[大和国宇智郡] 御霊神社 本宮
■表記
井上内親王(イガミナイシンノウ/イノウエナイシンノウ)
*井上廃后
*吉野皇后
■概要
第49代光仁天皇皇后。
また京の都を震え上がらせたという最強の怨霊神。
◎出生は養老元年(717年)、聖武天皇の第1皇女として生を受けます。11歳の時に伊勢神宮の斎王となり発向。卜定にて選定されたのは5歳の時であり、以来潔斎に入ったと思われます。天平十六年(744年)に同母弟、聖武天皇の第2皇子であった安積親王の薨去により斎王の任を解かれ退下したとされます。
これは第45代聖武天皇以降の皇位継承者が、悉く欠乏したことによるもの。
第1皇子であり皇太子であった基王は生後一年足らずで夭逝。有望な皇位継承者は光明皇后(藤原不比等と県犬養橘三千代の間の子)と、第2皇子であった安積親王(夫人であった県犬養広刀自の子)の両者となりますが、藤原氏が推挙したのはもちろん安積親王。ところがこちらも17歳で急死(藤原仲麻呂による毒殺説有り)。第46代孝謙天皇が即位します(仲麻呂の推挙とされる)。その皇太子となった道祖王(フナドオウ)は「橘奈良麻呂の乱」により廃太子。孝謙天皇は践祚し次いで第47代淳仁天皇が即位(仲麻呂の推挙とされる)。孝謙上皇は仲麻呂から次第に道鏡を寵愛するようになり、そこで起こったのが「恵美押勝の乱」(仲麻呂は恵美押勝と改名していた)。そして孝謙上皇が重祚し即位したのが第48代称徳天皇。ところが生涯独身であったため深刻な皇位継承問題が起こります。
ここで頭角を表してきた藤原百川が推挙し、第49代光仁天皇が即位。第37代天智天皇の第7皇子で、62歳と歴代最高齢での即位でした。その皇后となったのが井上内親王。
◎当時の朝廷内では藤原四家内の勢力抗争、また藤原四家以外との抗争が激しく行われていました。さらに天智天皇系と天武天皇系の派閥が激しく対立していた時期でも。壬申の乱以降、天武天皇系派閥が権益を得ていました。
そのような中、頭角を表したのが天智天皇系派閥の藤原百川。天智天皇の第7皇子である光仁天皇擁立を成功させました。
また百川と手を組んだのが、光仁天皇の子である山部親王(桓武天皇)。白壁王(光仁天皇)は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、放蕩者のふりをし、政争に巻き込まれ粛清される難を逃れたとされます。そのような中、よもやの千載一遇の僅かな機会が山部親王(桓武天皇)に訪れました。
◎井上内親王は37歳で酒人内親王、次いで45歳の高齢で他戸親王を出産しました。これにより山部親王(桓武天皇)は即位への道を完全に断たれます。山部親王の母は百済系渡来氏族であり、出自の低い高野新笠。他戸親王が立太子します。
これで一旦は天智天皇系へ移った政権も、再び天武天皇系へと戻ることとなりました。父は天智天皇系の光仁天皇であるものの、大納言という高官にも関わらず酒に溺れる遁世したような暮らしをしており、母の天武天皇系派閥とみなされていました。
そこで山部親王と藤原百川が手を組み、山部親王の天皇擁立と、天智天皇系への奪還が企てられたものと思われます。
◎宝亀三年(772年)、光仁天皇を呪詛したとして井上内親王は廃后、他戸親王も廃太子となります。これは他戸親王の即位を急ぐために呪詛したというもの。ところが光仁天皇は既にかなりの高齢であり先は長くはない、他戸親王はまだ12歳で急ぐ必要もない…ことから讒言であることは明白でした。
その翌年に山部親王が立太子。難波内親王(光仁天皇の同母姉)をも呪詛し殺害したとして、大和国宇智郡に他戸親王とともに没官邸へ配流、幽閉されます。そして同六年に薨去。
