杉尾神社 (海南市阪井)
紀伊国名草郡
和歌山県海南市阪井1858
(県道160号線沿いに大型P有り)
■祭神
誉田別命
[配祀] 表中底筒神 宇賀魂神 大己貴命 猿田彦神 大年神 奇稲田姫命 事代主命 市杵島姫命
海南市の東部郊外、「高倉山」(標高248.7m)の南裾に鎮座する社。通称「お腹さん」。「高倉山」北側には、当山と対峙する「城山」中腹に宇賀部神社が鎮座します。
◎宇賀部神社の由緒によると、神武東征の砌、「毛見浦」より上陸した皇軍と名草戸畔との激しい戦いは、和歌山市と海南市との市境にある「汐見峠」から「クモ池」で最後の戦闘が行われ、形勢不利となった名草戸畔は「高倉山」に退却、そこで誅され遺体は、頭・腹・足の三つに切断。そして「頭」を宇賀部神社に、「胴」を当社に、「足」は千種神社(現在記事改定作業中、リンクには飛びません)に葬られたとされます。
これは神武天皇即位前紀にみえる、「軍は名草邑に至り名草戸畔を誅す」というのに対応するもの。かつての名草地方(現在の和歌山市と海南市)の祭政を掌る女性酋長であったとみられます。
◎名草戸畔が「誅された」ことについて、地元では異なる伝承を有しています。特に宇賀部神社の社家を代々務める小野田氏の末裔である故小野田郎氏は、自家内々の秘伝として名草戸畔は「誅された」のではなく「退けた」、ところが戦死してしまったとされているようです(詳細は→宇賀部神社の記事にて)。
◎また遺体が切断されたことに対して一説には、遺体をばらして葬ると、そこでは五穀豊穣となると古代人は考えていたとも。これはオオゲツ姫神話などにもみられるもの。こちらの方が自然なことではないかと思われます。
◎当社の由緒沿革について和歌山県神社庁は以下を示しています。━━主祭神は杉尾明神と八幡宮。一村の氏神にして社殿美麗なり。奥に建久二年(1190~1199年)鎌倉時代初期に書せしを永禄(1558~1570年)室町時代に寫し(写し)かえたるよし書せり。元亀年中(1570~1573年)室町時代末期棟礼あり又慶長七年(1596~1615年)江戸時代初期に書せる祭事の記録ありて其巻末に去年大守浅野候より検地ありて神事の料なし困りて略式を新にする。「南紀神社禄」に云う「杉尾神社はいづれの神なることを知らず元亀年中、八幡宮の当社修造の棟札いまにありその銘に曰く、二品仁助親王とありこは仁和寺号、厳島御宝、すなわち伏見院貞敦親王の御子にして後、奈良院御猶子なり」━━
◎八幡神(誉田別命)に関して触れられてはいるものの、勧請した所以までは示されていません。かつて「高倉山」の頂に祀られていたという若宮八幡神社(誉田別命)が関係するのでしょうか。ただしそちらは宇賀部神社の上ノ宮であったと伝わります。
◎これらとは別に伝わる民話を、和歌山県神社庁は二つ紹介しています。
━━多分食養生からであろうが、由来については、昔紀の川の河口に1匹の大蛇が川岸に流れついた。
玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられ、これぞ神の化身と小野田に頭部、杉尾神社に腹部、千種神社に足、と3体を埋め神として祭った。
今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、夫婦であるとされている大蛇が生息しているのかもしれない━━
玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられ、これぞ神の化身と小野田に頭部、杉尾神社に腹部、千種神社に足、と3体を埋め神として祭った。
今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、夫婦であるとされている大蛇が生息しているのかもしれない━━
━━氏子中より浅野家に嫁いでいた娘があり、嫁ぎ行く前夜はげしい腹痛におそわれ、うわ言に「北の山に埋もれている古い器があるから、それにて亀の川の水を汲み神社に供えてほしい」言われた通りすると、不思議にも激痛がおさまり無事赤穂に嫁ぐことができた。
それ以来お腹の神様として崇敬されてきたとも云う━━
それ以来お腹の神様として崇敬されてきたとも云う━━
いずれも後世の附会かと。これらも御祭神が秘されたために起こったものではないかと思われます。
*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。