葛木御歳神社


大和国葛上郡
奈良県御所市東持田269
(P有、R24号からの案内標識有)

■延喜式神名帳
葛木御歳神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
郷社

■祭神



背後の「御歳山」(禁足地)を御神体とする社。奥山も背後にあり、また大穴持神社が鎮座する「唐笠山」なども尾根続きとなっています。
◎朝廷の「祈年祭」では、祝詞で最初に読み上げられ、かつその祭の中核をなす御歳神の全国総本社。「祈年祭祝詞」では「御歳皇神(みとしのすめがみ)等の前に曰さく…(以下略)」として、本題が奏上されます。
また「祈念祭」は年の始めに五穀豊穣を祈るものとして、「年神」を祀ることが正月の中心行事ともなっています。本居宣長は「登志(年、歳)とは穀のことなり」としています。
◎「古語拾遺」の末尾に、特殊な動物を供える事の因縁を物語る伝説が載せられています。

━━昔、神代に大地主神(オオトコヌシノカミ)は田を造営する日に牛の宍(牛肉)を田人に食べさせた。そのとき御歳神の子がその田にやってきて、饗(あへ、ここでは牛肉のこと)に唾を吐いて帰り、その状況を父に報告した。御歳神は怒り、蝗(おおねむし、=イナゴ)をその田に放ち、苗葉はたちまちに枯れ損なわせ篠竹になした。ここで大地主神は片巫(かたかむなぎ) [志止止鳥・シトトトリ]・肱巫(ヒジカムナギ) [今俗に云う竈輪(かまわ)と米占(よねうら)] をして、その理由を占い求めたところ、「御歳神の祟りであるため白猪・白馬・白鶏を献上しその怒りを解くべきだ」となった。その教え通りに謝り奉った。御歳神は答えて言った。「まことに我が意志である。麻柄を桛(カセヒ、糸を巻き取る道具)を作り、それで宜しく桛をするように。乃ちその葉で蝗を掃い、天押草で蝗を押し、烏扇で蝗を扇ぎなさい。もしそれでも蝗が出て来ないならば、牛の宍を田の溝の口に置き、男茎の形にして加え添え [是は御歳神の心を和ませる也] 薏子(ツスダマ、=ハトムギ)・蜀椒(ハルハジカミ、=山椒)・呉桃(クルミ)の葉と塩をその畔に分けて置くように」と。[古語で薏子は都須玉也] 仍ちその教えに従うと、苗葉がまた茂り、年穀も豊かに実った。是は今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る由縁である━━
御歳神大歳神の御子神。記では香用比売(カグヨヒメ)との間に生まれたとあります。大歳神御歳神はともに穀物神であり大差は無いと思われます。ところが上記の「御歳皇神等」と複数であるかの如くに表されており、「御歳神」という複数の神が存在したともとれます。そこから大歳神は「実り」全体のことを、御歳神は五穀のうちの特定の穀の収穫物を司る神だったとする説も。

なお「お年だま」の語源は「御歳魂(おとしだま)」であり、御歳神に由来しています。
◎鴨氏が奉斎した神社であり上鴨社(高鴨神社)、中鴨社(当社)、下鴨社(鴨都波神社)とも称されます。鴨族がどんどん麓へと移住して来ている様子がみてとれます。鴨都波神社の周辺に広がる遺跡は弥生時代中期~古墳時代のもの。そこから鑑みて、当社創祀はその頃以前からと言えるでしょうか。
◎ご祭神は御歳神とされますが、「先代旧事本紀」には「高照光姫大神命 坐倭國葛上郡御歳神社」とあり、「大神分身類社鈔」という大神神社系の書には「長柄比売神社一座 大和国葛上郡 曰御歳神社 高照光姫命」とあり、高照光姫を祭神とする説もあります。高照光姫は下照姫と同神とする説が有力。背後の「御歳山」や奥山の反対側の麓には、大倉姫(下照姫と同神とされる)を祀る神社が2社鎮座しています(古瀬の大倉姫神社戸毛の大倉姫神社)。ただし当ブログ内では、高照光姫と下照姫を別神であるとする説を採ります。また古瀬の大倉姫神社戸毛の大倉姫神社はともに高照光姫を祀ると考えます。
◎本居宣長はこの説をばっさり切り捨てていますが、無視し難いのも事実。
「祈年祭祝詞」に「白馬・白猪・白鶏を備え奉りて…」とありますが、「古語拾遺」には御歳神の祟りで稲が枯れたとし、鎮めるために「白馬・白猪・白鶏」を献じるようになったと記されています。これは中国あるいは新羅から伝わった「殺牛祭祀」に類似するものとして、渡来系職能集団が当社の祭祀に関わったのではないかとみる向きもあります。
◎その渡来系集団とは、葛城襲津彦が捕虜として連れて来たとされます。彼らが奉斎していたのが下照姫。彼らが行っていた田植え時期の「殺牛祭祀」で崇めていたのが、「御歳神」として祀られる太陽神であり、下照姫であったという説も。御歳神と下照姫とを結び付けることについては少々強引さが見られるものの、下照姫を太陽神とみなしていることなどは卓見に値するかと思います。
◎なおご神体はご本殿背後の「御歳山」。連なる背後の山(奥山)にも磐座もいくつかあり、登拝も可(宮司許可が必要)
その奥山から「唐笠山」にかけて、かつては銅山があり、弥生時代から採掘されていたのではないでしょうか。山の南側の「五百家(いうか)」を通り、志那都比古神社を経由し高鴨神社の方へ搬送されていたと考えているのは谷川健一氏。
奥山には昭和の始め頃まで多くの小祠があったようです。
◎「日本三代実録」巻二の貞観元年(859年)正月廿七日の条に神階授与等の記事が見られます。大和國の項では、
━━從一位 大己貴神(大名持神社か)、正二位 葛木御歳神、從二位 高市御縣鴨八重事代主神(飛鳥坐神社または天高市神社か)、從二位勲二等 大神大物主神、從二位勲三等 大和大國魂神(大和神社)、正三位勲六等 石上神、正三位 高鴨神並從一位、正三位勲二等 葛木一言主神 高天彦神 葛木火雷神並從二位 …(以下略)━━
当社の当時に於ける社格の高さが窺い知れます。
◎大和の寂れた古社(由緒が高いにもかかわらず)の一つですが、南方には「鳥井戸」という地名も残されており、かつては広大な神域を誇る大社であったことが窺えます。
また現在は再興のため女性宮司が奔走中。神寂びた雰囲気を残しつつも、以前よりかなり美しくなりました。

*各種祭事等は最下部にて掲載。
*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


現在は石段脇に幟が立てられています。

東川宮司より頂いた写真。




東川宮司より頂いた写真。


ご本殿の瑞垣内に特別に入らせて頂き写真を撮りました。宮司さんとはとても親しくお付き合い頂いております。

奥山への鳥居(ここから先は宮司許可が必要)。


令和二年の湯立神事&祈念祭

2019年秋に改装した祖霊社。氏子の祖先を祀っているだけでなく、これからの霊も氏子に関わらず一般者も祀っていく予定。私もいずれここに眠ることになっています。





令和三年の茅の輪潜り。


年末年始にタイミングが合えば賜ることができます。


御歳山 磐座(アメンバー限定記事)
◎奥山登拝・注連縄かけ
◎新嘗祭・奥山登拝
◎夏越の大祓

◎境内併設サロン&カフェ「まつり香」併設。