[大和国山邊郡] 都祁水分神社



■表記
都祁直(ツゲノアタヒ)
*「都祁」については都介、闘鶏など有り



■概要
神八井耳命(カムヤイミミノミコト、第2代綏靖天皇の同母兄)の後裔氏族。大和国山邊郡都祁郷を本拠地とします。
◎紀に見える「闘鶏国造」は同族であろうとみなされます。他所で国造家が「直」姓であることが多いため。
◎本流は多氏、日本最古級の名門氏族とされ枝分かれした氏族は多数。氏神は多坐弥志理都比古神社。この多氏の始祖に関しては神八井耳命ではないと考えています。◆椎根津彦命(倭宿禰)考 ~1◆椎根津彦命(倭宿禰)考 ~2にて詳述しています。従って同族である都祁直も同様。
一方で多氏支流が都祁直。総氏神は都祁水分神社。かつては都祁山口神社の地にあったとされ、奥山には一族の古代祭祀場であった「御社尾の磐座」が座しています。標高631mの美麗な「都介野岳(つげのだけ)」を一族のシンボル、神奈備山としていたと考えられます。

紀に見える一族について以下のような記述が見られます(いずれも大意)
◎第16代仁徳天皇六十二年の条
━━額田大中彦皇子が闘鶏で狩りをした時に、山の上から野の中を見ると、「廬(いおり)」のような物があった。闘鶏稲置大山主を召して聞くと「氷室」であると答えた。皇子は持ち帰り天皇に献上、以降春分の日に氷が献上された━━
◎第19代允恭天皇二年の条
━━忍坂大中姫を皇后として迎えた。姫が皇后になる前、まだ実家で暮らしていたとき、闘鶏国造が馬に乗って傍らにやって来た。そこで罵ったような言葉を浴びせた。皇后は「あなたのことは決して忘れない!」と心のうちで思った。
皇后になると、その馬に乗ってやって来て罵った者を探し出し殺そうとした。その者(闘鶏国造)は額を地面に付け、「その時は貴人になる方だと知らなかった」と詫びた。死刑は許されたが、「稲置」姓に落とされた━━

以上2箇所の記述には不可解なことが2点。まず闘鶏国造が忍坂大中姫の実家を知らないとは考えにくいこと。百歩譲ったとしても、実家はおそらく豪邸であったはずで、貴人が住んでいるだろうとは分かったはず。
もう一つは第19代允恭天皇の条に「稲置」姓に落とされたとしているにも関わらず、第16代仁徳天皇の条の記述に「闘鶏稲置大山主」と遡上して「稲置」姓が使われていること。

「稲置」は地方行政単位の一で、「縣(こほり)」を治めた首長のこと。天武朝の「八色の姓」では最下級の姓に位置付けられました。第13代成務天皇の御宇に設置したという記述が見られ、これを信じるなら、当時既に存在していたとみなされます。

雄略天皇の条にはこのような記述も。
◎第21代雄略天皇十二年の条
━━天皇は木工闘鶏御田(コダクミノツゲノミタ)に命じて楼閣を造らせた。御田は楼に登り縦横に飛び交う仕事ぶり。そのとき下にいた伊勢の采女がいて、その姿に惹かれて食饌をひっくり返してしまった。天皇は御田が采女を犯したと疑い、物部に渡し処刑しようとした。すると秦酒公(ハタノサケノキミ)が琴を弾き、「伊勢の野に繁る枝が尽きるまで大君に仕えたい、我が命もそれくらいあればな…と言っていた工匠が。なんと惜しいことだ」と言った。天皇は許した━━

これが紀に見える都祁直の最後の記述。「延喜式」主水司式には「都介氷室」が記されるため、これ以降も一族は存続していたと思われます。



[大和国山邊郡] 三陵墓西古墳



【都祁直 渡来人説と迎日信仰】
紀の不可解な記述にもあるように、実態は不明な部分も多く、謎の氏族とされます。そして新羅系渡来人説や、この闘鶏(都祁)の地で半独立国家を築いていた、さらには「闘鶏王国」などといった説までも出されています。

谷川健一氏や大和岩雄氏が既に指摘しているように、「都祁」は古代朝鮮語で「トキ」「トチ」「ツゲ」「トカ」といい、「日の出」の意味であると。

「三國遺事」に「迎日 都祁野」とあり、「三国史記」に「臨汀県 本斤烏支県 今迎日」とあります。
「都祁野」は「日の出の野」の義、「迎日」という漢地名は「日の出を客観視する表現語」であると。「三国史記」の「本斤烏」のうち「斤」は「斧」のこと、「斧」の朝鮮語は「トチェ・トクィ」。つまり「本斤烏」は「トオチ・トオキ」の音の表記であり、「都祁」と同じであると。
(大和岩雄氏「日本神話論」より抽出、当記事に合わせ調整)