◎井上内親王と他戸親王の薨去は同日のこと。暗殺(毒殺)された、或いは母子ともに自殺を図ったという説が根強くあります。
◎薨去後からは異変が次々と起こったことが続紀に記されます。2ヶ月後に光仁天皇擁立に功のあった藤原蔵下麻呂が死去。翌年には瓦石や土塊の落下が20日間も続き、またその翌年には妖怪が頻繁に出没したと。さらに光仁天皇擁立のもう一人の功労者、藤原良嗣も死去。これらはすべて井上内親王と他戸親王の祟りであると考えられました。
◎この一連の流れが「日本紀略」には記されており、列記しておきます。続紀とはやや年代が異なります。
*宝亀二年(771年)
井上内親王と他戸親王が廃され大和国宇智郡に幽閉される
*宝亀六年(775年)
井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で薨じる
*旱魃や大地震、疫病、雹(ひょう)、蝗害(イナゴ)が立て続けに起こり、祟りが続く
*宝亀八年(777年)九月十八日
山部親王の立太子を図り、娘を妃に入れた藤原吉継が没する(百川の兄、井上内親王幽閉の首謀者の一人)
*宝亀八年(777年)十一月一日
光仁天皇不豫(大病)
*宝亀八年(777年)十二月二十五日
山部親王が病に倒れる(精神病か)
*宝亀八年(777年)十二月二十八日
井上内親王の遺骨の改葬を決定、「御墓」とし御陵に準ずる応対とする
*宝亀九年(778年)一月二十日
遺骨を掘り起こし改葬
*宝亀九年(778年)潤三月十日
藤原乙牟漏皇后が崩御
他にも宮中に妖怪が出ただの、都に二十日ほど毎晩と瓦や土塊が降っだのが、正史に語られています。
◎この怨霊は桓武天皇の即位後まで続いたと考えられます。
長岡京遷都の主導権を握る藤原種嗣の暗殺事件を巡り、延暦四年(785年)に早良親王が配流され幽閉。無実の恨みを抱いたまま薨去、怨霊神へと。崇道天皇と追諡されるのに合わせて、延暦十九年(800年)に井上内親王を皇后と追后し御墓を山陵と追称。さらに同年に霊安寺という仏教施設(廃寺)と御霊神社 本宮が建てられました。これが「御霊信仰」の始まりとなりました。
◎宇智郡内には22村に分祀され、計23社もの御霊神社が鎮座します。これは飢饉による豪族の争論が起こったことに端を発するもの。嘉祥四年(1238年)に先ず10社分祀されたのを皮切りに、順次分祀されたと伝わります。
◎大和国宇智郡内には火雷神を祀るという宮前霹靂神社と火雷神社の式内社2社が鎮座。ともに井上内親王第3皇子である火雷神を祀ります。社伝によると井上内親王が当地に配流された際に身籠っていて、出生して成人後に母兄が配流されたことを知り憤怒。火雷神となり都から諸国七道に至るまで雷雨を起こし続けたとのこと。おそらくは後世の附会なのでしょうが、これほどまでに怨霊神は恐れられたということが窺えます。
■系譜
父 … 聖武天皇
母 … 県犬養広刀自(アガタイヌカイノヒロトジ)
配偶者 … 光仁天皇
第1皇女 … 酒人内親王
第2皇子 … 他戸親王(オサベシンノウ、立太子後に廃太子)
第3皇子 … 火雷神(記紀には無く、伝説上か)
■祀られる社(参拝済み社のみ)
[以下すべて大和国宇智郡]
[山城国相楽郡] 御霊神社(木津川市加茂町兎並寺山)
[大和国添上郡] 井上神社(奈良市井上町)
[大和国添上郡] 御霊神社(奈良市薬師堂町)
[大和国添下郡] 八所御霊神社(奈良市秋篠町)
[大和国山邊郡] 御霊神社(奈良市針町)
[大和国葛上郡] 高天彦神社(境内社 御霊神社)
*御陵
[大和国宇智郡] 井上内親王 宇智陵
[大和国宇智郡] 光仁天皇皇太子 他戸親王墓
*関連社
[大和国山邊郡] 御霊神社(天理市前栽町)
[大和国葛上郡] 御霊神社(御所市稲宿)
[大和国葛上郡] 御霊神社(御所市増)