その註釈に「日本武尊東征の軍に従ひて陸奥国小田郡島田邑に駐り東夷を鎮むるなり」とあり、そちらに留まり引き続き蝦夷と対峙していたようです。そして後裔たちが陸奥国及びその周辺国に拠点を広げたようです。
続紀には、「押人等の本(道臣命のことか)は紀伊国名草郡片岡里人なり」とあります。また日本武尊東征に小田郡島田村に到り居したが、蝦夷に虜えられ歴代が俘となるも幸運に大和朝廷勢力下に戻ったと続きます。
以下は省略します。
どうやら日本武尊東征での負担が大きかったのか、そして平定後も駐留したりなどがあったからか、大伴氏は久米氏とともに表舞台からは遠ざかります。
大伴氏は室屋・金村の時代に最盛期を迎えます。記紀やその他文献にも多く登場し事績等も豊富にあるため、こちらでは省略します。金村は外交政策の失敗による失脚で、以降大伴氏は衰退しました。
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■ 補正系譜
「古屋家家譜」の宝賀寿男氏による補正が必要だと思われる箇所を個別にみていきましたが、ここでそれらを盛り込んだ補正後の系譜を掲げておきます。簡素化させるために註釈を省きました。
安牟須比命(香都知命・天雷命)
↓
天石門別安国玉命
↓
天押日命(天押人命・天日咋命)
↓
刺田比古命
↓
道臣命
↓
味日命
↓
稚日命
↓
大日命
↓
角日命
↓
豊日命
↓(豊日命から)
↓
武日命
↓(豊日命から分岐)
→↓
乎多氐命
↓(武日命から)
↓
建持連公
↓(武日命から分岐)
→↓
蚊手連公
↓(武日命から分岐)
→→↓
阿古連公
↓(建持連公から)
↓
室屋大連公
↓(建持連公から分岐)
→↓
談連公
↓(建持連公から分岐)
→→↓
長目連公
↓(室屋大連公から)
↓
金村大連公
↓(室屋大連公から)
→↓
御物宿禰連公
↓
戸難目連公
↓(室屋大連公から)
→→↓
若子連公
↓(金村大連公から)
↓
磐連公
↓(金村大連公から分岐)
→↓
狭手彦連公
↓(金村大連公から分岐)
→→↓
糠手古連公
↓(金村大連公から分岐)
→→→↓
阿被布子連公
↓(金村大連公から分岐)
→→→→↓
宇遅古連公
今回はここまで。
次回はこの簡素化させた系譜に、久米氏の系譜を重ね、宝賀寿男氏が唱える大伴氏と久米氏とがかつて同族であったということをみていきます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。