脱出ゲーム、好き?
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住んでいるところ近くの街は、結構な数の脱出ゲーム屋さんがあります。行ったことはありませんが、それなりに賑わっているようですね。貸ビルの遊休フロアを安く使うようなビジネスモデルなのですかね?
やっぱり今日は、二・二六事件の日(1936年、昭和11年)。
「二・二六事件を契機に日本は軍国主義に傾く」…と書かれているものを読んだことはありませんか?多くの人々の認識だと思いますし、私もそうでした。その認識はある一面において誤りではありませんが、やはりこの通説は妥協の産物でしかない部分もあります。「軍国主義」と聞いただけでアレルギー反応を起こされる方がいますが、つぶさに見てみないとその正体はわかりません。
この事件の思想的支柱は、北一輝(きたいっき、本名は北輝次郎、1883-1937)。北が「日本改造法案大綱」で主張したのは、下記のようなことでした。
言論の自由、基本的人権尊重、華族制廃止(貴族院も廃止)、北の言うところの「国民の天皇」への移行、農地改革、普通選挙、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体、皇室財産削減、労働者の権利確保、労働争議とストライキの禁止、オーストラリアとシベリアを戦争によって獲得するwikipedia 「日本改造法案大綱」
これだけを読めば、まだくすぶっていた明治維新の修正の夢を追う、社会活動家だったのでしょう。原文を読むと今の視点からすれば、飛躍や思い込みに見えるところがあったりして、もろ手を挙げてというわけには行きませんが、主張としてはリベラル寄りの国家社会主義者といったところでしょうか。優しいんです。天皇陛下と皇室の扱いが「ん?」なのと、オーストラリアとシベリアは不要ですが、それ以外は今にあてはめたって、結構使えそうです。
この北一輝の思想を担いだ、皇道派の陸軍大尉野中四郎は次のように「蹶起趣意書」(けっきしゅいしょ)に書いています。これで時代背景が想像できます。
<前略>然(しか)るに頃来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我慾(がよく)を恣(ほしいまま)にし至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)之れ働き万民の生成化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随(したが)つて外侮外患日を逐(お)うて激化す、所謂(いわゆる)元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。<攻略>蹶起趣意書(けっきしゅいしょ) 昭和拾壱年弐月弐拾六日陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同
ちょっと読みにくいし、当時の言葉は強烈に見えすぎるので、現代語に開いてみます。
近頃は、勝手なことばかりを言い、悪いことを平気でやる連中が大量発生し、他人を顧みず私欲をむき出しにやりたい放題やって、天皇陛下絶対の尊厳を軽くみて分際をわきまえず、国民の自然な暮らしを害して、激しい苦しみをもたらしながら、外国から侮られたり圧力をかけられたりすることが日ごとに激化している。いわゆる、元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国を破壊する元凶である。
さらに、今風に、いまいまの現象を当てはめると、次のようになります。
「今だけ、金だけ、自分だけー」みたいな連中が大量発生して、やりたい放題。日本とか国とかカンケーねぇよと偉そうにして、庶民には低賃金を押し付けて格差や貧困に目も向けず、グローバル資本にはへーこらして、シナや半島が文句をつけてくるばかりじゃなく、北朝鮮に至ってはミサイルを撃ち込んでくるようになった。首相、内閣、議員と民間議員w、官僚、投資家、大企業、政党などはこの国を破壊する元凶だ。
…、いさかか下品ですが、こんな感じですかね。
戦前を学び、戦後と比べると、いつも状況には大して変わりがないようにも見えます。ただ、戦前には維新と西南の役や戊辰戦争の生々しい名残があって、江戸時代よりむしろ理想化された武士の姿があって、命をかけて世直しを試みる人々がいて、今とは比べ物にならない緊張感があったのでしょう。そして、世界ではまだまだ武闘派が国を揺るがす事件がそこかしこで起きています。この感覚は、捨ててはならないように思います。「世が世なら」という議員や学者、実業家はやっぱりリアルに想像してしまいます。
人殺しや暴力は理法に適いません。ですから二・二六事件を美化ないしは弁護しようというつもりはありませんが、二・二六事件それじたいが日本を軍国主義に導いたのではなくて、二・二六事件が後の軍部と政治家に利用されたというのが実情のようです。
二・二六事件を主導した「皇道派」は、多数の勢力ではなく、また北一輝の思想は禁書になったこともあってそれほど広まったものではなかったようです。二・二六の青年将校たちの一部は故郷の家族が貧困のどん底に喘ぎ、軍の内部では「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と山下泰文に痛烈に批判される辻政信らとの対立を抱えていました。また、皇道派はソヴィエト連邦と共産主義の脅威をいち早く見抜き、ソヴィエトとの早期の開戦と殲滅を企図していました。その危機感は非常に強いものがあったのでしょう。そして純粋だったように見えます。
対立した「統制派」はむしろ後付けで生まれたものと言われています。すでに先に暴走していた関東軍による満州事変(1932年)の立役者板垣征次郎、石原莞爾も、疲弊する日本の貧困層の救済・景気回復を動機として満州を制圧し、国民の喝采を浴びました。そんな中での二・二六事件は、軍部が議会に参加する一方で思想犯保護観察法を成立させます。その後、現場に出世欲と功名心に目が眩んだ参謀の辻政信、服部卓四郎、瀬島竜三(ご遺族には恐縮だがこの3名の振る舞いは銘肝した方がよい。『失敗の本質』を読むよりも)を含む軍部統制派と政治家たちは勢力の駆け引きの中で、現場で起きた状況を利用して自らの利益と立場の最大化を図ろうとしたのではないかと見えることもあります。しかし、その流れは、ルーズヴェルトの策略にまんまと嵌ってしまいました。
日本の「軍国主義」と言われる時代は、実は政権運営に歴史を持たない不慣れな支配者たちが、放埓な私欲の陥穽に嵌った時代だったのかもしれません。
千住明、”映画『226』サウンドトラック 01.Prologue"(1989)
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