御霊神社 (奈良市薬師堂町)


大和国添上郡
奈良市薬師堂町24
(P無し、近隣コインP等利用)

■旧社格
村社

■祭神
[本殿] 井上皇后 他戸親王 事代主命
[本殿東社殿] 早良親王 藤原広嗣 藤原大夫人
[本殿西社殿] 伊予親王 橘逸勢 文屋宮田麿


「ならまち」内、元興寺の南方に鎮座。社名通りに「御霊信仰」に関わる社。
◎社頭案内に掲出される由緒は以下の通り。
━━延暦十九年(800年)人皇第50代桓武天皇の勅命により御創祀された社であります。
宝亀六年(775年)聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后 井上内親王は政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、御子他戸親王とともに宇智郡(五條市)に幽閉されたのち薨去されました。その後、都や桓武天皇東宮に怪しき事が度々あり、疫病が流行したことから諸国の国分寺に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈られて霊を篤く慰められた。悲運のうちに亡くなった人の霊魂に対し畏怖の念を抱き、その霊を祀り、その威力によって災厄をのがれようとする御霊信仰が生まれました。当時、奈良の町に通じる三つの街道があり、上つ道に早良親王、中つ道に井上皇后、下つ道に他戸親王の御霊を祀り、疫病を封じ平穏を祈る御霊会が営まれ、町の守護神として五條本宮より遷祀されたのが当社の始まりです━━
◎井上内親王についての詳細は御霊神社 本宮の記事にて。
「三代実録」には初めて「御霊会(ごりょうえ、後述します)」が行われたのは、貞観五年(863年)に「神泉苑」にてと記されます。第56代清和天皇が在位。「神泉苑」とは平安京内裏の南に隣接する禁苑(皇居の庭)のこと。
おそらく当社創祀創建はこの貞観五年、或いはこの後の直近のことではないかと考えます。延暦十九年(800年)は井上内親王が薨去後に皇后に復された年。幽閉先の大和国宇智郡に霊安寺が創建、この頃に御霊神社 本宮も創建されたとみられます。この延暦十九年(800年)は桓武天皇が「神泉苑」に行幸したと記されます。
そもそも皇位継承には甚だ縁遠い地位ながら、それが叶ったのは藤原百川の陰謀により井上内親王を貶めたこと、同母弟の早良親王を貶めたことによるもの。百川はもちろん桓武天皇も井上内親王の祟りを畏れていたのは間違いないであろう事実。これが後世に誤って伝わったのではないかと考えます。早良親王に対する崇道天皇の称号を与えたのもこの年。
◎「御霊会」とは、「思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、鎮魂の儀礼」(Wikiより)のこと。貞観五年では「六所御霊」として、早良親王(崇道天皇)・伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文室宮田麻呂)・観察使(藤原仲成または藤原広嗣)の六柱が対象に。また京の上御霊神社・下御霊神社(ともに未参拝)では、「八所御霊」として伊予親王・観察使に変わり井上内親王・他戸親王が宛てられ、吉備聖霊(吉備大臣)・火雷神が追加されています。当社においては「六所御霊」に井上内親王・他戸親王が追加されて主となっています。
◎「奈良の町に通じる三つの街道があり、上つ道に早良親王、中つ道に井上皇后、下つ道に他戸親王の御霊を祀り…」に関して、「上ツ道」には崇道天皇社が鎮座、「中ツ道」には当社、「下ツ道」については資料が見当たらず不明。
宝徳三年(1451年)に起こった土一揆により元興寺が全焼、隣接していたとされる当社も焼失しています。かつては元興寺南大門のすぐ側に鎮座していたとされ、その旧社地に建てられたのが井上神社。焼失後に北200~300mの地に遷座して建てられたのが当社ということになります。


感じるお社の大きさは参拝する度に変わるものですが、今回はとても小さく感じました。大和国内の「御霊神社」をほとんど参拝したからでしょうか。


「八神殿」と掲げられています。


若宮社(菅原道真公)と水蛭子社。