◆ 「土蜘蛛」 四顧 
(井光・磐排別之子・苞苴擔之子)



早くも第四回目。

このペースだと大和以外の「土蜘蛛」に進むのはあっという間?

東北方面などまったくの無知。
勉強していくと古代の知見が広まる期待を抱いています。



前回の記事では、深い吉野の山々を越えてついに「菟田」まで進んだ神武東征軍。

ところがなぜかまた吉野へ逆戻り。

何らかの戻る理由があったのか…
順序が間違えて伝承されていたのか…




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吉野でたて続けに三者(三土蜘蛛)と出会います。

(ここでは主旨と異なるため、吉野へ逆戻りした理由は追及しません)


まずは記の記述を。

━━神武天皇は吉野の地を省りみたいと思い、少ない兵を従えて菟田穿邑から経ちました。吉野に着いた時、井の中から人が現れましたが、尾が有りしかも光っていました。「誰だ?」と尋ねると「国津神の井光(イヒカ)です」と。これは吉野首の始祖です。更に少し進むと、また尾が有り磐を押し開き現れた者がいます。「誰だ?」と尋ねると「磐排別之子(イワオシワクノコ)です」と。これは吉野國樔(クズ)部の始祖です。今度は川に沿って西へ進むと、梁(やな)を張り魚を捕る者がいました。「誰だ?」と尋ねると「苞苴擔之子(ニヘモツノコ)です」と。これは阿太養鸕の始祖です (神武天皇 即位前戊午年、大意)━━

少し進んだ…のレベルではなく
果てしなく進んでいますが(笑)

いずれも抵抗したとは記されず、ただ名前を問い、それに答えるだけの記述。「土蜘蛛」とは記されていません。また「臣●●●」とし、「あなたに仕えます」という意思表示を伴う記述に。




「丹後の原像」でも登場したばかりですが…。

尾が有りしかも光っていると。紛れもなく「土蜘蛛」です。吉野郡川上村「井光(いかり)」の大変に奥深い山中、標高は1000~1100mほど。鉄または丹を採掘する部族であったのだろうと思われます。

冒頭写真にも使用している磐座が一族の拠り所。神武天皇が出会ったという伝承地も(いずれも下部にて紹介)。

父は白雲別命。この井光が丹後の伊加里姫と同神という説も。「勘注系図」に「豊水富命 亦たの名井比鹿也」とあり神名があまりに酷似。「丹後風土記」殘缺には、その伊加里姫を祀るという笠水神社が「白雲山」の北郊の「眞名井の清水」の傍らに鎮座するとあります。

井光の後裔、吉野首がヤマト王権に取り込まれ丹後に移住したという可能性も。もちろん鉄または丹が絡むのであろうと思います。

■関連史跡(訪問済みのみ)
* 井光神社奥の院 王塔宮 … 一族の拠り所
* 井光神社奥宮 神武天皇御舊跡 井光井跡 … 神武天皇と井光が出会った場所

* 「御船の滝」 … 奥の院のすぐ近く、禊場であったか

* [大和国葛下郡] 長尾神社 … 井光が祀られる
* [丹後国加佐郡] 笠水神社



神武天皇と井光が出会った場所という井光神社奥宮 神武天皇御舊跡 井光井跡



◎次に磐排別之子(イワオシワクノコ)。

「(井光と出会ってから)更に少し進むと…」などと紀には記されていますが、直線距離で10kmほど、実際の行程は険しい山中を20~30kmほど、軽く1日はかかると思われますが…

今度は磐を押し開き現れ出たと。
ま…磐の影からガタイのいい人物が出てきたということなのでしょうが。

こちらも尾が有ると記されており「土蜘蛛」と捉えていいのかと思います。大和国葛上郡には「土蜘蛛」が多く見られますが、「葛(くず)」で拵えた網で「土蜘蛛」を捕えたからとされていますが、「葛(くず)」というのがそもそも「土蜘蛛」であったのではないかと。
また「常陸国風土記」には「国巣(くず)」という「土蜘蛛」らしきものが見られるようです(自身はまだ確認できていません)。

「吉野國樔(クズ)部の始祖」とあり、「國樔」「国栖」などという表記に。上述のように「くず」というのがそもそも「土蜘蛛」であったのではないかと考えています。そうすると「九頭」というのも「土蜘蛛」に繋がるのではないかと…。

この「吉野國樔」はガッツリとヤマト王権に取り込まれ、応神天皇の吉野行幸の際には献酒し、歌でもてなしたと。天武天皇や持統天皇に対しても。また宮中では大嘗祭や節会(せちえ)などには「国栖奏」(現在は奈良県無形文化財)が舞われたとあります。

■関連史跡(訪問済みのみ)
* 岩神神社 … 数十mもある巨大磐座は吉野國樔たちの拠り所であったと考えています

* 川上鹿塩神社 … 応神天皇に献酒し、歌でもてなしたという伝承地

* 大蔵神社(南国栖) … こちらを川上鹿塩神社とする説有り

* 浄見原神社 … 年に一度「国栖奏」が奉納

* 國栖神神社 … 洪水で國樔八坂神社の祠が流れ着いたのを祀る社



岩神神社の巨大御神体



◎最後に苞苴擔之子(ニヘモツノコ)。

「梁(やな)を張り魚を捕る…」とあり、「阿太養鸕の始祖」とあります。「阿多隼人(薩摩隼人)」の裔であり、全国に鵜飼いを広めた一族。

こちらは身体的特徴は記されておらず、「土蜘蛛」とするのは問題有りかもしれませんが…三氏族が並列して記されるため紹介しておきます。

そもそもで言うと…神武天皇の妃である吾平津媛(アヒラツヒメ)は阿多隼人の血を引くとされます。つまりは親戚みたいなもの。

薩摩地方出身の人々にこんな所で出会うとは!…とは実は思わないのです。八咫烏の祖先もそもそもは薩摩地方出身。
4000年ほど前の噴火により吉野熊野の山奥に移住してきているのです。神武天皇が八咫烏を先導者として任せたのはそんなことを知ってか知らずか…。

ま…東征に向かった段階で吾平津媛を棄て置いてきているのですが(笑)
いや!実は媛は大和に来ていたという説も有り!(→ 嗛間神社の記事参照) 脱線はこの辺までで。

「苞苴擔之子」とはまた不思議な名前…ではないのです!「贄(にえ)」を「擔(肩に担ぐ)」子のこと。「贄」とはもちろん「鮎」のことで字の通り占いにも用いられる魚。当然ながら古代の「占い」とは現在のインチキとは異なり、れっきとした神事。神聖な魚を捉える、つまりこれも神事の一つと考えていいのかも。

「國樔」地区からは直線距離で20kmほどでしょうか。こちらの方が速いはず。それでもまる1日くらいはかかったように思いますが。

■関連史跡(訪問済みのみ)

* 「芝崎の奇岩」 … この辺りで鵜飼いをしていたという個人的推測