この書では続けて、
━━韓国の浦項(迎日県)は海をひかえた港で、古地名に「臨汀県」とあり「日の出る聖処(海中)」で、「日神」を祭る場所は、その聖処の付近の陸地「都祈野」であった━━と記しています。

この「都祈野」という地の周辺に、大和国山邊郡の「都祁野岳」に山容がそっくりな山があるとのこと(他サイトより)
朝鮮半島より移住してきた都祁直(或いはもっと古い時代か)は、故郷とまったく同じ環境の地である「都祁」の地を探し当て、故郷で行っていたのと同様の祭祀を続けたのではないかと考えています。
これが大和朝廷が行う祭祀とは異質のもの。「半独立国家」「闘鶏王国」などと称される所以かと思います。

*「迎日」は日本読みで「げいにち」、朝鮮読みで「ヨンイル(ヨンニル)」。

この都祁直(闘鶏国造)に関して、最低限触れておかなければならないのが摂津国の坐摩神社(いかすりじんじゃ)と和泉国の等乃木神社

前掲の大和岩雄氏の書には以下のように。
━━坐摩神社の座摩神は難波宮以降、宮中で祭祀されたが、宮中の座摩神については、「延喜式」臨時祭に「座摩巫 都下国造氏の童女七歳以上の者を取りて、これに充てる。若し嫁す時には、弁官に申して替へて充てる」とあり、「座摩巫のみが、都下国造の七歳以上の童女に限られていた」が、「坐摩神社の宮司は渡辺の姓を名乗るが、三代前までは都下を名乗り、祖を都下国造とし、現在の宮司は五十七代目という━━と。

坐摩神社の旧社地(秀吉により遷座)が「迎日信仰」の聖地であったということが窺えます。

この「都下国造」については都祁氏とは別氏族とする説もありますが、それならなぜ区別できる表記にしなかったのかという問題があります。個人的には都祁氏が摂津国から大和国山邊郡都祁郷へと移住して来たものと考えます。

一方、等乃木神社の「トノキ」は本来は「トキノ」だが、「トキ」は土岐・都幾、都祁・都下・闘鶏・菟餓とも書きく。「トキ」は漢文読みであるが、呉音は「ツゲ」と訓むと。

坐摩神社等乃木神社が関わるとなると、当然ながら河内国の恩智神社が関わり、摂津国の住吉大社までもが関わります。また河内国の天照大神高座神社や摂津国の比賣許曾神社(記事未作成)なども関わることとなります。あまりに壮大なスケールとなるためここでは触れませんが。
もちろん神功皇后や船木氏、秦氏、アメノヒボコ神、下照姫神といった新羅系の神々が大いに関わります。


【谷川健一氏が説く「都祁」】

都祁の住民は「山人(やまびと)」と見なされていました。山人は蔓草を身にまとった異風な様子をしている、と大和国中(大和盆地のこと)の里びとには思われていました。彼らは年の暮になると、山の産物を山づと「山の土産(みやげ)」として、里に降りて参りますと。


これは「なら学」というシンポジウムで谷川氏が論じられたもの。


ここでは「都祁」を「三輪山」の東側の山地と捉え、「降りて来る里」というのは「穴師の里」(穴師坐兵主神社の麓)であるとしています。



■系譜
武比古命 … 成務朝の初代都祁国造
赤目君… 応神朝の都祁国造
大山主君 … 仁徳朝の国造、「氷室」
角古君 … 允恭朝に稲置に格下げ
他に闘鶏御田(雄略朝の木工)


■関連史跡等 (参拝済みのみ)
[大和国山邊郡] 都祁水分神社
[大和国山邊郡] 都祁山口神社
[大和国山邊郡] 「御社尾の磐座」
[大和国山邊郡] 都祁直霊石

[大和国山邊郡] 三陵墓東古墳

[大和国山邊郡] 三陵墓西古墳

[大和国山邊郡] 三陵墓南古墳

[大和国山邊郡] 氷室神社(天理市福住町)
[大和国山邊郡] 復元氷室

[大和国山邊郡] 葛神社(奈良市藺生町)
[大和国山邊郡] 森神さん 


*関連社・史跡等
[摂津国] 坐摩神社
[和泉国] 等乃木神社
[河内国高安郡] 恩智神社
[河内国高安郡] 天照大神高座神社



[大和国山邊郡] 都祁直霊石