◆ 「土蜘蛛」 二顧 
(長髄彦・名草戸畔・丹敷戸畔)




こっそりと…ちょっぴりと…

テーマ名を変えておきました。



気付かれない程度に。
(どう変えたかは恥ずかしいからナイショ)






このテーマでは
はっきりと「土蜘蛛」「土雲」、或いは「国栖」「八握脛」などと文献に表記されているもの、はっきりと表記されてはいないがそれに近いもの、

なるべくすべてを網羅していきたいと思います。

「土蜘蛛」と表記されているものよりも、よっぽど「土蜘蛛」らしく表現されているものも多々あるため。


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「土蜘蛛」に含めるかどうかの基準を以下のように設定しました。これらを総合的に鑑みて、最終的には主観により判断。
・「土蜘蛛(土雲)」またはそれに準ずる表記がなされている
・ヤマト王権にまつろわなかった(死ぬ間際まで抵抗した)
・手足や脛が長い、尾があるなどといった身体的特徴がある

* はっきりと表記されていないものについて、「土蜘蛛」に含む含まないは主観が伴うことをご了承下さいませ。
* 研究論文といった高尚なものではなく、あくまでもブログの一記事。助言や異なる考え、誤植等は有り難く拝受しますが、テーマそのものに対しての否定や中傷等はお受けしません。

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◎まず最初に登場するのは
「長髄彦(ナガスネヒコ)」。


はっきりと「土蜘蛛」とは表記されていません。最後まで抵抗したことと、「髄」が長いという身体的特徴を伴うことから。また「土蜘蛛」の代表格であるために、記さずとも分かるであろうことから表記していないとも考えています。

余談ですが「髄」は胴が長いのか「スネ(脛)」が長いのかは、よく分かりません。



日向を発ち宇佐を経由、瀬戸内海を経て「難波の碕」へ。「白肩津」へ上陸した神武東征軍(→ 善根寺春日神社の記事参照)。

眼前に聳える「生駒山」を越えて大和入りしようと目論んだ東征軍に立ちはだかったのが長髄彦軍。

━━長髄彦は聞いて曰く「天神子(神倭磐余彦、=神武天皇)等が来た所以は、我が国を奪おうとしているに違いない」と。すぐに挙兵、「孔舍衞坂(くさのへのさか)」に於いて開戦となったと━━(紀の神武天皇 戊午年夏四月より、大意)


東征軍はここで敗戦。長子の五瀬命を失い、紀州へと向かうことになりました。

長髄彦とは大和入りの最終決戦でも対峙。これに勝利して大和平定となったわけです。ここでももう一度触れます。


■関連史跡(訪問済みのみ、饒速日命関連史跡は除く)
善根寺春日神社 … 孔舎衛坂の推定地

添御縣坐神社(奈良市三碓) … 長髄彦の墳墓説有り

(最終決戦の「桜井」周辺は後に上げます)


善根寺春日神社一の鳥居

添御縣坐神社の境内社 天之香語山命社。長髄彦の墳墓(伝承墓、前方後円墳)の括れ部分に鎮座。

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「土蜘蛛」に含めるかどうか迷いましたが、含めることにしました。もちろん「土蜘蛛」とは表記されていません。


「孔舎衛坂」での敗戦後、紀州に辿り着いた東征軍は「紀ノ川」は遡上し大和入りを図ります。

そこで対峙したのが名草戸畔。女酋長です。
━━東征軍は名草邑に至り名草戸畔を誅す━━(紀の神武天皇 戊午年夏六月より、大意)
この一文のみ。

「紀ノ川」遡上作戦を立て名草戸畔軍に勝利したのに、「紀ノ川」を遡上せず熊野から上陸する迂回作戦を取りました。矛盾した話。

「名草邑」(現在の和歌山市周辺)にはまったく異なる伝承がありました。確かに名草戸畔は失命したが勝利したのは名草戸畔軍であると。生々しくはっきりとした伝承。

どうやら真相は東征軍がここでも敗戦したようです。「土蜘蛛」と表記しようにもできなかったということなのだと思います。紀の編纂には紀氏も含まれているため、真相を知っていながらすっとぼけた…と思われます。


和歌山市の中心地から、美しい神奈備山型の山容(三角錐)をくっきりと望める「名草山」。ここが名草戸畔の祭祀場。山頂から山腹にかけて見事な磐座群が存在します。


■関連史跡(訪問済みのみ)
「名草山」 … 名草戸畔の祭祀場
名草神社(和歌山市吉原) … 名草神社の総本社
宇賀部神社 … 名草戸畔の頭を祀る

杉尾神社 … 名草戸畔の胴を祀る

千種神社 … 名草戸畔の足を祀る


「名草山」磐座群より東征軍が攻めてきたと思われる「和歌浦湾」を。


千種神社の御神木

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◎続いては丹敷戸畔(ニシキトベ)。
こちらも「土蜘蛛」の表記はありません。

もしかすると…大国を率いる「戸畔(酋長)」クラスになると「土蜘蛛」とは表記しないのか?そう言えば長髄彦も名草戸畔も丹敷戸畔も。


熊野沿岸部一帯を治めていたのではないかと考えています。わずかながら広範囲に伝承が残っています。もっとも多いのが那智勝浦。

「那智御瀧」は丹敷戸畔の祭祀場だった?などとこっそり考えています。誰も言い出さないし…根拠も無いし…「こっそり」にしておきます。


━━東征軍は進軍しました。そして熊野荒坂津、亦たの名 丹敷浦に至りました。因りて丹敷戸畔を誅しました━━(紀の神武天皇 戊午年夏六月より、大意)
このわずかな文章のみ。

あっさりとした文章です。かなりの戦が想定されるのですが。運良くあっさりと勝ってしまったのか、或いは伝承が無かったのか。

「熊野荒坂津」は候補地がいくつか存在し、よく分かっていません。三重県紀北町の「錦湾」、熊野市の「二木湾」、和歌山県新宮市の市街地周辺、新宮市「三輪崎」、那智勝浦町の周辺、串本町の周辺…など。


■関連史跡(訪問済みのみ、「熊野荒坂津」関連を除く)
熊野三所大神社 … 丹敷戸畔を祀る祠有り



熊野三所大神社の境内社 丹敷戸畔社