添御縣坐神社(三碓)
(そふのみあがたにますじんじゃ)


大和国添下郡
奈良市三碓(みつがらす)3-5-8
(P有)

■延喜式神名帳
添御縣坐神社 大 月次新嘗の論社

■祭神

建速須佐男之命
櫛稲田姫之命

武乳速之命(タケチハヤノミコト)


大和国六御縣社の一。奈良市「歌姫」という地に同名の添御縣坐神社があり、「式内大社 添御縣坐神社」については、両社とも論社に挙げられています。当社鎮座地は「富雄川」東岸から東方へ200m余り、緩やかな丘陵地。

◎比定については「神祇志料」や「神名帳考証」、「大和志」など多くが当社を支持。同名他社は添上郡に鎮座、当社は添下郡に鎮座、神名帳は添下郡であることから当社とするのが妥当なところかと。ただし添上郡のもっとも端、添下郡に近いところに鎮座します。

◎ところが「御県山」という字名があることから、「大和志料」は同名他社を支持しています。また当社は「鳥見郷」に鎮座することから、「鳥見御縣社」とするべきではないかとしています。

◎ご祭神は一座であり、武乳速之命が主祭神と考えられます。同名他社では地の祖神としているのに対して、当社では登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)としています(同名他社も同神とする説があるとしている)。つまり長髄彦神の聖地だったところに御縣神社が被さったということかと。

◎「新撰姓氏録」においては、「大和国 神別 天神 添縣主 出自津速魂命男武乳遣命也」とあり、武乳遣命というのが武乳速之命のことであろうとされます。天児屋根命の祖父が津速魂命、父が武乳遣命(武乳速之命)。

◎当社宮司の研究によると、なぜ添御縣坐神社が2ヵ所あるのかの問いに、都から見て表と裏の鬼門の両方に創建し都の守護としたのではという説を出しています。ところが同名他社は都の真北、当社はほぼ西。表裏の鬼門の位置とはずいぶんかけはなれています。

おそらくは添下郡の表鬼門と裏鬼門に鎮座させたというものとの言い間違いではないかと(宮司との会話上でのこと)

◎一方で地元民の多くの伝承から、当社の謎のご祭神は長髄彦神であることを導き出したとのこと。また西面する珍しいご本殿の向きから、綿密な調査の結果、饒速日神が鎮まるとされるシンボル的な「生駒山」の「般若窟」に春秋分の日に太陽が沈むことを発見しています。

◎ご本殿背後の丘陵は古墳であろうとされます。境内社の天之香具山神社、龍王神社への参道は裾部の側面を通りますが、前方後円墳であることがはっきりと分かります。全長50mほどでしょうか。宮司に確認を取ったところ、被葬者を長髄彦とする古墳であると地元では認識されているとのこと。

古墳として認定されていないこと、神域であるため踏み込むのは憚られること等から調査はなされていません。もし調査がなされたなら、大発見に至る可能性も。

◎ご本殿の右側(向かって左側)すぐの高台(後円部斜面)には、小野福麿公を祀るという摂社 福神宮が鎮座。これは和珥氏が後に16氏族に分かれたうちの一、小野氏の一人が祀られる社。当地を支配したとされており、当社に牛頭天王を勧請してきたようです。奈良時代、聖武天皇の時代に生きたとされているため、当社はこの時既に牛頭天王を祀る社と変わっていたように思われます。すると神名帳に列する「式内大社 添御縣坐神社」は当社は該当しないように思うのですが。


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


駐車場はこの向かって左に。


ご本殿の背後は古墳。





饒速日神が鎮まる生駒山、南面(左側)「般若窟」はあります。


ご本殿裏は形状から前方後円墳かと思います。これはそのくびれ部分。

境内社 天之香久山神社。前方部と後円部のちょうど括れ部分に鎮座しています。良質な陶土が採れたことに因む社。「先代旧事本紀」では饒速日神の御子神であるとされる神(実際は異なる)

最奥の龍王神社(豊玉彦命)。