崇道天皇社


大和国添上郡
奈良市西紀寺町40
(境内北側にP有り)

■旧社格
村社

■祭神
崇道天皇


「奈良町」と称される歴史的な町並みの一つ、「京終(きょうばて)」エリアの北端「西紀寺町」に鎮座する社。北に面する社前道路を挟み北側は「奈良町」エリア。
◎薬師堂町の御霊神社(記事未作成)と並び、「南都二大御霊社」と称されるようです。
早良親王は藤原種継暗殺の関与したとの疑義をかけられ、無実の罪を晴らすため配流中に絶食し憤死。その後疫病蔓延や大洪水などが続き、早良親王の祟りであるとの認識が広まります。大和に移葬し(八島陵)、さらに鎮魂の社を設けたとされます(嶋田神社に合祀)。
◎社伝においては、大同元年(806年)に第51代平城天皇の勅命により創草。天皇はこの年に即位、同年に早良親王(崇道天皇)鎮魂のために春秋の七日間、全国国分寺に読経を命じたとしています。これが「御霊会(ごりょうえ)」の始まりとしています。
*早良親王は平城天皇の叔父。平城天皇の父である桓武天皇が同母弟の早良親王を貶めたという事件。
◎ところが文献に「御霊会」が表れるのは、数十年後の貞観五年(863年)のこと(「三代実録」による)。これは桓武天皇により平安京内に設けられた「神泉苑」にて行われたもの。この時は「六所御霊大神」(早良親王・伊予親王・藤原吉子・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂)。
◎一方で薬師堂町の御霊神社の社伝には、奈良の都の南側には三つの出入口があり、「上ツ道」には崇道天皇社(当社と思われる)、「中ツ道」に井上御霊社(井上神社が旧社地とされるが、さらにその旧社地があると思われる)、「下ツ道」には他戸親王社(不明)を祀り、疫病の侵入を防ごうとしたとあります。また「御霊会」は上記「六所御霊大神」に井上内親王と他戸親王を合わせた「八所御霊大神」を鎮魂したようです。
◎創祀時期の詳細は不明ながら、早良親王に崇道天皇の追号がなされたのは延暦十九年(800年)、桓武天皇の崩御が延暦二十五年(806年、平城天皇即位後すぐに「大同」に改元)。70歳と高齢ではあったものの早良親王に祟られたと感じた可能性も。そうすると平城天皇が即位と同時に当社創祀がなされたとみても何ら不思議はないかと思います。